それは絶対の覇者たるか⑨
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その日の午後は……なにかが違った。
急に空気が重苦しくなり、気持ちの悪い静けさが満ちたのだ。
クロートは警戒を解くことなく、あたりを窺いながら空気の臭いを確かめる。
――まだなんの臭いも感じないけど……なんか変だ。
「…………」
なにかを感じ取っているらしく、いつも賑やかなレザでさえ言葉数が少ない。
【ダルアークの迷宮】の深部――明確な区切りはなかったが――は、生命を拒絶しているようだった。
「……なにかがいるんだけど……なにかわからない。気持ち悪い」
しばらくぶりに声を発したかと思えば、レザは嫌なことを言う。
「なにかって……またプテロプースとか、センチピーディオとか……?」
レリルは眉尻を下げ、おそるおそるあたりを見回した。
「ううん、もっと……嫌な感じのやつ。……まあ、女の子のことは俺が守ってあげるからねー、心配ないないー!」
ぽろりと言ってから失言だと思ったのか、レザは急に明るい声でレリルに笑いかける。
クロートはそんな余裕はあるのかと呆れて、ため息をこぼしてから隣のレリルにそっと告げた。
(まだなにも臭わない。大丈夫)
甘ったるい臭いがないからといって安全なわけではないのだが、気休めでも、なにもないよりはマシだろう。
レリルは小さく頷きを返した。
「黒龍がいた場所はこの先だ。通常、このあたりには強力な魔物が生息しているが……ありがたいことに、まだ『リスポーン』していないんだろう。早いところ『イミティオ』を捜して仕留めるぞ」
アルはいつもよりも声を落として言うと、各自ルクスを灯すように指示を出した。
こういった暗闇に生息する魔物は強い光が苦手で、ルクスがあれば多少怯ませることができる。
それだけでなく、なにかあって離れてしまったとしても自分の居場所を仲間に伝えることができるからだ。
節約もありルクスは休憩時を除いてひとつだけしか灯していなかったのだが、深部では愚行というものであろう。
『アルテミ』たちはすぐにルクスを灯し、洞窟はより一層明るくなった。
照らされた少し先が二股の道になっており、どちらも濃厚な闇が満ちている。
「……アル、そっちの奥。なんかいる……気がする」
そこで、レザが右側の道を指さした。
アルは頷くと、右寄りに進路を取る。
「……ちょうどこっちが黒龍の居城への道だ。迷宮の覇者たるものの巣を見られるなんて、滅多にないぞ」
囁かれた言葉は、黒龍がいないとわかっていてもクロートの背中をぞくりとさせた。
そして。
「――うわ」
そこに出た瞬間、クロートは思わず呟いていた。
広いなんてものではない。
ルクスの明かりが反対側の壁まで届かないほどの空間だったのだ。
彼らは人ひとりが通れるくらいの小さな穴から出てきたのだが、その広さには誰もが息を呑む。
「こんなところに『リスポーン』するとか……黒龍ってどんだけデカいんだよ……」
クロートはそうやってこぼすと、天井を見上げる。
大きな穴が口を開けていて――勿論、闇に覆い隠されてその先はなにも見えないが――、もしかしたら黒龍が出入りする穴なのだろうかと思い当たった。
「アル! なんかいる!」
レザが警戒の声を上げたのはそのときだ。
クロートははっとしてレザの視線をたどり、びくりと肩を振るわせた。
それは、ルクスの明かりがギリギリ届く距離。
蔦を這わせたような模様が刻まれた、黒い……黒い箱がひとつ。
「……収束ッ! クロートっ……あれは……っ?」
「しない……臭いは、してない!」
弾かれたように武器を収束させたレリルと剣を抜いたクロートに、『アルテミ』たちが驚いて身構える。
クロートには、蓋が閉まっているその箱が、前に見たものより一回り小さく感じた。
それが広い空間による錯覚なのか、距離があるからなのか、はたまた本当に小さいのか――クロートにはわからない。
彼の体の底から湧き上がる不安は少しも薄れなかった。
「……あれが『イミティオ』なのか?」
アルがゆっくりと剣を抜く。
「わからない……でも、似てる」
クロートは額に汗が滲むのを感じた。
――甘ったるい臭いはしない。だから、本当に宝箱なのかもしれない。
だとしても……近付きたいとは思わなかった。
「『ノーティティア』の言葉だ、無視するわけにはいかない。全員構えろ、まずは矢を撃ち込むぞ」
アルはそう言うとルクスを足下に置く。
「なにかあれば号令をかける。そのときは振り返らず、真っ直ぐこの道に駆け込め、いいな?」
「……わかった」
「わかりました」
クロートとレリルが頷くと、アルはレザに向き直る。
「レザ。お前はレリルとクロートを守れ。号令をかけたときは最優先で補助するんだ」
レザは『イミティオ』から視線を逸らさずに、くるくると双剣を回す。
「……女の子は守るけどねー」
「ふん。俺だって別にお前に守られたくはないからなっ」
クロートが噛み付くと、レザの唇がちょっとだけ緩む。
「あんたは自分で走れるってことだよね?」
「当たり前だろ」
軽口を叩き合うふたりにアルは頼もしさすら感じたが……表情には出さなかった。
「行くぞ――撃て」
ビュッ……
空気を切り裂く音が聞こえた瞬間には、矢は黒い宝箱へと突き立っていた。
立て続けに放たれた矢が、寸分の狂いもなく次々に宝箱を穿つ。
――違うのか? あれは『イミティオ』じゃないのか?
クロートはともすれば浅くなる呼吸を必死に整え、己を律した。
そして。
ギチリ……
それは、始まった。
ギチ、ギチ……
蓋が――ゆっくりと持ち上がる。
ギギッ……
むわっと……箱の中からあふれだした空気が、クロートの鼻を突いた。
「う、ぐ……」
「クロート!」
「――『甘ったるい臭い』がする……やっぱり、あれは……!」
ドンッ
なにかが破裂したような音だった。
箱――『イミティオ』から、黒い触手がものすごい速さで飛び出してきたのだ!
「う、うわぁあッ!」
触手に絡みつかれ足を取られた『アルテミ』のひとりが、ゴツゴツと固い地面に引き倒される。
「レリル!」
「うん!」
クロートは硬直する『アルテミ』たちよりも先に動き出し、その触手を叩き切った。
しかし、クロートたちのほかに瞬時に駆け出していた者がいる。
「やーッ、はァーッ!」
「レザ! 無闇に突っ込むな!」
アルが怒鳴った瞬間、クロートは触手に絡まれた『アルテミ』をレリルに任せ、魔装具を握り締めて地面を蹴る。
レザの双剣が閃いて『イミティオ』の本体――なのかは不明だが――箱の表面へと傷を穿つ。
しかし『イミティオ』はその口と思われる部分から這いだした触手をぎゅるぎゅるっと捻り、離脱しようとするレザの足を掴んだ。
「うわ!」
「はあぁっ!」
そこにクロートが身を低く保ったまま、目一杯の速さで駆け寄り、剣を振り下ろす。
「勝手な動きするなよ! 危ないだろ!」
怒鳴りながら、クロートはレザを一瞥した。
――アルの言ったとおりだ。レザは己の命を軽視しているような行動を取るんだ――。
「うわ、あんたに助けられた? 俺ー」
「俺に助けられたくないなら――くそっ!」
クロートは伸びてきた触手を打ち払うと、無理矢理レザを引いて下がった。
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