ふたつの魂 1
紀由の手配したホテルに身を寄せ、メッセンジャーとして零が赴くまでの数日間をレインと過ごした。
「あ! もう、また勝手にベッドを抜け出してる」
レインが買い物へ出ている隙にベッドから抜け出し、リビングで紫煙を燻らせているところを彼女に見つかった。
「だって吸いたかったんだもん。ベッドだと火災報知器が作動しちゃうじゃん」
という言い訳は通用しなかった。レインはテーブルに買い物袋を放り出したかと思うと、GINの手から煙草を奪い取って灰皿の上でもみ消した。
「あたしやゆかりさんの《淨》はお薬じゃないんだよ。痛みを不快じゃない感覚にすり替えているだけなんだから。ちゃんと寝てないと、治る傷も治らないでしょう」
GINに対してすっかり警戒心を解いたレインが、今日も人差し指を立てて説教を繰り返す。この数日レインが施してくれる《淨》は、日本の華僑でキースとひと月ほど潜伏している間にYOUと共有したものらしい。とは言え、まだ発展途上とのことで、本能的な不快感を和らげる程度の発動とのことだった。
「解ってるよ。っていうか、アメリカなんてもう懲り懲りだ」
外へ出るどころか、日本に戻ったら絶対に一生日本から出ない、と半分本気の愚痴を零した。
「極端だなあ。大人しくしているのは傷が治るまでの間だけでいいのに」
「も、やだ。外国人こわい」
大げさな冗談にわずかばかりの本気を織り交ぜ、芝居めいた格好でテーブルに突っ伏してみせる。こっけいな自分を演じることで、レインが笑うのを期待した。彼女の未熟な《淨》では御し切れない不安が、GINに笑顔が見たいと切望させた。
「にゃははははは。キースがGINをからかいたがるの、なんだかすごく解る気がするよ。GINってばお子さまー」
長いさび色の髪をふわふわと揺らし、レインが濁りのない高らかな笑い声を上げる。思春期の終わりから青年期へ移り変わろうとしている年ごろ特有の曖昧さが、彼女を少女にも女性にも受け取らせた。
GINを見て笑い、ときに上目線で説教を繰り出すGINの探し人と、レインのかもし出すそれはよく似ているのに。不安が軽くなるどころか、却って余計に彼女――由有を意識させた。その違いが渇きと焦りを更に煽った。
「GIN?」
テーブルに突っ伏したまま顔を上げないGINの頭上から、そんないぶかる声が降った。上げるに上げられなくなった顔を隠したまま、そっと返事の声を上げる。ただの呻きにしか聞こえないそのあと、しばらくの沈黙が続いた。
「GIN、ノームがね、面白い話を聞かせてくれたんだ。ノームの本業って、ヒーラーなんだよ」
聞き慣れない単語がすぐ真横から降り注ぎ、GINは驚いて顔を上げた。GINが突っ伏しているテーブルのすぐ脇で、レインがへりに腰掛けていた。彼女の蒼い瞳を仰ぎ見てみれば、大人びた表情を宿した苦笑を浮かべ、GINをまっすぐ見下ろしていた。
「……なに」
ふたつの意味で問い掛ける。自分への哀れみの内訳と、ノームのマッド・タイロンが話したという面白い話の内容。
「魂っていうのは、もともとふたつに分かれた形で存在しているのがほとんどなんだって」
スピリティズム、と解釈すればいいのだろうか。人の魂――レインの語る心の話は、思念が視えてしまうGINにとって、意外にも興味深い話だった。
「人は最終的に、ソウル・レイ――神さまの愛、っていう光で作られた愛の魂として相棒の魂とひとつになるんだって。レイと巡り合えた魂は、それぞれに任された分担を精一杯生きて、一緒にその命をまっとうするんだって。そのために、ソウルはいろんな段階に何度も生まれ変わることを望んで、それで魂はぐるぐるといろんな生を巡るんだって。だから、そのときそのときの生で、こなすべき試練や課題に立ち向かわないと、なかなかレイとは巡り合えない、って」
テーブルの上で折った肘を枕代わりにしながら、タイロンの言葉を語り伝えるレインの話に耳を傾けた。
「レイ、って言い分けるってことは、ほかにもあるのか?」
「うん。たとえばソウル・メイトっていうのは、その人にとって確かに大切な魂なんだけど、だからと言って、必ず惹かれ合うとは限らないんだって」
それは同性だったり、血の繋がった家族だったりすることが多いらしい。
「同じ環境の中で同じ課題をこなす仲間、だからメイト、って言うんだって」
そんな語り口で、ツイン・ソウルという魂についても語られた。
「ツインはね、異性で生まれることとか惹かれ合うこととかが、メイトの場合よりもすごく多いらしいよ。同じ目的を持っていて、初めて会ったときでもずっと知っていたような感覚に陥るんだって。電気が走る、っていうんだっけ? 日本ではこういうの」
レインはそう言ったかと思うと、不意にGINへ視線を戻した。トンとテーブルから降りて、GINの真横に椅子を並べて腰掛けた。なんとなくGINまで姿勢を正したくなり、テーブルに突っ伏していた身体を起こして背もたれに身を委ね、レインと向き合った。
「あたしね、思ったんだ。きっと由良は、GINとレイでありたかったんだろうな、って」
「!」
唐突に、しかも由良を知らないレインの口からその名が出たことに息を呑んだ。彼女はGINのそんなリアクションを予測していたのか、GINに問い質す間も与えず、自分の思いを紡ぎ繋いだ。
「だけど由良のソウルが、自分はGINのメイトでしかないと知ってしまったんじゃないかって思うんだ。だけどそれが悲し過ぎて、認められなくて……由良の悲しい気持ちを、あたしは解る気がする。あたしもずぅっとキースを追い掛けてばっかりだったから。キースの教えてくれた、GINの中にいる由良を見て、解るって気が、したんだ」
そしてまた彼女は、十三歳の割には大人びた苦笑を浮かべた。
「今、さりげなく過去形にしただろ。キースからヤツの本音を教えてもらったのか?」
「……うん。ごめんね。だから、キースが覗いたGINの昔話も視えちゃった」
ふと嫌な記憶が蘇る。キースが自分から《送》を送受信した、その方法。レインの気色悪い誤解もすっかり解けて、GINの中からも霞んでいたはずの屈辱感が、GINに汚れてもいない口許を拭わせた。
「マセガキ」
なんとも言えない複雑な心境で、頬を染めるレインを見咎めつつ目を細める。
「えへへ……」
照れくさそうに笑う彼女は、羨望さえ感じさせるほど満ち足りた表情で俯いた。キースの見聞きしたこと、彼の考えていることが、今のレインには解るらしい。それはキースがGINと共有した《送》のなせる業らしいが。
「だからサレンダーやニューク・ファイブが悪い組織だった、ってことも初めて知ったんだ」
そんな言葉が吐き出されるとともに、レインは苦しげに眉根を寄せた。
「キースに仕事をくれる、いい人たちだと思ってたんだ。空港では、本当にごめんなさい」
ぼそりと呟いた彼女の額を、ぴんと軽く指で弾く。驚いて顔を上げた表情は、まだ幼い。日本では考えられない過酷な実情を知った今のGINから見れば、あどけない素直さを保ち続けて来れたレインに尊敬の念を覚えるほどだ。そんな思いがへたくそな笑みを作る。レインは釣られたように口角をゆるりと上げた。
「サラマンダもノームも、本当は悪い人じゃないんだよ。ノームはさっき話したように、ソウルの話であたしを慰めるだけじゃなくて、キースが自分のソウル・レイだと思うなら、泣く必要はない、って叱ってくれたの。サラマンダも口は悪いけれど、あたしには優しかったんだよ。怒鳴ってばっかだったけど、やっぱりノームみたいに、“泣いてる暇があるならコントロールの練習でもしな”って、自分のときのことを話してくれた」
きっと本当に悪い人、なんていうのはこの世界にはいないんじゃないか、とレインは言う。組織を作った人々も、個の魂という単位でみれば善意が発端だったのだろう、と、と。ただ、ベクトルを間違ってしまっただけなんだ、と彼女は持論を述べた。
「だから、憎しみや悲しみで戦っちゃいけない、って、思ったんだ。キースは、解ってくれた。RIOなんかはね、“言われるまでもない”って顔してたよ。サラマンダにボロボロにされたのにね。RAYは困った顔して笑ってた」
零。その名を口にしたほんの刹那、レインの瞳が濁りを帯びた。GINはその一瞬を見逃さなかった。反射的にひくりと片側の眉尻が上がる。それを目にしたレインは、はっとした表情をしたかと思うと、ついと視線を逸らして赤み掛かった両サイドの髪で自分の表情をGINから隠した。
「何か隠してる?」
妙な間のあと、否定の声が返って来た。むきになって首を横に振るので嘘だとすぐに判る。彼女がうつむいているのをよいことに、GINは手早くグローブを外した。
「俺には隠しておけって言われた何かも、キースの中から読んじゃった、とか」
「え?」
GINの陽動を耳にして、反射的に顔を上げたレインの額を素手で素早く掴み取った。
「あッ」
そんな声が、レインの思念と重なった。表層に漂う彼女の思念は、キースの視点で見る紀由の苦渋に満ちた顔だった。
――恐らく由有は、由良の――。
「ダメ! 離してッ!」
レインの叫ぶ声が、一瞬にして遠い声になる。ごぼりと内耳から聞こえる水の音。視界に広がる深い蒼。
(……ッ、やめ……ギブッ!)
GINの首から頭部をすっぽりと包んだ《泡》が、彼女の額を掴んだGINの手から力を奪った。《送》の送ったギブアップの思念が彼女に届いたのだと思う。ザバ、と勢いよく水の落ちる音と同時に、GINの身体がずぶ濡れになった。そのまま前のめりに屈みこみ、しまいには手と膝を床についてむせ返る。
「ご、ごめん……ごめんなさい。あたし、そんなつもりじゃ」
「解って、ごほっ……解ってる……ごめん、怖がらゲホッ」
背中をさする小さな手が、少しずつまた苦しみを癒してくれる。まだ少しあどけなさを残す高音が、何度も「ごめんね」を繰り返す。
「レイン……頼む。知っていることを、教えて欲しい」
びしょ濡れになった髪から、はたはたと水が滴る。それに紛れて違うモノまでが、GINの意思に反して滴り落ちた。結局GINは、レインに縋る形で問い詰めた。
「由有と、約束したんだ。いつか必ず……だから、もしキースや本間が何か掴んでいるなら、全部教えて欲しい。俺が行かないと、あいつにとってはなんの意味も、ない……」
背を撫でる手の動きがぴたりとやんだ。それがGINの背で迷い、そして小さな拳をかたどった。
「由有が最悪の状況に置かれていた場合、GINは使えない状態になるだろう、って、本間さんが……だから、今回のミッションからはGINを外す、って」
苦しげなレインの声が、ためらいがちにそう答えた。
「キースね、今、由有じゃなくて、サラマンダを探しているの。本間さんが彼女と契約をしたい、って」
「けい、やく」
「うん。日本にある地下の完全破壊に協力を頼みたいんだって。ノームからはまともな返事が返って来なかったみたいだけど、サラマンダは行方不明になっちゃってて」
キースと合流してからの数日、彼はずっとGINと目を合わせない。冗談のひとつも言わなかった。そしてとうとう昨夜は帰ってさえ来なかった。それにも関わらず、レインはその不安をGINに訴えて来なかった。ここ数日怪訝に思っていたそれらの理由がようやくはっきりした。
「お前が俺の監視役、ってわけか」
「……ごめんなさい。本間さんは、GIN以外の《能力》者と自分とで旧本庁の地下を埋める、って。きっとそこにふたりもいるだろう、って」
ふたり。内一人が由有を指しているのは、解る。では、もう一人は?
「本間は“ふたり”って言っていたのか? キースの聞き違いがそのままレインに《送》られたのではなくて?」
「うん、“ふたり”って言ってた。ただね、そこから先は、あたしにも視えなかったの。ねえ、GIN。《送》ってそんな風に、視せるとか視せないとか、自分でコントロール出来るものなの?」
レインがそう訊ね返して来たとき、初めて蒼い瞳に不安が宿った。それは、GINの欲しい情報を彼女も知らないと告げているに等しい。
「強くほかのことを言語化して考えることで、ぼやかすことくらいなら出来るけど」
そう答える声に、失望の溜息が混じった。それがレインの同じ思いと重なった。
「そう、なんだ。でも、キースって裏表の切り替えなんて出来る性格じゃないんだけどな」
そんな独り言に、妙な引っ掛かりを覚えた。
「……だよな。あいつってイノシシそのもの、だもんな」
ふと、地下の実験施設で見た資料の一文が思い出された。
“個体の耐性が単体による《能力》の負担に敵わない場合、親子、双生児等、親近者の形で《能力》が分散される事例あり。”
「待て、レイン。キースは、一人で《風》のすべてを背負うだけの耐性があるのかも知れない」
キースとは《能力》を共有したというよりも、持っていたものの使い方を知らなかっただけで、GINからその方法を単純にトレースしただけかも知れない。
「GIN?」
点となっていた謎のいくつかが、線と線で繋がれる。《風》の候補者たちが犠牲になった人体実験。由良のネームプレートがあったにも関わらず、安西に手渡されていた失敗リストの“は”行には、本間由良の記載がなかった。生存期間は過去事例で一週間。それは今から何十年も前の話。今の科学技術は当時のそれに比べ、飛躍的に進化発展を遂げている。過去にその程度の実績だったとしても、研究が続けられていたのだとすれば――。
「いやでも、それならどうして由有が拉致される必要があったんだ?」
当然の謎にも、一本の線が結ばれた。
もしも由良が七年前の爆発時、身体にひどい損傷を受けたものの絶命していない状態で発見されていたとしたら?
地下層のガラスケース。頭ひとつ分より数周り大きい程度の小さなケース。血管にも銅線の絶縁体にも見えていた細い管――赤と青と、そして色とりどりの、長い管。紀由の零した“ふたり”のキーワード――。
ふと思考をかすめてゆく“段階のソウル”の話。同じ課題をこなす仲間、メイト。惹かれ合うツイン。ふたつに分かれたソウルが最終的に求める“レイ”となるべく、通過すべき“別離”が前提となっている魂の形態――。
――あたし、諦めないから。いつかまた、GINと一緒に生きていくこと。
リストアップされていないほどの新しい情報として、もし由有も《風》の候補に挙げられていたとしたら――?
ぞくり、と背筋に寒いものが走った。心臓が悲鳴を上げ始める。
「う……ぉ」
げぇ、という耳障りな音が、部屋に響いた。
「GIN?!」
レインの悲鳴に近い呼び声が、どこか遠くからのように聞こえる。涙でぼやけてゆく視界の中、GINだけに見えたモノ。グロデスクな肉の塊。遠い昔、神経が過敏なころに見たことのある、ホルマリン漬けにされた脳のイメージ。
「おぅぅぅぇぇぁッ」
警視庁の最地下の更に下、研究施設と思しき密室に立ち込めていたアンモニア臭が鼻をつく。
「誰か……どうしよう……、GIN、しっかりしてッ」
どうにかしたいのに、レインを怯えさせたくないのに、吐き気がとまらない。淡い蒼がGINを取り巻いてゆく。耐え難いほどの嘔吐感が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「レ、イン……ごめ」
謝罪の言葉も言い終えないうちに、GINの見る景色がブラックアウトした。