マナリムは牙を剥かん②
……クロートの目に飛び込んできたのは、物語ではなく。
レリルが懸命に書きなぐった吐露――だった。
震えた字が……それを表していて。
クロートはぎゅっと唇を結んだ。
◇◇◇
あの日、世界は――牙を剥いた。
私たちのいた【ダルアークの迷宮】だけじゃなかった。
あらゆる迷宮で『マナレイド』が発生し、倒したばかりの魔物が即座に『リスポーン』し、『レイドボス』が現れて。
そのなかで、アルさんが、『アルテミ』の皆が――優しくしてくれたあの人たちの命が――一瞬で摘み取られてしまった。
それだけでなく、多くの人が亡くなったと聞いた。
いまでも信じたくない。でも現実なんだ。
……私はなにもできなかった。震えているだけ――それだけ。
でも、クロートは違う。
アルさんの言葉を守ってレザを止めた。
自分の休む時間を削りながら、信じられないほどの強さでレザと私を迷宮から連れ出してくれた。
クロートだって――泣いていたのに。
私は全部をクロートに押し付けて、背負わせて、なにもしなかったんだ。
……甘えすぎていた。迷宮の恐さをわかったつもりでいて、ただのひとつも理解していなかった。
クロートに謝りたくても、倒れてから何日も目覚めない……呼んでも応えてくれない。
なにより吐き気がするのは【ダルアークの迷宮】から逃げ出すとき、私の意識がとても明瞭で……たぶん、クロートやレザほど疲れてもいなかったこと。
勿論、どうしようもないくらい恐かったし、苦しかったし、泣きたくてたまらなかったけど……体は――調子がいいと言い切れるほど軽くて、こんなときに、どうして元気なんだろうって気持ち悪かった――。
……ううん、ここで私の話はどうでもいいことだ。
これから私たち【監視人】は、クロートたち【迷宮宝箱設置人】と一緒に、いままでとは比べものにならないほど危険な迷宮へと挑むことになるはず。
どうしてこんなことになったのか、世界はどうなってしまうのか……私は……
◇◇◇
文章はそこで途切れていて、クロートは音を立てずに本を閉じた。
――全部を押し付けられたなんて、全然思ってないんだけどな……。
レリルの吐露を見るかぎり、彼女はだいぶ思い詰めているようだ。
――背負うとかそんなことを言い出したら、『家族』をいっぺんに失ったレザはどうなんだよ?
――俺の気まぐれで、あんな危険な場所に一緒に行くことになったレリルは?
――そもそも、『アルテミ』だって……。
そう考えながらよく見れば、レリルの頬には涙の痕があり、クロートは思わず手を伸ばす。
「……」
触れた頬は柔らかく、長い睫毛はまだ朝露のような雫に濡れている。
クロートは彼女の横髪を優しく払うと、小さく息を吐いた。
――レリルの文章からすると、俺、数日間は意識を失っていたみたいだな……。
『ノーティティア』までの記憶は曖昧だったが、レザを連れ帰ることだけを考えていたのをクロートはしっかりと覚えていた。
しかし、自分が無理をしているとは微塵も思っていなかった――それほど必死だった――ので、倒れるほど弱っていたことには、これっぽっちも気付いていなかったのだ。
クロートは自分が情けなくてため息をつき、隣で身動いだレリルに、はっと目を見開いた。
「うぅ、ん……」
レリルの瞼が小さく震えてゆっくりと持ち上がり、新芽のような黄みがかった翠色の瞳が、ぼんやりとあたりを見回す。
彼女は握っていた白薔薇のペンダントを確かめるように手をもぞもぞすると、視線を上げ――硬直した。
「……よお、おはよう」
「……く、クロート……?」
その瞬間、レリルはガバッと体を起こしてクロートを上から下まで確認し、眉を寄せて唇を噤む。
その瞳にじわり涙が滲むのを、クロートは黙ったままじっと見詰めていた。
「……」
レリルは懸命に涙を堪えていたが、数秒後、そのままクロートの右肩に額を押し付ける。
「……起きなかったら、どう、しようかと……」
その声と肩は震えていたけれど、クロートはレザのときと同じように気付かないふりをして……言葉を紡いだ。
「ちょっと頑張りすぎたみたいだな……ごめん、心配かけた」
そっと左腕を持ち上げて、クロートはレリルの右肩に触れる。
……温かくて、花のような匂い――甘ったるい臭いではなく、優しさに満ちたとてもいい香りだ――がして。
少しだけ、ほんの少しだけ。クロートの唇に笑みが浮かぶ。
――あぁ、生きて戻ってきたんだ。俺たち。
胸が熱くなった瞬間、彼の目からポロッと雫がこぼれた。
「あれ……?」
まったく予期していなかったことに、クロート自身が身を堅くしたほどだ。
は、と息を吸ったクロートに、レリルが少しだけ顔を上げて濡れた瞳を細める。
「――ごめんね、クロート。つらかったよね」
「……あ、え、えぇと……」
クロートは自分の目からぽろぽろと落ちてくる雫に困惑し、必死で息を吸い、吐き出した。
――俺……どうして泣いてなんか。
レリルはそんなクロートに腕を伸ばすと、その背中に腕を回し、ぽんぽんと叩く。
「――私、強くなりたい」
「……え?」
「――もう、あんな恐い思いはしたくない。でも、クロートはまた迷宮に挑むでしょう? だから、強くなりたい」
「……」
「今度は、見ているだけなんてしない。世界が牙を剥くなら、私は――」
クロートは息を呑み、自分の【監視人】の言葉を聞き漏らすまいとして……。
「おーい! 女の子ー!」
場違いなほど明るい声に、びくりと肩を跳ねさせた。
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