神話と伝記 ~ハシント・クルス・オスマ~
想像してほしい。
東日本大震災が三年に一度、発生する世界を。
そうなったら、もう太平洋側の東北では人生を設計することができない。
ローンを組んで家を買えない。
学校に通えない。
生きていけない。
どれだけ頑張って復興しても三年後に津波が、命も、家族も、財産も、仕事も、全てを海にさらってしまうのだ。
そんな人災がコロンビアでは起きている。
――†――†――†――
1963年3月20日。コロンビア。トリマ県、ロス・グアヤボス近郊。
サングレネグラ(本名、ハシント・クルス・オスマ)に率いられる武装集団が通行中のバスやタクシーを検問し、所持品を調査。そして、14人を選んで、射殺し、首を切り落とした。
この犠牲者のなかには四日後の結婚のために礼装を県都イバゲへ取りに行く途中だった非番の警官とその兄も含まれていた。
一部の乗客が逃げ出して、最寄りの警察にサングレネグラがロス・グアヤボスで検問をして、民間人を殺していると通報。
すぐに警官隊が急行したが、サングレネグラは逃げるよりも待ち伏せして、銃撃戦となり、さらに三名の警官を殺害した。
これだけ見ると、サングレネグラという凶悪な犯罪者とその部下からなる山賊が道を塞いで、民間人と警官を殺害したということになる。
ただ、疑問もある。
まず、14人を選んで殺害した。
その選んだ基準が何だったのか。
警官が殺された理由は明確で、サングレネグラの警察への憎悪があった。
警察は、ただ、自分たちを追う存在ではない。
さかのぼること12年前、サングレネグラがまだ、ただのハシント・クルス・オスマだったとき、複数の従兄弟が警察に逮捕され警察署で殺された。
この殺害は地元の地主が警察に金を払って殺させたものだった。
ハシント・クルス・オスマは報復として地主の息子を殺して、山に逃げ、武装勢力に入った。
そのとき、入団の試験として男を殺し、フランネル切りと呼ばれる深く首を切って後ろの首の皮一枚でぶら下がるという損壊を施し、血を五杯飲んだ。
サングレネグラはここに由来がある。
では、警官を憎悪していることは分かった。
だが、警官とその兄を覗く12人はなぜ殺されたのか。
こたえは簡単で、12人は保守党の支持者であり、サングレネグラは自由党系のゲリラだった。
実はこの5年前、同じ場所で自由党系の農民がトラックに乗って投票に向かっているところを保守党ゲリラに襲われて殺害されている。
自由党派のサングレネグラにとって、保守党支持者は死んで当然だった。
サングレネグラが犠牲者の首を切り落としたり、フランネル切りを施すのは、「こいつらは死んで当然の人間だ」と見せしめにするためだった。
それは5年前に農民を襲った保守党ゲリラも同じだった。
つまり、当時のコロンビアではそんな暴力がまかり通っていた。
そして、その時代はただ、こう呼ばれていた。
〈暴力〉
――†――†――†――
ハシント・クルス・オスマの名をあげているが、しかし、〈暴力〉の責任を彼ひとりに押しつけるのは間違っている。
もっと深い根があり、〈暴力〉そのものが今回のテーマになる。
決して、サングレネグラの資料が少なくて、書くネタがないからではない。
決して、そうではない。
――†――†――†――
問1.(5点)
〈暴力〉とは何か答えなさい。
答.
〈暴力〉とはコロンビアにおいて、1948年4月9日、自由党議員ホルヘ・エリエセル・ガイタンの死に始まり、1958年ごろ、自由党と保守党による合同政権〈国民戦線〉の成立をもって終了した国民紛争である。
コロンビアの教科書にはこう答えろと載っているのではないかと思う。
だが、これではわからないことが多すぎる。
だから、ひとつずつ、紐解いていく。
――†――†――†――
まず、1948年4月9日のコロンビアとはどんな状態だったか。
簡単に言うと、虐殺が始まってから、18年がたっていた。
コロンビアの虐殺騒ぎは〈暴力〉の前から始まっていた。
1930年に自由党が長年の与党である保守党を破って政権を握る。
各地の市長や警察署長が自由党支持派にすげ変わる。
警察と自由党員がこれまでの仕返しだと保守党支持者を弾圧、そして、虐殺がある。
具体的には地方選挙の有権者登録をしに来た保守党支持者の集まりを銃を持った自由党員が襲撃して、15人が殺された。
それから半年後、同じ県で保守党派の神父が地元の警官に射殺された。
それから保守党支持者の多い三つの県で、自由党と保守党のそれぞれの住人が殺人と放火、さらなる報復の殺人と放火を繰り返した。
特に危険なのはやはり選挙で、議会を握るために両者は敵対する有権者を殺害した。
それが二年前の1946年、保守党がまた与党に返り咲き、自由党一色だった地方行政・警察人事がまた保守党に戻る。
自由党員の動揺が広がり、今度はこちらが殺される番だと震えるもの、殺られる前にやってやると武装するものが出ていた。
そして、案の定、保守党員や地主たち、そして警察による自由党系の農民殺害が続き、それに対する報復殺人が発生した。
だが、自由党も保守党も「相手を殺しちまおうぜ!」という過激派が多数を占めているわけではない。
ほとんどの人は殺されたくないし、殺したくない。
ただ、静かに暮らしたい人たちだった。
そんな不安と動揺が1948年4月9日のコロンビアにあった。
――†――†――†――
次は『自由党議員ホルヘ・エリエセル・ガイタンの死』だ。
この人が死んで、その後十年、とんでもない虐殺の時代が始まる。
ガイタンがどれだけ人気だったのか。
それは彼が死んだ直後、自由党系のラジオ放送がこんなものを流すくらいだ。
「『ウルティマス・ノティシアス』から速報をお伝えします! 保守党とオスピナ・ペレス政府が、たった今、ガイタン博士を暗殺しました! 博士は事務所の入口前で、警察官に銃撃されて倒れました! 民衆よ、武器を取れ! 突撃せよ! 棍棒、石、散弾銃、手に入るものなら何でも持って街へ出ろ! 金物店を襲撃し、ダイナマイト、火薬、工具、鉈を奪え!」
その後、火炎瓶の作り方を放送する。
これによりガイタンが殺害された首都ボゴタでは暴動が起き、大勢の死者と焼き打ちされた都市を残した。
暴動は各都市に飛び火し、自由党系住民と警察・保守党系自警団が衝突し、また死者を出す。
その後も世情は鎮静化することはなく、コロンビアじゅうで自由党と保守党のお隣さん同士の殺し合いが続く。
ラジオ放送はガイタンを殺したのは保守党政権と警察だと言っているが、実は確証が持てない。
精神薄弱者が殺したともいわれているし、ガイタンが死んだ直後、あたりは大混乱になっていて、本物の犯人はまんまと逃げ去った、とも言われている。
ガイタンはとかくエリートのものになりがちな政治を大衆化し、演説で人の心をつかみ、農民と労働者の権利を守る戦いの最前線にあった。
ただ、その一方で急進的な教会制度の改革や農地改革による地主の解体を行ったため、保守党や教会からは目の敵にされたし、自由党のエリート層からも煙たがられた。
ただ、ガイタンが一番支持されたことは暴力を否定したからだった。
1948年ごろの首都ボゴタでは地方の弾圧・虐殺を逃れて難民化した農民三万人がいた。
ガイタンは自身が死ぬ二か月前に首都で二十万人の平和デモを行った。
「政府よ、憲政に戻れ。我々は生命と生活を保証されることを望んでいるだけだ。だが、我々の沈黙を臆病ととらえるな」
1948年当時の大統領はオスピナ・ペレス政権である。最初のころは国内の弾圧よりもインフラ整備とコーヒーの輸出促進を重視した。
ただ、「おれはファシズムが大好きだ」と公言するラウレアノ・ゴメスが勢力を伸ばし、国内の弾圧がひどくなったが、保守党内でのもめごとでまた実権がオスピナ・ペレスに戻った。
オスピナ・ペレスも前のときほど物分かりはよくなくなっていたが、それでもゴメスよりはマシであり、多くの国民――殺されたくないし、殺したくもない人びとは、ガイタンとオスピナ・ペレスのあいだで恒久的な平和協定が結ばれるのではと期待した。
そこでガイタンが背中から四発ぶち込まれて死んでしまった。
――†――†――†――
1958年ごろ、自由党と保守党による合同政権〈国民戦線〉の成立をもって終了した。
これに行く前に十年間、どんな殺し合いをしたのかを説明する。
まず、喉笛切り。
これは首を切り裂いて、そこから舌を引っ張り出すもので、コロンビアン・ネクタイと呼ばれている。
てっきりパブロ・エスコバルあたりが思いついたのかと思ったが、〈暴力〉の時代に考案されたものだった。
次にフランネル切り。
これは首をフランネルシャツ型に大きく切って、首の後ろの皮一枚でつながって、頭がそっくり後ろにぶら下がるようにするものだ。
サングレネグラが入団儀式でやったのがこれである。
そして、最悪なのが花瓶切り。
首と手足を切り落とし、内臓を抉り出した体に花を活けるように差す。
ただ、これだけは写真が残っておらず、創作ではないかという説もある。
この残虐行為はあらゆる武装勢力がやった。
その意味は見せしめであり、その血縁者も同罪として脅して、その地域から追放を狙ってもいる。
こうなったら、もう自由党にも保守党にも票を入れないのが一番の道だが、殺戮が進むほど、中立を維持するのは難しくなった。
「あいつの家の娘は自由党員と付き合っている」
「あいつは保守党ゲリラに缶詰を渡した」
「あいつは自由党ゲリラの腕に包帯を巻いた」
これで殺される。
となると、危険なほど、どちらかの派閥に入れ込んで、その暴力に守ってもらうしかなくなってしまう。
さらに田舎の農村や小さな町では焼き打ちが相次いだ。
国内には難民があふれ、それがさらに新しい暴力を生んだ。
「あいつらに家族を殺された」
この言葉がコロンビアじゅうの打ちのめされた人びとの伝記に綴られる。
殺されたくないし、殺したくない人びとの数は確実に減りつつあった。
〈暴力〉は伝記を吸い取って、膨張していく。
サングレネグラも最初は一家で暴力とは距離をおいて、暮らそうとしたが、警察と地主による従兄弟たちの殺害によって、自由党ゲリラになった。
その途中で、地主の息子を報復として殺害している。
だから、地主もこう言うのだ。
「サングレネグラに息子を殺された」
――†――†――†――
ラテンアメリカの典型は独裁者が秘密警察で反対者を弾圧するパターンだが、コロンビアにはこれは当てはまらない。
中央政府の力が弱くて、地方で起こる殺戮にほとんど対応ができないのだ。
独裁者になろうとしたものもいたことはいた。
〈暴力〉が始まって五年目の1953年、軍部がクーデターを起こして、グスタボ・ロハス・ピニージャが大統領になった。
ロハスは軍事独裁的な性格を残しつつ、労働運動や農民の救済にもちょっと理解を示して、広く支持を広げようとした。
めざすところは〈暴力〉の終結だったが、中途半端にいい顔したせいで保守党、地主、教会から反発を食らい、中途半端だったから、労働者や農民にそっぽを向かれ、何より、政府の統制が全く効かないから、虐殺の終結のめどがつけられずに、結局、軍をつかった反対派の弾圧に落ちてしまう。
独裁者の定番である憲法改正からの終身独裁者を狙う。
ところが、自由党と保守党の指導者たちはこのとき、こっそり密談を交わしていた。
長きにわたる二大政党の対立を終わらせる〈国民戦線〉をつくるためだ。
――†――†――†――
1958年ごろ、自由党と保守党による合同政権〈国民戦線〉の成立をもって終了した。
ついにこれがやってくる。
〈国民戦線〉の内容はこれだ。
大統領は四年ごとに自由党と保守党のあいだで交代する。
議席は公平に分け合う。
議席は公平に分け合うって、それを決めるのは有権者だろ、とは思うが〈暴力〉で一番殺される可能性が高いのが投票に行くときなのだから救えない。
この同意はなかなか実現性があった。
なにせ、保守党側の交渉代表に、「ファシズムが大好きだ」と公言していたゴメスがいるのだ。
実はゴメスは例の軍人大統領ロハスにクーデターを起こされるまで三年間大統領をしていた。
つまり、こういうことだ。。
『ファシズムが大好きで、自由党も弾圧しまくるゴメス』
↓
クーデター
↓
『みなにいい顔をして〈暴力〉を終わらせるロハス』
それが57年ごろには、
『やっぱりいい顔は間違いだから弾圧をするロハス』
↓
国民戦線
↓
『もう国が滅びそうでファシズムはあきらめたゴメス』
ロハスは〈暴力〉に取り込まれ、ゴメスはいい加減シャレにならないことになってきたと悟ったわけである。
十年間の無法図な殺し合いはコロンビア社会を疲弊させた。
経済は大打撃を受け、コーヒーの値段が世界的に下がれば、国として成り立たなくなる。
ロハスがついに軍にも見捨てられ、大統領を辞任。スペインへ亡命した。
その後、五人の軍人による評議会を経て、民政に復活。
1958年、自由党のアルベルト・ルレラス・カマルゴが大統領に就任。
教科書ではここで〈暴力〉は終わる。
では、国民戦線の約束は守られたのか。
四年後。
1962年、保守党のギジェルモ・レオン・ヴァランシアが大統領に就任。
四年後。
1966年、自由党のカルロス・ルレレス・レストレポが大統領に就任。
四年後。
1970年、保守党のミザエル・パストラナ・モレロが大統領に就任。
合意は守られたのだ!
――†――†――†――
だが、殺戮は終わらなかった。
1958年、政府はゲリラたちに恩赦を出し、いま、投降すれば、罪には問わないとした。
ゲリラたちは銃を置き、村に戻った。
そして、反対派に殺された。
「銃を置いたら殺される」
ゲリラたちは山に戻った。
冒頭、サングレネグラの犯した虐殺は1963年。
〈暴力〉終結から五年後の出来事だ。
――†――†――†――
想像してほしい。
〈暴力〉が終わらない世界を。
ローンを組んで家を買えない――村ごと焼き払われるから。
学校に通えない――学校が焼き払われるから。
生きていけない――いつ殺されるかわからないから。
その後のコロンビアでは暴力は変質した。
殺されないための農村自警団や自由党ゲリラの残党が共産主義と結びつき、コロンビア革命軍が設立される。
コロンビア革命軍は軍、警察、地主、そして共産主義に賛同しない住民を殺害していく。
すると地主側は極右でまとまり、準軍事組織をつくり、コロンビア革命軍、それに同調したとみられる農民や人権活動家を殺害していく。
全てのゲリラは支配地域で栽培されるコカの葉と精製されるコカインに税を課して資金源とし、独立した軍閥として強化される。
だが、殺戮に疲れて、かなりの武装勢力が和解に傾いた時期はあった。
1984年ごろ、ベタンクール政権がコロンビア革命軍をはじめとするゲリラとのあいだで停戦を模索し、全面的な武装解除とはならなかったが、停戦にこぎつける。
この時期、コロンビア革命軍は合法政治化をもくろみ、政治組織『愛国同盟』を結成。
1986年の選挙では、銃を置いたゲリラたちが愛国同盟から出馬した。
その結果、愛国同盟の党員、議員、支持者の農民や学生、労働組合活動家、合計4100人が殺害された。
殺害したのは右派の準軍事組織とそれに共鳴した国家機関の一部。
停戦も崩れ、コロンビアはさらなる内戦を経験することになる。
「銃を置いたら殺される」
ついにこれが神話となった。
――†――†――†――
あいつらに家族を殺された。
大統領、準軍事組織の設立者、コロンビア革命軍の最高幹部、そして、大勢の殺されたくないし殺したくなかった人たちがこの伝記を共有している。
復讐は復讐を生むだけだ、と、安易なことは言いたくないが、コロンビアではそれが当てはまっている。
最初のうちは仇を討つつもりだっただろうが、そのうち、政治に関係していない社会活動家や外国企業の役員などまで殺されるようになり、コカインを資金源にして、自分たちを増強するようになる。
暴力はとどまるところを知らない。
現在のコロンビアはどうか?
2016年に政府とコロンビア革命軍は最終和平合意に署名し、翌年から武装解除が進み、コロンビア革命軍のメンバー約一万三千人が民間人の社会へと復員していった。
そして、2026年現在、元コロンビア革命軍の兵士と人権擁護活動家ら約五百人が殺されている。
銃を置いたら殺される。




