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Slide Mission 1

 十二月二十九日。官公庁では年末年始休暇の初日に当たる日。例年ならば非番返上をさして気にしなかった紀由が、今年は徹底した根回しの上確実な休暇を確保した。

 懐に収めた久しぶりのぬくもりが、剥き出しになっている肩の温度との落差を感じさせる。紀由はその温度差に、予定より少しだけ早く目覚めさせられた。視線だけを時計へ向ければ、まだ六時半を回ったところだ。視界の中心を薄暗い部屋の壁時計から腕の中で眠る愛妻へと移す。志保は少しだけ口を開けたまま小さな寝息を立てていた。不意に彼女の唇が閉じ、そして口角がゆるりと上がった。

「ふふ」

 きゅうちゃん、と寝言で呼ばれた途端、昨夜紀由を襲った渇きがまたうごめき始めた。

「……」

 起こしてしまいたい気もする。しかし彼女は今年も一人で大掃除を済ませたらしい。彼女が疲れたように深く眠るのは、紀由が任せ切りにしてしまっている家のことだけが理由ではない。紀由本人は縁を切ったつもりでいる本間の両親宅へもしばしば足を運んでいるらしい。父親はともかく、母親に泣きつかれると紀由はどうにも弱い。結局彼女とは連絡を取り続けている。そんな中で知った志保の“内助の功”だった。

 散々待たせた挙句、帰れない日が続くことも多い。それが当たり前になってから久しい。いろんな意味で気苦労を重ねているであろう志保を、今日くらいは好きなだけ眠らせてやりたい気がした。

 その一方で、夫として不甲斐ない自分を痛感させられる。まだ、志保に我が子を抱かせてやれない。母親になるのが志保の夢なのに、それを叶えてやれないまま、二ヶ月後に迎える結婚記念日がどうやら十回目になるらしい。志保に聞くまでは、何度目の記念日かさえもうろ覚えでいた自分を内心でなじる昨夜の紀由だった。そして今ふと浮かんだのは。

(……迎えられれば、の話だが)

 そんなネガティブなIF。同時に、“却って身軽な方が志保も再婚しやすいだろう”という、やはりネガティブな自己弁護までついて来た。

「ふ……うーん……っ」

 不意に志保の眉根が寄せられ、柔らかく閉じていた瞼が更に固くつぶられた。やがてうっすらと開いた瞼から覗く瞳が、彼女の顔を眺めていた紀由のそれと重なった。

「え? 朝?」

 まだ寝ぼけているのか、志保はそんな当たり前ことを敢えて訊ねて来た。すでにカーテンの隙間から射し込む朝陽が寝室を薄明るく照らす時刻になっていた。

「おはよう。まだ七時だ。眠っていてかまわない」

「う、ん。おはよ。っていうか」

 志保はそう言って口ごもり、なぜか布団の中に隠れてしまった。布団の中に潜られると、ある意味こちらが気恥ずかしい。だが、

「すごく、はしたない夢、見ちゃった。だから今、きゅうちゃんの顔、見づらい。先に目をつむって」

 という思い掛けない吐露が、紀由の文句を封じてしまった。

「……」

 言えない代わりに、志保の顔が見えるほどまで上掛けをめくり返す。

「きゃっ」

 ほんの一瞬だけ見えたのは、薄手の布地一枚では隠せないほどに主張する、志保の胸の頂。それが彼女の見ていた夢とやらを、悩ましげに紀由へリークした。

「相変わらず卑怯だな。自分だけ寝巻きを着込んでいる」

 苦笑にふたつの意味をこめた。ひとつは言葉のままの意味合いを。もうひとつは彼女にも判るよう、慌てて両腕で隠した彼女の胸元へ視線をやった。もちろん、彼女の両手首を掴み、隠すことを禁じた上で。欲を秘めた瞳で“抜け駆けをして卑怯だ”と感じた別の理由を志保に訴えた。

「あ、あ、だって、でも。きゅうちゃん、そのまま寝ちゃったし。いつも遅くまでの仕事で疲れてるだろうから、起こすのは可哀想だと思ったの。でも、ほら、お風呂は保温のままにしてあるのよ。呼び出しが来たらいつでも出られ……あ」

 長い長い弁解が唐突に途切れ、そして志保の瞳が彼女を見つめる紀由の視線から逃げた。

「今日は、出掛ける時間が決まってるんだっけ」

 もったいないことをしてしまったと呟く彼女の横顔が、無理のある笑みをかたどった。

「志保」

「きゅうちゃん?」

 と問う声が甘ったるく囁かれ、紀由の鼻先をくすぐった。幼いころの突き上げる恋心とは異なる、熱く深い情がこみ上げる。それをすべて注ぎ込むように彼女の唇に自分を重ね、きつく彼女を抱きしめた。

「起きて早々というのは、いやか?」

 心の中でたぎる想いを正当化する。母親となった志保を亡夫の子供付と軽んじる男など、自分亡きあとに志保を託す者として力不足だ。そんな狭量な男を、死んでも認めるわけにはいかない。

「きゅうちゃん、ストレート過ぎる。……そういうとこ、相変わらずヘタだよね」

 志保がそう言ってくすりと笑い、そっと紀由の胸を押し戻した。やんわりと拒む素振りが、あっという間に紀由の腕から力を奪う。そういう意味での自分の不慣れさに、呪わしい気分を味わわされた。

 志保の指摘は的確だった。彼女に交際を申し込んだときのことは、今でも紀由のトラウマとなっている。

『どうしてかは自分でも解らない。でも、お前が男子と笑って喋っているのを見ると不愉快で仕方がない。でもそれは、俺のわがままだ。だからお前が俺を張り飛ばせ。そうしたら少しは我慢が出来るかも知れない』

 そのとき志保は、大きく目を見開いたかと思うと、呆れたように紀由を見た。そして、噴き出した。

『きゅうちゃんって、女の子のこと、全然解ってないよね。そういうことだけ、本当に、ヘタ。それ、相手が私じゃなかったら告白だって解ってもらえないよ』

 志保が告げた今の言葉は、中一になろうとしていた当時のそれとほとんど同じだった。

「でも、そういうきゅうちゃんが、すき」

 紀由の中で、幼いころの志保と今の志保が、二重唱を奏でて紀由にそれを許す。

「きゅうちゃん、私、ママになること、諦めてないのよ?」

 いつもと同じ繰り言が、誘いの言葉となって紀由のためらいをとろかしてゆく。

「きゅうちゃん、来年は一緒にお正月を迎えられるね。今回は三日までお休みを取れたものね」

 紀由に飲み込ませようとでも言うかのように、そう紡ぎながら志保の方から口づけて来た。

「帰って来たら、もっとずっといっぱい……ね?」

 それは紀由の内に燻るネガティブな予感さえ打ち砕くほどの、濃厚で強烈なひと言だった。

「……ああ」

 引かれたままのカーテンが、言葉の不要になったふたりをまばゆい陽射しから長い時間隠し続けた。


 紀由に異変を知らせたのは、一本の電話だった。

 遅めの朝食を済ませ、デパートの繁忙タイムとも言える正午を避けることも考慮に入れつつ、出掛ける時間や志保の実家への年始挨拶に持って行く土産をどうしようかと話していたときだった。

「あ。お義母さん」

 電話の主は紀由の母親らしい。新聞に目を通して無関心を装いながら、紀由は全神経を会話に集中させた。少しでも母親が志保を困らせようものなら、電話のモジュラージャックを抜いてやろうという気構えで耳を澄ませた。志保の笑顔を“タイムアップ”のときまで保ちたい一心から来るわがままだった。

「え、お義父さんが?」

 という志保の声や口振りから推測するに、嫁姑の揉め事になる話題ではないようだ。紀由はそこで初めて志保へ視線を向けた。戸惑いを隠せない志保の目が助けを求めている。紀由は無言で左手を差し出し、志保に電話を代わるよう促した。

「母さん、俺だ。父さんがどうかしたのか」

『ああ、紀由、丁度よかったわ。折角の夫婦水入らずのところ悪いんだけど、手伝いに来てもらえないかしら』

 それを聞いて電話に出たのを悔やんだのは、ほんの数分だけだった。

「父さんが休みのときには行かないと言ってるだろう」

『解ってるわよ。こっちだって志保さんには肩身の狭い思いをしてるのよ。あなたもお父さんと同じで、ちっとも家に帰らないんだから。だから夫婦水入らずのところ悪いけどって言ってるじゃない』

「だったら頼むな」

『だって。お父さんたら、今日はお休みだって言ったくせに急に制服を着て出て行っちゃったんだもの。だから紀由に荷物運びをと思って』

「ちょっと待て。制服? 休暇なのに?」

 妙な引っ掛かりを覚え、紀由は母親の本題を遮って問い質した。

『ええ。急用が出来た、って』

「呼び出しの電話でもあったのか?」

『うーん。なかったような気もするのだけど、私もガスレンジのフードの中に頭を突っ込んで大掃除中だったから、聞こえなかっただけかも』

「それは今しがたの話か?」

『まさか! こっちは油で手はどろどろだし、制服を出してる暇なんてない、って言おうとしたら、もう出て行くところだったのよ。ただ気になるのは、緊急のときって担当が替わるから警備部から連絡が来るはずでしょう。それもないの』

 そこまで聞いた段階で、母親の愚痴を聞いてやる余裕が消え失せていた。嫌な予感が警鐘を鳴らす。

『ねえ、紀由。あの人まさか、老いらくの恋』

「なわけないだろう。父さんが出て行ってからどれくらい時間が経っている」

『一時間とちょっと前、くらいかしら。十時ごろだったと思うわよ。もしかして、極秘? 仕事ならいいんだけど』

 それはむしろ、紀由のほうが父に尋ねたかった。表仕事の上司と部下としてではなく、裏の世界に於ける敵対という意味で。

(まさか、サレンダーがなくなったのにまだ)

 こうしている時間さえ惜しい。その焦れた思いを察したかのように、志保が紀由の視界に割り込んで来た。いつの間にか、その手には紀由の携帯電話が握られていた。

(私が代わるわ)

 唇でそうかたどる志保に促され、反射的に携帯電話を受け取った。志保は空いた手を埋めるように自宅電話の受話器を受け取った。

「お義母さん、志保です。ごめんなさい。今、きゅうちゃんの携帯にも仕事の電話が」

 その声をBGMに、アドレス帳を引っ張り出す。操作中にディスプレイが着信を知らせる表示に切り替わった。そこに表示されたのは『風間事務所』の文字。電話の主が零だとすぐに判った。

 GINはまだ志保に自分が赦されていないと思っている。自分だと判る形で電話をして来るどころか、電話自体をして来たことがない。再会当初から、こちらの定めたそのルールを、今まで破ったことがない。

 零についても同様だ。日ごろから紀由の休暇時に連絡をして来ることなど一度もなかった。このコールが何を意味しているのか、ワンコールも満たない短時間で予測がついた。紀由は即座に通話ボタンを押し、噛み付くように問い質した。

「本間だ。何があった」

『風間が――GINに、してやられました』

 よい知らせではない、とは思っていた。だが零の発したその意味を即座に理解することが出来なかった。零のそれを聞くまでは、敵に先手を打たれたという類の知らせだと推測していた。

「どういうことだ」

 こんな無駄な報告の仕方は、零らしくない。彼女の動揺は、想定外の事態が起きていると知らせていた。それも、GINに関することで。つまり彼女は昨晩からこの時間まで、彼と一緒にいたはずだ。零が風間事務所から電話をして来ているということは、彼も今そこから消えてしまったことを示している。

 父親の急な不在、GINの行方不明、そして、零のこれまでにない冷静さに欠けた行動。導き出された案件はひとつしか思いつけなかった。

『至急メンバーに旧本庁への招集をお願いします』

 今度の推測は外さなかった。だが少しも嬉しくはない。

『彼は“ミッション1230”の全貌を認識していると思われます。私も今から旧本庁へ向かいます』

(神祐が、知っている……だと?)

 ざわり、と全身の毛が逆立つような錯覚に陥った。紀由は全貌どころか、ミッションそのものを伝えていない。彼に少しでもそれを臭わせれば、余計に事態をややこしくし兼ねないからだ。

(キースは個人主義で余計な節介をするタイプじゃない。レインはキースと同調する。RIOやYOUには任務しか伝えていない)

 残る既知の人間は、一人――。

「きさま、なぜ話したッ」

 紀由の上げた怒声に、志保が驚いて振り返る。

「今までヤツの何を見て来た、あいつの行動パターンはわかっていたはずだろうッ」

 と、紀由はまくし立てたが、すでに通話は切れていた。ぎりりと奥歯が嫌な音を立てる。紀由はアドレス帳の画面に戻った携帯電話の操作に戻った。RIOにコールするが、電源を切られている。YOUも同様だった。キースに至ってはコールするのに通話に応じない。いつもどこか頼りない弟分が、初めて自分を出し抜いたと認めざるを得なかった。

「く……そ、決行をスライドさせるしか」

 時計を見上げてそう呟いた視界の隅に、志保の不安げな顔が映った。途端、激した憤りが別の迷いとすり替わる。志保を見つめ返す紀由の眉間に、深い皺が刻まれた。

「きゅうちゃん、いってらっしゃい。気をつけて」

 紀由の母親と通話中にしたまま、志保が受話器をことりと置く。

「お義母さんの手伝いは私に任せて。そんな顔しないで、ほら」

 日ごろの勤務と変わらない口調が、却って彼女の思いを伝えて来る。今日も紀由の腕を取り、くるりと回れ右をさせる。そしていつもと同じように、トンと紀由の背中を押した。

「大晦日までには帰って来れるんでしょう? 今度のお正月は賑やかに迎えられそうで楽しみだわ。お義母さんとお正月準備をしながら待ってるわね」

 勝って来いと志保が言う。帰って来いと志保が命じる。唇を噛んで、未練を押し殺した。志保に充分な時間を与えられなかった罪悪感は、帰ることで帳消しにしてやると自分に誓って顔を上げた。

「行って、来る」

 あとを頼む、といういつもの言葉は、わざと口にしなかった。行って、帰って来るという意味を込め、噛み砕くように区切った挨拶を志保に返す。振り返った紀由の面には、相変わらずの不遜な笑みが浮かんでいた。

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