Get Chance and Luck
ミッション決行タイム、一二〇〇を迎える一時間ほど前。GINは一人、旧警視庁地下駐車場へZを滑らせた。ほかのメンバーには十日掛けて開通させた地下水路を利用し、それぞれ受け持ちの侵入路から最地下層へ到達するよう根回しを済ませておいた。タイロンは地下駐車場にある隠し扉の存在を知らない。GIN個人の用件が済んでからコンクリートの壁を開けるつもりでいた。
コントロール不可能だったはずの、サレンダーが敷設したシステム。それにも関わらず、Zのミラー後ろに設置してあるセンサーが、赤の点灯からグリーンの点滅に切り替わった。目の前の壁が左右に分かれ、Zを促すように大きな口を開けた。GINは緑の点滅が点灯に変わったのを確認すると、“待ち人”に指定したサレンダー本部へ向かってZを再発進させた。
果たして、案の定“待ち人”は地下のサレンダー本部ではなく、『STAFF ONLY』の扉を背に、その手前の駐車スペースでZを迎え入れた。煮え立つ私情を押さえ込むとばかりにアクセルを踏み込み、扉に衝突させる勢いで彼に迫る。ヒール・アンド・トゥでブレーキも踏み込み、サイドブレーキを勢いよく引き上げた。フロントを支軸にリアだけを思い切りスピンさせる。摩擦で熱を帯びたタイヤが吼え、ゴムの焼ける臭いが辺りに立ち込めた。駐車ラインのないだだっ広いアスファルトの上、リアタイヤで円を描きながら、Zが“待ち人”の前でようやく完全停車した。GINはサングラスを掛けたまま、真正面に捉えた“待ち人”を見据えた。
彼の制服姿は、昔と同じように彼を威風堂々と見せる。息子へ遺伝させた頭髪は少しばかり寂しさを増し、そして白いものが七年前よりも随分と増えていた。衰えた眼光は彼の老いを感じさせるものの、常人のそれを遥かに超える鋭さであることに変わりはない。腰痛持ちと聞いていたのに、知らなければそうとは感じさせない佇まい。背筋をしゃきりと伸ばした姿勢は、相変わらずGINの背筋まで正させた。十センチにも満たない至近距離でZを停めたにも関わらず、彼は完全に停車するまで一歩たりとも退かなかった。淡い深緑の視界に映った彼が、まるでGINの瞳が見えているかのように、ゆるりと微笑を浮かべた。
「成長したな……と言うのは、もう三十路を超えた君に対して失礼な言葉、なのだろうな」
神祐、と親しげに名を呼ばれ、ステアを握る手に力がこもる。彼の紡いだ言葉は、まるで父親が息子に感慨をこめて発せられたような音色に聞こえた。
全開していた窓を閉め、エンジンを切ってドアを開ける。ナビシートに投げ込んだコートを手に取った。GINは不遜なほど緩慢な動作で、ドライバーズシートから降り立った。勢いよく羽織った深緑のコートが、ばさりと音を立てて宙をはためく。このコートに見覚えのある彼へ誇示するように、それは黒一色のスーツ姿だったGINを濃緑の出で立ちに染め替えた。
「最後にお会いしたのは由良の葬儀のときですから、七年ぶりですね――おじさん」
GINは敢えて“待ち人”――本間総監を個人としてそう呼んだ。
「俺からの接触を紀由や零に黙っていたことだけで赦すつもりはありませんよ。あなたはまだ、俺の質問すべてには答えてはいない」
挑発としか受け取れない言葉を吐き捨てる。そこに被害も加害もなかったのだと今なら認識出来るのに。数日前に知らされた真実を、まだ感情が受け容れられないでいた。
「おばさんが由良の《送》に気づいていなかった事情はわかりました。《送》のあるなしに関わらず、母親というのが自分の子に対して弱い《送》と似た感覚のシンクロがあるというのは、探偵稼業の依頼でもよく聴く話でしたから」
由良に養子だったことを隠し続けていたのは、彼女の《送》が消えたと思っていたからだということ。実際には七年前のあの事件まで、総監自身も由良が《送》を隠していたのに気づいていなかった。それを総監が知ったのは、GINたちが由良の救助に向かっていたとき。知らせた相手は、当時まだ複数の幹部で構成されていたサレンダーのトップだった故副総監だということ。
「被験者として由良の身柄を預かるという副総監からの打診に合意したのは、実験の内容をまるで知らなかったから、というのは信じます。もしあんな内容を知っていたら、自分と引き換えにしてでも防ごうと足掻いたはずだ。あなたは、そういう人です」
GINはアメリカから戻って最初に総監とコンタクトを取ったときに告げられた言葉をなぞるように復唱した。
「それらの裏づけも取れました。零が紀由の抹消したデータのうち、主要な部分をほぼ完全に記憶しています。この地下の更に下、実験施設のあった部屋のデスクに物証が山ほどあったそうです。副総監も結局は、アメリカ――ニューク・ファイブに利用されただけだったんですね。副総監はあなたを出し抜いて、由良のことをニュークへリークした。結果的には彼も、病死に見せ掛けた形でイレイズされた。サレンダーを乗っ取ったニューク・ファイブの手によって」
無言を貫く総監の片側の眉がひくりと痙攣した。そして次第に幾重もの皺が総監の眉間に刻まれた。
「彼が私に敵意を抱いていたのは、表ではなく、裏の出世争いに敗れそうだったから、ということか」
苦しげにそう問い質した総監は、自分が次の手足にさせられた根拠をただの不運だと勘違いしていたようだ。
(この人も、好きで巻き込まれたわけじゃない……被害者だ)
総監から返答をもらう数日前、GINのミッション乱入はないと信じた零が、すべての過去をGINに語った。そのときに抱いた感想が、今また脳裏をかすめていった。それがGINの個人的な感情を少しだけ軽くした。
「ニュークは、由良が受信一方の《送》だったことにも気づいていたようです」
と語り継いだGINの声は、わずかながらも落ち着きを取り戻したかに見えた。
「それは一般のある人物が、ニューク・ケミカルに関連した人物を保護したときに突き止めました。あなたが俺の育って来た施設に近い社宅へ引っ越したのは、俺に《送》の兆候が見られると知ったから、ということも零が教えてくれました。俺のことも気に掛けてくれた、その気持ちには感謝してます、でも」
何度もシミュレートしたのに、どうしても声が、尖る。感情を乗せた言葉になってしまう。
「どうやって、由良の素性を彼女に隠し続けて来たんですか。受信一方の由良に、どうやって……あなたが隠しさえしなければ、由良はあそこまで追い詰められなかったかも知れないのに」
どうして自分や由良に、事実を教えなかったのか――余計なことまで問うGINの声に、震えが混じった。
「策などなかった。単純に、親ばか……そうとしか、言いようがない」
独り言のように呟かれた総監のそれに、GINは耳を疑った。知りたいのは《送》の防御方法。もし由良がターゲットにマインド・コントロールされていたら、こちらの思念を先読みされて戦況が不利になる。事実をすべて把握した上で打開策を見出そうと思っていたのに当てが外れた、とGINはひどく落胆した。
「俺は、思い出話をしたくてあんたを呼んだんじゃない」
握る拳がグローブをこすり合わせてぎちりと鳴らす。腹立たしさに奥歯を噛む。ミッション直前の今、無駄に《送》を使いたくはなかった。他人の心に土足で踏み込む真似も、本来ならGINの好むものではない。
「隠すと言うなら、無理やり視るまでです」
目の前で両手を組み合わせ、上位を誇示して予告する。諦めをつけて右手からグローブを剥ぎ取ったとき、総監がぽつりと呟いた。
「由良を、本当に自分の娘だと思っていた」
「は?」
訝るGINの疑問をよそに、総監が自嘲としか思えないゆがんだ笑みを浮かべた。
「私は紀由に期待を寄せてばかりだったが、妻は娘も切望していたのだよ。あの能天気な妻が落ち込むなど、よほどの想いだったのだと。若いころは家庭人としての自分があまりにも不甲斐なくて、自己嫌悪で過ごす毎日だった。だが、由良が来てから我が家は変わった。娘がどれだけ愛らしいものかを、あの子が私に教えてくれた。あの子を託してくれた高木に感謝すら覚えた……君の噂を耳にするまで、由良が養子であることさえ忘れていた。それほどあの子は私たちにとって……替えがたい、たった一人の愛娘だった」
防御ではなく、無意識に自分自身を騙し続けていたのだろう、と彼は言った。総監夫妻が心から実子だと思っている由良が《送》の受信を使ったところで、真実は視えなかっただろう。
「期待はずれな人間ですまない。私は、神祐や紀由が思っているほど完ぺきな人間ではない」
職場で己を律すれば律するほど、甘えという反動が家族に向かう。穏やかで平穏な幸福の象徴を保ちたいという我欲が働いてしまう。そう語る総監が、悔しげに自分の薄くなり始めた前髪を掻き混ぜた。嘘をついているようには見えなかった。それを決定打にする言葉がGINの問いに対する答えとして返って来た。
「妻から君と由良とのことを聞いて、初めて自分の過ちを痛感した。私には、紀由や由良と、兄妹弟のようにしか見えていなかったのだよ。考えあぐねているところへ、あのミッションがサレンダーで決行された。副総監の言葉が私を誤った方向に導いた」
――娘さんの記憶をそのままに、他人になることが可能なんですよ。《能力》のない、平凡でありふれた生活を彼女に与えることが可能な施術です。
「君の情報についても、副総監の派遣した組織の者を私の代理だと騙らせて、施設の職員から聞き出したらしい。当時はそこまで考え至らないでいた。私の急な引っ越しが招いた失態だ。そんな負い目も手伝った。副総監の話を聞いた直後、私の意識は由良と君がなんの障害もなく過ごせればということにしか向いていなかった。出来ることなら由良が自分の出自を知らないまま《送》を手放せれば。自覚のある君も、彼らの説得で組織への協力に応じるだろうと……私は自分の願望と現実を混同してしまうほど、冷静さを欠いていた。君と由良が兄妹だと知らないまま、まっとうな形を取れるなら……幸せに過ごせるなら、自分が代わりにすべてを背負おう、そんな気持ちで、彼らの画策を……黙認した」
胸のうちを吐露する総監の瞳が濁ってゆく。凛とした姿勢が、次第に崩れていった。それに呼応するように、GINの噛み締めていた唇もゆるんでいった。
「それがどういう事態を招くかも考えず、即答したんですか、あなたは」
外したまま手にしていたグローブが、GINの手からぽとりとコンクリートの床へ落ちた。常に見上げていた大きな人物が、縮こまるように背を丸めて頭を垂れた。
「愚行を、心から恥じる。本当に、取り返しのつかないことをした」
いつも見上げて来た、未来の義父とも思っていた存在の、そんな情けない姿を初めて見た。
「身内が被疑者、もしくは被害者だった場合、担当を外される。その不文律の根拠を体現したような人ですね、あなたは」
そう呟くGINの声は、真冬の空気が冷やしたコンクリートの床以上に冷たい。凍った低いそれが、総監の足許まで転がり、咎めるようにそこでとまった。
「ここのパスワードを改ざんしたのはあなたですね。ここを掌握していたサレンダーももう存在しない。ニュークのボスが手足に出来るのは今、あなただけだ」
パスワードを教えろ。GINは初めて命令口調で本間総監にそう告げた。
「あなたは零に、自分の任務を終え次第、このエレベーターで上に逃げるよう指示をしている。マザーコンピュータがあるのは、地下だ。あなたは零を無理やりにでも逃がしたあと、地下を爆破するつもりでいたんだ――自分ごと」
その自己満足の犠牲心に反吐が出る。そう言わんばかりの強い口調が、ますます総監の顔をゆがめさせた。
「償うべきは、私だ。無力な私は、《能力》者の協力が必要だった。土方くんには、巻き込んで済まないと思っている。最後の落とし前をつけることで償おうと思っている」
「そんなの償いじゃないだろう、死に逃げだ。ふざけるな、あんたのその考え方が、あんたの部下にまであんな死に方を選ばせたんだッ」
生き恥を晒しながら償い続けろ。GINの命じる声はもはや叫びに近かった。
「あんたも高木さんも海藤辰巳も、犠牲者が出る前提で考えてばかりだ。それが本当に“正義”なのか? あんたたちが遺される者に見せているのは、妥協と諦めばかりじゃないかッ。爆破で何人が巻き込まれると思っている! イベント警備の手だけで被害者をゼロに出来るとでも思っていたのか!」
頭を垂れたままの彼の肩がびくりと大きく上がり、彼のおののきを表した。膝についた彼の手が拳を作り、わなわなと震え出す。GINの激情が、《送》のコントロールを難しくさせてゆく。総監から漂う思念が、よりGINの怒りを煽った。
《地下はいつでも証拠を隠滅出来るよう、地上に影響しない設計だ。消去されるべきは私と、存在してはならない由良だけだ。君は消えるべきではない。どう伝えたらそれが彼に解るだろう》
地盤沈下というリスクが軽減された安堵よりも、総監への怒りが増した。あとに控えたミッションの軌道修正どころではなかった。
「……解るわけがないだろう」
唸るような声が床を這う。
「ふざけるな!」
というGINの罵声が、総監の顔を上げさせた。GINの両手が、頭ひとつ分背の低い彼の襟を掴んで引き上げた。
「遺された部下たちはどうなる! あんたはこの件を知らないみんなが、理想の上司として尊敬している人なんだぞ! 自分の立場を常に振り返れ、って言ったのはあんただろう!」
『警官を目指した初心を常に携える自分であろう』
『国民という細胞が健全であってこそ、国という個体の健康が維持される。悪というウィルスから細胞を守る、白き一兵卒である自分を常に忘れないで欲しい』
『自身の立場を常に振り返り、驕らず、権力を正しく使い、日々鍛錬に励んでくれることを皆に期待する』
GINは警察学校の入学式で本間総監の述べた祝辞を思い出して叫んでいた。彼の祝辞は、新入生に諭すのではなく、己の有り様を語っているように感じられた。言葉と実績で示す本間総監だからこそ、人の琴線に触れる真の言葉だと思って聴いていた。
「みんなあんたの指針に共感してるからこそ……それを、これ以上、裏切らないでくれよ……総監、お願いします。パスを、教えてください」
荒ぶる声が次第に凪いでいったのは、死人のように濁っていた総監の目に生気が戻って来たからというだけではない。大きくそれが見開かれてゆく彼の驚きが告げていた。気取られることのないはずの扉が《溶》で溶かされ、GINの目だけに見える褐色のオーラが秘密のこのエリアにまで漂い始めた。オーラを感知しない一般人の総監の視線が、GINの背後へ流れていった。自分の暴走をとめてくれる者の到着を告げたそれらの気配がGINをなだめた。
「隼よ、“正義の戦い”ではなかったか。私怨のオーラが尋常ではなかったぞ」
厳かなその声は、過去形でそう告げた。その声に弾かれ、GINの両手が総監を解放した。呆然と立ち尽くす彼に背を向け、GINは声の主を振り返った。
「遅いぞ、タイロン」
GINの面に浮かんだのは、度を越したいたずらが親にばれてしまった子供のような笑みだった。
「ジャパンの交通は我には解せぬ。迷った挙句、歩いて来る破目になってこんな時間になってしまった」
タイロンもGINに釣られたのか、苦笑いを浮かべてそんな言い訳を口にした。
「間に合ってくれてよかったよ。俺がカッカして来たら、そうやってまたあんたに俺をとめて欲しい」
願うようにタイロンの任う仕事のひとつを告げた。彼の背後で彼を守る精霊にも祈る思いで。GINは初めて、神々しい光を放つ大熊を視た。
「承知。だが、司令塔は主だ。その自覚を失念するな」
威厳を漂わせる大熊に守られている主は、GINを諌めつつも赦す笑みを湛えたまま頷いた。
三人で地下層にある元サレンダーの本部へと向かう。懐かしくも嬉しさなど微塵も感じない漆黒の闇がGINたちを迎え入れた。
「灯台下暗し、ですか」
エレベーターの扉が開いてすぐ脇、一段下がった角にある床を本間総監が強く踏み込んだ。三十センチ四方の床がかくりと落ちてひっくり返る。その面にしてから再び総監が踏み込むと、床面が落ちたまま固定され、壁から操作パネルのタワーが姿を現した。
「新しいパスワードの設定画面だ」
長いパスワードを入力した総監が、パネルの前をGINに譲った。GINがタワーの前に立つと、タイロンが隣に控えてGINの所作を見守った。彼にも解るよう英語で入力するべきだろうと考えた。
昨夜は、零が訪ねて来るまで追憶の時間を過ごしていた。子供のころの思い出や、青かった気恥ずかしい二十代を振り返りながら、少しでも、由良へ届けるものが彼女にとって無駄な時間ではなかったと思えるような出来事を自分の中へ溜め込んだ。彼女が笑って自分に送られるのを受け容れてくれるよう、足掻くように由良と共有した思い出を辿っていた。
『神ちゃん、このアニメ好きよね』
中学のとき、由良がそう言って笑ったそれに出て来るスイーパーの主人公が、好きだった。
『だって、野上刑事ってかっけーじゃん』
その登場人物は、主人公の男をいつも袖に振る、美人で敏腕の刑事の方だ。咄嗟にそんな嘘をついたのは、天邪鬼の癖からだろうと今のGINは思う。
『鼻の下が伸びてる。神ちゃんも結局ほかの男子と変わらないのね』
そう言った由良にコツリと額を叩かれた。このアニメを見るのにこだわった本当の理由は、それじゃない。
(主人公のやってることって、現実でなら警察がやっていることなんだよな)
まだ中学生になったばかりのGINには警察の裏事情など知る由がなかった。主人公は、いつも諦めない。仲間や無関係の一般市民が苦しんでいるのが解ると、依頼という観念もなくして完ぺきに守り抜く。普段のとぼけた態度が消え失せ、自分がボロボロになってでも、諦めずに足掻く。そして、必ず目的を成し遂げる。
彼の活躍を見ていると、異端の自分でも誰かを守れるようになれば、生きていていいのかも知れないと思えた。自分にそんな夢や希望をくれた主人公の生き方に憧れた。彼の本質を表すようなエンディングの映像と歌も好きだった。
――Get wild and tought ひとりでは解けない愛のパズルを抱いて この街で 優しさに甘えていたくはない――
――Get chance and luck 君だけが 守れるものがどこかにあるさ ひとりでも傷ついた夢を取り戻すよ――
“可能性と幸運を手に入れろ”
諦めを知らないそのフレーズが、常にGINの背中を押していた。
紀由と対等になりたくて、同じ高校を受験した。浪人が出来ない立場だったから、結局は滑り止めに受験した高校へ通うことになった。
紀由がそれを目指すならと、自分も刑事の道を目指した。零に教えられて初めて、キャリアとノンキャリアの違いを知った。
今一歩のところでしくじることの多い人生だったにも関わらず、諦めるという選択さえ思い浮かべずに紀由の背中を追い続けられた。それは由良のお陰だけでなく、思えばこの架空人物と歌のお陰もあったのかも知れない。それはひどく単純で笑えてしまう理由だけれど。
(はは)
自分でそう思えてしまい、そっと笑う。GINの中に、子供のままな自分を俯瞰で見下ろす、もうひとりの自分がいた。
(G、E、T、ハイフン、C、H――)
絵空事のきれいごとだと思いつつ。幼いころの夢でしかないと、どこかで自分を嗤いつつ、それでも。
(でも、由有がいる。あいつは由良の気持ちも解ると言っていた。まだ何か、両方を守れる手が残ってるかも知れない。まだ諦めるのは……きっとまだ、ほかに手があるはずだ)
GINは自分の心の中にもキーワードを刻む思いで、青臭いそのフレーズを新たなパスワードに設定した。
「おじさん」
親しげに本間総監を呼ぶGINの声に、もう私怨の色はない。
「紀由と零の足どめを頼みます。お前らじゃ力不足だと俺が言っていた、と伝えてください」
笑みさえ浮かべて言い放つ。凪いだ心がそうさせた。
「由良が帰って来れる場所は、中途半端な《風》の、片割れの中だけだから、って」
ふと、妄想に近い憶測がGINの中に浮かんだ。タイロンの放つ《癒》のオーラは、心の治癒も促すのではないか。少し困ったように眉根を寄せて、やはり微笑を返す総監を見てふとそう思った。
「了解だ」
老いた獅子が身を退くように、総監はGINの意向に頷いた。ゆるんだ表情がきりりと結ばれ、最敬礼で見送る彼に軽い敬礼を返し、GINは勢いよく踵を返した。
深緑のコートが裾を翻す。漆黒の部屋の突き当たり、最奥で大きく口を開け始めた隠し通路をねめつける。
「タイロン、行くぞ」
「御意」
GINはタイロンを従えて決戦の場へ歩を進めた。




