第27話 その殺し屋、父の帰還②
「実はお嬢様は、一昨日、朝食の最中にお倒れになって……この二日間ずっとお眠りになっていたのですよ」
アメリアの言葉に、私は息を呑んだ。
「え……二日間も眠って? 嘘……?」
まさか、そんなにも眠っていたなんて。驚きのあまり、ドクンと心臓が跳ね上がる。
朝食の最中に倒れたということは、アメリアがお粥のおかわりを作りに行ってくれていた、あの時だ。
そこで、私は漸くあの頭痛のことを思い出した。
そうだ――私、確か……サフィラが生け贄に捧げられる儀式シーンを思い出してから、様子がおかしくなってしまったんだ。
耳をつんざくノイズに、世界が歪むあの感覚。あれは、一体なんだったんだろう。
(ダメだ……考えるだけで、また頭が軋む……)
理由はわからないけれど、これ以上この件を考えるのは危険だと、直感が囁く。
「お目覚めになられて、本当に良かったですわ。……恐らく、神聖のゆらぎが起因したものだと、お医者様がおっしゃっておりました。私が付いていながら、お嬢様の体調の変化に気づけず、誠に申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げるアメリア。いつも通りの穏やかな声なのに、表情も仕草もどことなく、慎重だ。
結局、私はまた彼女に心配を掛けてしまったようだ。
あの日のアメリアは、体調の変化に気付かなかったどころか、私の様子を事細かに見てくれていた。
公爵の帰還話を聞いてから、気を張っていた私に、いち早く気付いてくれたのに。……むしろ、体調を誤魔化していたのは、私の方だ。
「ううん、違うのアメリア。……あの日、アメリアはずっと私の体調を気にしてくれてたよね? 私の方こそ、大丈夫だなんて言って……ごめんなさい」
私がそう言うと、彼女は少しだけ目を見開く。そして、ゆっくり静かにうなずいた。
「本当にお嬢様はご慈悲深い……痛み入りますわ」
優美な微笑みを浮かべるアメリア。見慣れた微笑み顔ではあるけれど、眼鏡の向こうの瞳はいつも以上に穏やかだった。
「……では、お嬢様がお目覚めになったことを、お知らせに行ってまいりますわ」
アメリアは深くお辞儀をすると、静かに踵を返し、扉の方へと歩き出した。その背中を見送りながら、ふと胸の奥に疑問が浮かぶ。
(……ん? 二日間も眠っていたってことは、今日は……何日?)
確かあの日、アメリアは「公爵は明後日帰宅する」と言っていた。あの日から数えて、二日間経っているのなら――。
じわり、と嫌な予感が汗と共に伝う。そういえば、公爵が〝明後日〟の〝何時〟に帰るかまでは、教えてもらっていなかった。
そんなことを考えていると――廊下の向こうから、聞き慣れない足音が響いた。重く、規則正しい靴音。続いて、低くしゃがれた老紳士の声がする。
『……まだお休みかもしれません。どうか、お静かに願います』
その直後、別の声が答えた。豊かでよく通る、けれどもどこか底冷えのするバリトンボイスだ。
『わかっているとも。……だが、ほんの一目でもあの子の顔が見たいのだよ』
その声を聞いた途端、胸の奥がざわめく。この芝居がかった言い回し、耳に残る独特の抑揚。
(嘘でしょ……まさか)
アメリアが、はっと何かに気づいたように振り返る。
「あら……予定よりもお早いお戻りだったようですわね。――お嬢様、どうやら……」
言葉の続きを告げるより早く、部屋の扉が――勢いよく、音を立てて開いた。
「サフィラ!!!!」
反射するよりも早く、勢いよく飛び込んできた影が私の体を抱きしめた。
「!?」
それは、あまりにも突然だった。肋骨が軋むほどの強い力で、身体全体を広い胸に押し込められる。
お母様に初めて抱きしめられたときは、あんなにも心地よかった腕の中。
でも今、私を包んでいる両腕は強引で支配的。
〝優しさ〟など微塵も感じられない。
「ああ、我が愛しの宝石……!! 目が覚めたんだね。あぁ……良かった」
背筋に嫌な汗が伝う。不可解な違和感に動揺していると、より一層強く身体を締め付けられる。
同時に、異国を思わせる香辛料の香りと、沈香のような重い香木の匂いが鼻を掠めた。
嗅ぎ慣れない、甘くも濃密な香気と、そのずっと奥に――微かな鉄錆のような匂いが混じっているのを感じた。
懐かしさと同時に、本能的な嫌悪感が込み上がる。
あまりの不快さに、今にも腕を振りほどきたいのに、身体が鉛のように固まってしまって、思うように動けない。
「旦那様。そんな、いきなり抱きつかれて……。お嬢様がお困りのご様子ですよ」
しゃがれた老紳士の声が、どこか呆れを含んで響いた。その声と同時に腕の力がゆるみ、やっとこの不快感から解放された。
ゆっくりと顔を上げた私の視界に、柔らかく微笑む男の顔が映り、私は絶句した。
「おっと、いけない。はは……つい、嬉しさのあまり興奮してしまったようだ」
濃い緋色の髪、均整の取れた白い顔。蓮華のような色彩の瞳は、柔和で温厚そうなのに、その奥に潜むものは、冷ややかで底知れない深い闇。
姿勢の良い立ち姿が相まって、ただそこに居るだけなのに、見る者を圧倒する何かを持っていた。
……やはり、私の嫌な予感は当たってしまう。どうして、いつもこうなんだろうと己の不運を嘆いた。
そう。この男こそが、ザーフィル・フォン・パパラチア公爵。
サフィラの……私の実父であり、〈アルカナ∽クォーツ〉の黒幕のひとり。そして私を――〝虚闇の獣〟の生け贄に捧げる張本人だ。
「――ッ」
男の存在を自覚した途端、血の気が引いたのか頭が痛み、ザザッ……と、またしてもあの耳障りなノイズが、脳裏に走る。
思わず意識がぐらりと揺れ、身体のバランスを崩してしまいそうになった。
「サ、サフィラ!? 大丈夫かい?」
公爵の腕が、再び私の肩を支える。私の頬に触れようとする手を、反射的に払い除けたくなってしまったが、そこはグッと耐える。
「だ、大丈夫です。少し……驚いてしまって」
パパラチア公爵。まさか、こんな形でこの男を出迎えるだなんて。想定外だが、起きてしまったことを嘆いても、仕方がない。
私は、引き攣る口元を緩め、今できる精一杯の笑顔を作る。
「……おかえりなさいませ、お父様」
その瞬間、公爵の表情がふっと和らいだ。焦りも、憂いも、すべてが溶け落ちたように、恍惚と微笑む男は、心の奥底から幸福そうであった。
「ああ、ただいま。私のサフィラ……」
けれど、私は知っている。その笑顔に込められた愛情は、あまりにも歪で、あまりも純粋。そして、私を苦しめるものだと言うことを。
寒気に打ち震える娘とは裏腹に、慈愛に満ちた表情を浮かべた父は、最愛の娘の頬に唇を落とすのだった。




