第26話 その殺し屋、聞こえてしまった
お粥のやさしい香りが立ちのぼる。
麦の粒感を舌で感じながら、ミルクのとろみに包まれた一口をゆっくり噛んで、飲み込む。
(……うん。やっぱり、お腹はちゃんと空いてた)
前世のころから、どんなに気分が悪くても、食欲がなくなることはなかった。
(胃腸だけは妙に強いんだよね。腹が減っては戦はできぬ、と言うし)
前世の記憶が蘇ったばかりの頃は、少し食べただけで、すぐ満腹になってしまい、とても驚いた。
華奢な見た目の通り、サフィラは食も細かったのだろう。
今や、すっかり〝この身体〟も、私の食欲に合わせてくれるようになっていた。
いつだったかの夕食時、お母様が嬉しそうに「あら、成長期かしら?」と笑って喜んでいたっけ。
微笑ましい記憶を胸に、私はもう一口、スプーンを口に運んだ。
そのモリモリと食べ進める、私の様子を見たアメリアは、安堵したように目元を細める。
「まあ、お嬢様。相変わらずの食べっぷりですわね。……安心いたしましたわ」
「ね? 大丈夫って言ったでしょ。……にしても、このお粥美味しい。もしかしてこれ、ココナッツミルク?」
口元をナプキンで拭い、尋ねると彼女は「はい」と頷く。
「……本当は、別のお料理が用意されていたのですが、お嬢様の体調が心配で、私が作らせていただきましたの。お気に召していただき、光栄ですわ。でも、これだけじゃ足りませんかしらね?」
微笑みを浮かべながら、含みのある言い方をするアメリア。
丁度そのタイミングで、すっかり活性化したお腹が、返事をするように――ぐぅ~~と音を立てる。
思わぬハプニングに、赤面する私。
その様子を見たアメリアは、くすくすと笑いながら、一礼し踵を返す。
「……あらあら。ではもう少し、お持ちいたしますわね」
そう言って、スカートの裾をふわりと揺らしながら扉の方へ向かって行った。
◇
アメリアが立ち去った後、部屋は再び静寂に包まれた。
窓から差し込む陽の光は穏やかで、時折聞こえる小鳥の囀りが、私の心を落ち着かせてくれる。
カップに口をつけ、ハーブティーをひと口啜る。草花の香りが喉を通り、じんわりと胸に沁みていく。
可愛い服を着て、美味しいご飯を食べながら、ハーブティーを嗜む。そして、胸元に揺れるのは〝憧れの人〟からの贈り物。
銃声も、血飛沫も、叫び声もない。かつて殺し屋だった私からしたら、まるで天国のような世界だ。
(普通の女の子の生活。……いや、それよりもずっと贅沢な暮らしをしているよね)
――けれど、こんなの束の間の夢に過ぎない。遅かれ早かれ、私は〝虚闇の獣〟の生け贄となり、あと数年足らずで、再び命を落としてしまう。
別に、死ぬこと自体は怖くない。……前世の頃から、死は身近なものだったから。私が誰かの命を容易く奪うように、私もいつか容易く命を奪われるのだと、覚悟をしていた。
天国も地獄も元より信じていなかったし、転生だなんてもってのほか。けれど、私はそれを果たしてしまった。
しかも、生前大好きだったゲーム〈アルカナ∽クォーツ〉の世界に、だ。
サフィラとして生活してきたこの一ヶ月。本当に、色々な事があった。
転生して間もなく、強制的にお茶会へと連れ出され、ルベルのトラウマイベントを回避。カーネリアンから神聖のゆらぎをそれとなく示唆され、アメリアから以前のサフィラの様子や、輝石や魔力について教えてもらった。
エメルドお兄ちゃんと追いかけたスリ事件。そして、何よりルベルとの公苑での逢瀬。……お母様のウサギ林檎も、メイドたちの賑やかな声も、みんな――もう、私自身の思い出だ。
私はふと、胸元で光る〈サートゥルヌス〉のペンダントに視線を落とす。黄昏の色を湛えた輝きが淡く揺れているのを見つめながら、私は小さく息を吸い込んだ。
「……本当に、このままでいいのかな」
せっかく転生したのに、〝物語〟を――いや、〝決められた運命〟をただ受け入れて生きていくだけだなんて。
実際、私はルベルの運命を変え、彼を救うことができた。
この世界は、確かにゲームの世界ではあるけれど、必ずしも全てが〝シナリオ通り〟に進むとは限らないのかもしれない。
この世界は、私が思っていたより、ずっと生きている。
ルベルの誓いを聞いたあの日、私の胸に灯った小さな希望。もしかしたら、運命は変えられるのかも知れない。
私はそっと目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、先ほど思い出していた、サフィラが生贄に捧げられるシーンだ。
――ザザッ…ザザッ
頭の奥で、あの耳障りなノイズが弾ける。刺すような痛みがこめかみを貫き、視界の端がかすかに黒く染まる。
(また、これだ……)
まるで〝誰か〟が、記憶の奥から手を伸ばしてくるみたいだった。
触れようとすると、逃げていく。思い出そうとすると、痛みだけが残る。
ノイズの奥で、長い鴇羽色の髪と白いベールが揺れている。花の髪飾り。純白のドレス。その姿が、霞のようにぼやけて見えた。
生贄に捧げられる――〝もう一人の私〟。
――ザッ……ジジジジジジッ
音が変わった。次の瞬間、モノクロと光のフラッシュが交互に押し寄せる。頭が割れそうだ。
痛みを堪えるように唇を噛むと、視界の奥で、〝彼女〟がこちらを視つめている。微かに動く唇。でも、声は聞こえない。ただ、確かにその形だけが――
『 もう、………たく、ない 』
次の瞬間、頭の奥が真っ白に弾けた。
心臓が跳ね、ヴィジョンが途切れる――同時に、ガシャンッ! 何かが落ちた破裂音が響いた。
瞼を開けると、足元には陶器の破片が散らばっていた。
淡い色の液体が、じわりじわりと絨毯に滲み広がっていく。落ちたのは、私が先程まで手にしていた、ハーブティーが入ったカップのようだ。
何が起きたのか、理解が追いつかない。頭の奥で鈍い痛みが脈打ち、世界がゆっくりと遠のいていく。
(なにこれ……〝私〟、知らない……こんなシーン、ゲームにはなかっ……)
何かが流れ込んでくる――熱く、切なく、そしてあまりにも悲痛な、願いが。
「――アッ、はぁッ……ッ、も、もう、しにたく、ない?」
息が絶え絶えの中、声にならない声が、胸の奥から溢れ出す。
これは私じゃない誰かの気持ちだ。でも、確かに〝私〟の中に在る。
「――お嬢様ッ!? 大丈夫でございますか!? お嬢様!! ……!!」
この声は……アメリア? 彼女の叫びが、遠くで反響している。
視界の端が白く滲み、世界が溶けていった。
誰かの足音、駆け寄る気配、焦った声。……それらが、だんだん遠ざかっていく。
暗闇が広がり、静かに、音を失っていった。ああ――これは、落ちていく感覚だ。
私は、闇に沈むようにして、意識を手放す。その瞬間、ふっと、遠くで蓮の花のような香りが鼻腔を掠めたような気がした。




