12・変わらないもの
要の手は氷のように冷たい。
小さく震えている指ごと強く握っているのに
冷たいままだった。
蘭は要の声だけを待っていた。
「…悪いことを、したのかもしれない」
要の唇も震えていた。
蘭は一度頷いて要の手を握り直した。
「明里さんと付き合ってあげなかったから?
好きでもないのに?」
「理屈ではそうだよ。好きでもない相手と
付き合ったら相手にも悪い。
でも、こんなことになるなら、」
「嘘をついてでも付き合ったら良かった?」
「…かもしれない」
結果論だ。
こんなことになってしまったからこそ
明里をフッたことが悪いことのように思えるのだ。
しかし要が心の底からそう思っていないことは
蘭にはわかっていた。
「俺ならそっちの方が嫌だな。
嘘ついて付き合ってもらっても…
心はもらえないんだもんな。そんなの、よけいに辛いよ」
蘭の言うことは要も思っていたことだ。
いくら恋人同士という名前がついていても心がこちらを向いていなかったら虚しいだけだ。
要は小さく頷いたが、その後すぐに首を横に振った。
「明里に告白された時…
俺は自分の好きな人と結ばれることなんてないから明里と付き合った方がいいのかな、って
正直迷ったんだ。
彼女は気が合うし、良い人だし」
もしかしたら明里のことを恋愛対象として見られるようになるかもしれないと要は思った。
しかしすぐにそれは明里に失礼になると気づいたのだ。
「良い人だからこそ、友人として好きな人だからこそそんな良い加減なことはできない。
それに冷静に考えたら明里を好きになることは
きっとない」
これ以上ないというほど好きな人がいるのだ。
そんな自分のわがままのために明里の時間を
使わせるなんてできるはずもなかった。
「うん。その判断は正解だったと思うよ。
明里さんのためだと考えた判断だったんだから」
「…」
「だから、要は悪くないんだよ。
明里さんだって本当はわかってるはずだよ」
自ら命を絶つなんて余程のことだ。
蘭は、明里が命を絶った理由が本当に要にフラれたからだけなのだろうかと考えていた。
「そっか…。それでもうそういうことが起こらないように要は変わったんだね」
「人と関わらなければいい。
もう誰も傷つけたくないんだ」
「うん」
二人の手は解かれることなく重なっている。
しかしまだ温かくはならず、涙に濡れた要の顔も
青白かった。
「もう、いいんじゃない?」
「いや、」
「一生そうするの?」
「そのつもり。償いも…」
明里をフッたことは間違っていないが結果が全てだ。
フラれたことにより明里は命を終わらせた。
要にとってそれが全てなのだ。
「わかった」
「…蘭」
また一人に戻るだけだ。
新しい仕事先を見つけて、誰とも関わらずに
黙々と仕事をして生活するだけだ。
そうしてようやく一生を終えるのだ。
要が目を伏せると、また涙が一つ頬をつたった。
「最後に、蘭とこうやって話せて良かった」
終わりみたいな言い方をするな、と怒っていた蘭も要の思いを汲んで納得したようだ。
わかった、と言った蘭に、要は泣き笑いの顔で
頭を下げた。
「忘れないよ。蘭のこと…
これからも忘れない」
「何言ってんの?勘違いしてないか?」
「勘違い?」
「人と関わらないで生きていくってのはわかったけど俺たちは別だろ?
塔太や菜々さん、桜ちゃん。で、俺。
あのデザイン室の中だけならいいだろ?」
要の目から涙が次々と落ちていく。
すっかり濡れてしまった要の頬に、蘭は暖かい自分の手を当てた。
要を信じる。なんでも受け入れる。
それはこれからも同じなのだ。
「ただの仕事仲間だけどさ、良いやつばっかだろ?
それにうちの仕事、地味だけど楽しいだろ。
ほら、この前要が描いた駅前の団子屋の看板。
団子が踊ってるー!って子どもたちに大好評なんだぜ?
俺、見に行ってるんだから」
「う、ううぅ…」
「要さ、俺のぶどうくんも見に行ってくれてたよな」
本当に素朴な仕事ばかりだ。
しかしその絵の前を通る人たちがほんの少しでも
ほんわかとしてくれたらいい。
蘭の言う通りだった。
要はアトリエピーチの仕事が大好きだった。
子どもたちや高齢者の笑顔。
自分の描いたイラストが誰かに笑顔を届けている。
辞める、と考えただけで胸が苦しくなるほど
要はもう、アトリエピーチを愛していた。
「う、うっ、…辞めたく、」
「ない、よな?辞めさせないから」
「でも、お、俺…」
「なあ、要。篠塚光里さんと話をしよう。
俺も同席するから」
もう数年経っている。
光里の感情も変化しているはず。
それにわざわざ要を探して訪ねてきたのは
理由があるはずだ。
光里が何を伝えに来たのか、何をしに来たのか、話してみなければわからない。
このままでは何も始まらないし、終わることも
できないのだ。
それによって要の傷がさらに深くなるかもしれないが、自分も一緒にいる。
蘭はどんなことがあっても要を信じることを
辞めるつもりはないのだから。
蘭が優しくそう話すと、要は涙を手の甲で
強く拭いて座り直した。
「篠塚さんがわざわざ訪ねてきた理由。
他に何かあるかもしれないぜ」
「…うん」
「話そう。そして全部終わらせよう。
それでも要が人と関わらずに生きていきたいって思うんならそれでもいい。
でも、俺たちはずっと要の仲間だから」
高校のとき、蘭を知ってからはいつも見ていた。
物陰から見ていた蘭は優しかった。
誰かのために動いてばかりの人だった。
いつか自分もそういう人になりたい。
要はいつしかそう思うようになっていたのだ。
そして10年経って出会った蘭は
やはり優しかった。
相変わらず人のために汗水を流し、
人を笑顔にするために仕事をしていた。
「ありがとう蘭。話してみる」
「おう」
「悪いけど、今の話…デザイン室のみんなには
蘭から話してほしい」
「要…」
要の顔にほんの少し赤みが挿した。
蘭はそれがうれしくて、思い切り笑って頷いた。
「任せろ」
要もニッコリと笑った。
ぶつかったあの日から蘭の心を掴んで放さない
要は、その心は、変わってなどいなかった。
その日の夜、蘭はデザイン室のメンバーに、
話があるので明日少し早めに出社してほしい、とラインを送った。
始業時間の1時間前。
蘭がデザイン室で待っていると3人が次々と
やってきた。
「みんなごめんなさい」
「おはよ。謝んなくてもいいわよ。
山岡くんのことでしょ?」
「菜々さん…。うん。そうなんだ」
桜と塔太も微笑んでいる。
4人は部屋の奥にある向かい合わせに置いた
長椅子に別れて座った。
昨夜、要から聞いた話を蘭は3人に共有した。
「山岡が、俺からみんなに話してほしいって」
「あいつ。変わったよな」
「変わりたかったんですよ。きっと」
「私たちいいヤツらだからね」
明里のことも話したのに、塔太も菜々も桜も
態度一つ変えない。
信じるとはこういうことなのだ。
蘭も良い仲間に巡り会えたことを感謝していた。
「今度、篠塚光里が訪ねてきたら俺が同席して
話をすることにした」
「そうね。違う用がありそうだし」
「自殺って、最後は理由とかどうでも良くなるんですよ」
3人の視線が桜に集まった。
まるで経験したかのような桜の言葉に蘭は息を
飲んだ。
「最初は理由がもちろんあるんですけど
途中からはもう何が何でも死にたいってなるんです。
死神が憑くんですよ。
だからどんなことをしてでも死のうとする」
「うつ状態、ってことね」
「その通り。それを死神が憑くって言うんですって。
私の場合だけど当初の理由なんてどうでも
良くなったんです。
てか、なんで私は死のうとしてるの?って
思ったりもしたんですよ。
それなのになんとしてでも死のうって考えちゃって」
死神はどんな手を使ってでも魂を手に入れようとする。
なんとしてでも死のうと考えていた桜のそんな状態を
死神が憑くと表現するのだ。
「私みたいになんでかわかんないけど途中で死神がどっか行っちゃった人はこの世に残るんです」
そのときの桜の感情に波があったのだ。
ずっと落ち続けていたら死神も桜を離さなかった
のかもしれない。
その波がありがたいことに桜をこの世に
残してくれたのだ。
「明里さんは私と違うかもしれないけど
山岡さんが全部自分のせいだと思い込まなくてもいいんじゃないかな」
「ねえ桜ちゃん、
それ、山岡に言ってやってくれない?
今日、来ると思うから」
「もちろんです。経験談なんで任せてください」
ぽん、と桜が自分の胸を叩く。
可愛らしくたくましいその笑顔に、菜々も塔太も蘭も泣きそうになった。
始業時間の10分前。
要がいつも出社してくる時間だ。
4人は誰からともなく入り口のドアを見つめていた。
「おはようございます」
静かに開いたドア。
いつもの如く要がその声の通り静かにデザイン室に入って来た。
「おはようー」
「おはよう」
「おはようございます」
菜々と塔太、そして桜がいつも通りの挨拶をすると
上下の唇を噛んだ要が少し微笑んで自分のデスクに座った。
バッグからタブレットを取り出して締め切りを
確認する。
変更はなかったので要はスケッチブックを
取り出した。
「おはよ」
要の横に立った蘭は優しく微笑んだ。
「おはよ」
「みんなに話したよ」
要が顔を上げると塔太と菜々がニコッと笑って
頷いていた。
「山岡さん」
蘭の後ろから桜がひょこっと顔を覗かせる。
さっきの話をしてくれるのだとわかった蘭は
要の肩をぽんぽん、としてから自分のデスクに
戻った。
桜は要の隣に座って囁くように話をしている。
要は真剣な表情で聞いていたが、やがて驚いた顔をした。
「死神…」
「そうです。私は死神に取り憑かれんです」
「…そんなことがあるんだね」
桜は自分の経験談だけど、と言って微笑んだ。
明里も最初のきっかけはフラれたことだったなかもしれないが、もし、桜と同じく死神に取り憑かれていたとしたら。
要にフラれたことが全ての理由ではない
可能性もあるのだ。
桜の話を聞いた要の表情がほんの少し和らいだ。
今は要を少しでも楽にしてやって、一人じゃないと
信じてもらうことが大切なのだ。
桜は身振り手振りを交えながら要と話している。
桜の笑顔につられて要も安心したように
何度も頷いていた。
「良かった」
一人呟いた蘭はイラストに色を入れていく。
要の心もこんな風にたくさんの色に囲まれてほしい、と願いながら丁寧に色を挿していった。
この日の仕事帰り、蘭と塔太と要は三人で居酒屋に行った。
いつも通り口数の少ない要。
蘭も塔太もそんなことには触れずにこれまたいつも通り仕事や依頼主についての話をした。
「お前らは電車だな」
「うん」
「また明日なー」
手を振りながら塔太が帰って行く。
塔太に要が自分のことを覚えていてくれた、ということを言わなければならない。
塔太は心配してくれていた。要のことも自分のことも。
篠塚光里のことが片付いたら塔太に全て話そう。
冷たい夜風に乱された髪を直すことなく
蘭は帰って行く塔太の背中を見つめていた。
「要。うち来るか?」
ガタン、と揺れた電車。吊り革に掴まっているが二人の体は大きく傾いた。
「昨日とか一人で大丈夫だった?」
蘭の家から要が帰ったのは深夜だった。
少しずつ落ち着いてきた要は帰るから、と
タクシーを呼んだのだ。
一人にしたくないと蘭は思っていたが
一人で考えなくてはならないこともあるかもしれない。
どちらが良いのか、と思案しているうちに
要はタクシーを呼んでいた。
「大丈夫だよ。今日、桜ちゃんやみんなと話して俺は一人じゃないって思えたから」
「そっか」
「明里の妹と話をして…
これからの俺のやるべきことの答えを出すよ。
どっちに転ぶかわからないけど」
もうすぐ要が降りる駅に到着する。
電車が揺れるのに合わせて窓の外の灯りも揺れているようにキラキラと光っていた。
「どっちに転んでもいい。俺たちがいるよ。
答えなんて一人で出さなくてもいいじゃん」
「うん。出せなかったら助けてもらう」
「おう」
電車が到着するアナウンスが流れた。
降りたあとすぐに閉まったドア越しに
振り向いた要はまっすぐな目をしていて、
高校生のときと同じ表情だった。




