後編
「デルフィーナ! 俺はお前との婚約を解消する!」
先触れもなく令嬢の部屋を訪れ、ノックもせずに扉を開けるという無礼な行いをしてやってきたのは暫定婚約者のフィリッポだった。その想定された訪問者にデルフィーナは呆れていた。そう、想定されていたのだ。チェレステから話を聞いたデルフィーナも両親もそう遠くないうちにフィリッポが婚約解消もしくは破棄を言い出すと予測していた。
「まぁ、フィリッポ様。突然何を仰るかと思えば……婚約を解消、ですか」
一瞬驚いた顔は見せたものの、取り乱すことなく応じたデルフィーナにフィリッポは違和感を覚えた。デルフィーナは俺にべた惚れで婚約したんじゃなかったのか?と。
そもそもフィリッポの勘違いは未成年社交界の悪友たちによる発言が元だった。スティヴァレッティ侯爵家とアキッリ伯爵家の婚約には何の政略もなければ、スティヴァレッティ侯爵家の旨味もない。では何故この婚約が結ばれたのか。きっとデルフィーナがフィリッポに恋い焦がれて婚約を望んだに違いない。そんなやっかみ半分羨望半分の揶揄いが原因だった。実際には派閥に問題がなく、血筋が遠く、侯爵家運営に口を出せない程度に愚かなために選ばれたのだが、アキッリ伯爵家側は息子の悪友の妄言を信じてしまっていた。
「それで、わたくしと婚約を解消してどうなさいますの? 王宮文官の試験も王立騎士団の入団試験も受けてはおられませんわよね? 平民になられますの?」
あと半年ほどで社交界デビューだ。つまり成人する。成人するまでに生計を立てる算段をしておかねば実家に寄生する穀潰しになるだけだ。アキッリ伯爵家は長男が継ぎ、次男が補佐として家に残ることが決まっている。三男のフィリッポは文官・騎士になって准爵(貴族の子息が一代限りで与えられる爵位)となるか婿入りするかしなければ貴族として生きていけない。
「お前との婚約は解消するが、俺がスティヴァレッティ侯爵家に婿入りすることは変わらん! 俺はチェレステの夫となり、将来は当主代理になるんだ」
ビシッと指を突きつけ、フィリッポは宣言する。流石に侯爵になるとは言わなかった。スティヴァレッティ一家はチェレステを溺愛してチェレステに爵位を継承させるつもりなのだから、ここでその目論見まで告げてしまうのは良くないとフィリッポの足りない頭でも理解していた。
「チェレステの……夫、ですか」
頬に手を当て、デルフィーナは首を傾げる。何処か呑気な、或いは茫洋とした言葉にフィリッポは苛立つ。普段は有能ぶっているくせにどうしてこうも理解が遅いのかと。怒鳴りつけてやろうかと思った瞬間、フィリッポの予想だにしない言葉がデルフィーナの口から発せられた。
「我が国は同性婚は認めていないはずですよ」
「……は?」
「ですから、我が国では男同士、女同士の婚姻は認められておりませんわ」
フィリッポはデルフィーナの発言が理解できなかった。理解を拒んだといってもいい。
「何を言っている! チェレステはお前の妹だろう!」
「わたくしに妹はおりません。弟なら一人おりますけれど」
怒鳴りつけたフィリッポに至って冷静にデルフィーナが返したその時、扉がノックされた。因みにフィリッポが乗り込んできたときに扉は開け放たれており、そのままになっている。フィリッポは部屋に一歩入った位置におり、デルフィーナは両親とともに窓際のティーテーブルに着いていた。そう、フィリッポの意識には入っていなかったが、この場には侯爵夫妻もいたのである。そして、スティヴァレッティ家最後の一人が今やってきた。
「姉様、書類を持ってきたよ」
背後から聞こえたチェレステの声にフィリッポは振り向いた。そして愕然と顎を落とした。チェレステが身にまとっていたのは爽やかな初夏に相応しいドレスではなく、トラウザーズにシャツという男性の服装だったのだ。しかも広く開襟したシャツから見える胸元は紛れもなく男性のものだった。寝間着では胸のふくらみはよく判らず、まだ14歳なのだから成長途中なのだろうと都合よく解釈していたフィリッポである。何しろ姉のデルフィーナも母のセレーネ夫人も豊かな胸元と括れた腰という貴族女性の理想ともいうスタイルを持っていたので。
「お話は終わったかな、フィリッポ様」
「お前、まさか、チェレステか……そんな、まさか、男……」
いつもよりもハキハキと話すチェレステの声はまさに男のもの。実は漸く声変りを迎えたばかりだった。なので初回見舞い時は声が掠れていたのだ。
「以前から思ってたけど、アキッリ伯爵令息って礼儀がなってないよね。侯爵家の子女たる姉様や僕に敬語も使えないなんて」
チェレステは身分の違いを示すように敢えて伯爵令息を強調する。姉に対しても自分に対しても、身分を弁えない言動ばかりだった。入り婿予定のくせに爵位が上の自分たちに対して常に上から目線。そういった身分を弁えていないところも婚約を白紙にする要因の一つだ。
「改めて自己紹介を。スティヴァレッティ侯爵家嫡男チェレステだ。以後お見知りおき……はしなくていいかな」
ニヤリと笑い、チェレステは慇懃に一礼する。それにフィリッポはハクハクと口を開閉するばかりで言葉も出ない。
「父様、姉様、はい、これ」
フィリッポのことは無視し、チェレステは父に書類を渡す。
「ああ、過不足なく整っているな」
嫡男の仕事に満足げに頷き、エマヌエーレは書類に署名する。そしてデルフィーナにも署名を促す。
「あら、婚約は解消でも白紙でもなく、破棄ですのね。まぁ、チェレステを女性と勘違いして心を移して婚約者の乗り換えをしようとしたのですもの、当然ですわね」
フィリッポがチェレステを選んだのは欲のためだが、その欲にはチェレステのほうが好みだという色欲も入っている。フィリッポの勝手な欲で事前の相談も打診もなく婚約解消を告げたのだから、フィリッポ有責での婚約破棄が妥当だろう。
デルフィーナも署名した書類を持ち、エマヌエーレは立ち上がると既に控えていた執事に外出を告げる。フィリッポが部屋に乗り込んできた時点で既にアキッリ伯爵家への先触れは出している。呆然としたままのフィリッポを侯爵家の私家騎士が引きずるように部屋を出て行く。フィリッポが乗ってきた伯爵家の馬車に放り投げるように乗せると、エマヌエーレと秘書官が乗る馬車と連なって侯爵家を出て行った。
「まさかチェレステを妹と思っていたなんて……本当に無能でしたのねぇ」
出て行く馬車を窓から眺めながらデルフィーナは溜息をついた。きちんと貴族名鑑を確認していれば、チェレステがスティヴァレッティ侯爵令息であり後継者であることは判っただろうに。分家とはいえ女伯爵の夫になるとは思えない愚かさだ。
確かに付き合いのある貴族や分家から、チェレステは『春の妖精』だと言われていた。男児とはいえそれほどに愛らしかったのだ。そして、名前が男女どちらにも使われる名だったことが誤解を助長させてしまった。
とはいえ、やはり、婚約者の家族構成を把握していなかったことは愚かとしか言いようがない。結局、フィリッポはスティヴァレッティ侯爵家のことを侮っていたのだろう。悪友たちの戯言を真に受け、デルフィーナが自分に惚れていると思った時点から。
「まぁ、僕が病弱だったせいで体の線も細かったし、女顔だったし、仕方ない面はあるとは思うけどね」
姉の部屋で寛ぎお茶を飲むチェレステはそう応じる。ただ、やはり貴族として有り得ない誤解ではあるが、付き合いのない貴族家では子どもの社交に出てこないチェレステを幼いころの『春の妖精』という渾名から令嬢だと思い込んでいる者もいないわけではない。尤も、成人した貴族で誤解している者はほぼ皆無だ。
「医師からももう完全健康体って保証されたから、これからは体を鍛えて誤解されないようにしなきゃ」
明るく笑うチェレステに、すっかり健康になったのだとデルフィーナは安堵して微笑むのだった。
その後。
デルフィーナとフィリッポの婚約は無事に白紙に戻された。チェレステが作成した書類は婚約破棄だが、これは飽くまでも交渉材料としての書類だ。エマヌエーレは白紙と破棄とどちらがいいかをアキッリ伯爵に突きつけ、無事に白紙化に成功したというわけだ。
元々能力不足を理由に白紙化する予定だったのを、姉を蔑ろにしようとするフィリッポに憤ったチェレステが罠に嵌めて婚約破棄となった。アキッリ伯爵に能力不足の白紙化と弟を妹と誤解して婚約者変更を企んだ結果の破棄とどちらがいいかを選ばせたことになる。どちらも外聞は良くないが、婚約者の家族構成を把握していないなど無能にもほどがあるうえ、不貞紛いの婚約者乗り換え画策のほうがより外聞が悪いというわけだ。更に白紙化であれば慰謝料が発生しないことからもアキッリ伯爵は白紙化を望んだ。
スティヴァレッティ侯爵家としてはアキッリ伯爵家に恩を売ったわけである。伯爵家の中でも力の弱いアキッリ伯爵家なので、然程利となるわけでもないが、派閥は数が物を言う。取り敢えず将来のための布石の一つといった程度の利だった。
フィリッポは能力不足で婚約が白紙になった影響で新たな婿入り先は見つからず、結局平民となった。そして、チェレステを男と見破れずほのかに恋した己に絶望した彼は僧院に入って俗世とは縁を切った。
一方のデルフィーナは両親が婚約者第一候補としていたセヴェリーノ公爵令息と婚約し、婚約から1年後には結婚、更にその1年後には公爵夫人となり賢夫人として夫を支えている。姉が嫁ぐことに最後まで駄々をこねていたチェレステではあるが、婚礼衣装を着て幸せそうに微笑む姉を見て、ハンカチを噛んで涙を呑んだ。
そのチェレステは体を鍛え、成人するころには美丈夫として社交界を賑わせることになった。誰がどう見ても凛々しい青年で、ほんの数年前までは女性と思われていたとは思えないほどの成長であった。




