In New York 2
三ヶ月前の九月五日。サレンダーの本部を立ち去ったGINは、急いで事務所に戻り、偽造パスポートと通帳、簡単な着替えをバックパックに詰め込んでから大家に留守の旨を告げて飛び出した。まだ首相公邸にいた紀由とは、成田空港に着いてから公衆電話でコンタクトを取った。
「地下層の機材を破壊した、だと?」
一般回線では傍受盗聴の危険があるため、紀由が慎重に言葉を選ぶことは予測済みだ。必然的に口数を減らさざるを得ない状況こそがGINの狙いだった。
『ああ。でも、全壊まではいってない。あとは適当に頼むわ』
「頼むって、お前、何を考えている?」
『アイツを探しに行って来る』
馬鹿者、という罵声が飛んで来た。それ以降の文句は、受話器を置いたので聞こえなかった。
搭乗時間を二分ほど過ぎていた。出発ギリギリに連絡を取ったのも、GINの描いたシナリオのひとつだった。居場所を特定されたら止められるに違いないからだ。
『紀由、悪い』
GINは既に受話器を置いた公衆電話に向かい、軽く一礼して詫びの言葉を呟いた。
空港へ来る前に、サレンダーから支給されたキャッシュのうち、適度な金額を外貨に替えてバックパックに押し込んだ。零が非常用にとストックしてくれてあった鎮痛剤のPTPシートもあるだけのすべてを携えた。
リザの思念から、彼女の居住地がニューヨーク近郊であることは判っていた。いくら広大な国とはいえ、召集命令に即時対応出来ない辺境にニューク・ファイブの拠点があるとは思えない。
急がば回れ、という概念が消え失せていた。たとえ一秒でも、じっとしてはいられなかった。
言葉さえ通じれば、あとはどうにでも出来るだろう。そんな無知が災いした。なんの予備知識もなく飛び込んだマンハッタンで、今思えば“のんき”とさえ言えるひと月余りを過ごす破目になった。
タクシーを足にして手掛かりを探し回ったが、ニューク・ファイブのアジトどころか、リザ・フレイムさえ見つけられない。日に日に効果が薄れていく頭痛薬。行き交う人の思念を無差別に読んでは、無駄な徒労に終わる毎日。リザの中で見た光景を思い描く人を見ては声を掛ける。大抵の人は、胡散臭そうな目でGINを見つめ、「知らない」と答えるだけだった。
無駄に時間を過ごす中で、ようやく反応を示す相手が現れた。
『(イースト・ハーレムへ? あんた、本当にそこへ行く気なの? 一人で? そのナリで?)』
恰幅のいい黒人の女性は、不穏な表情をあらわにしてGINに訊き直した。そして背後に待たせているタクシーをちらりと見遣る。
『(やめた方がいいよ。あんた、訛りの強い話し方だからこの辺が長いのかと思ったけど、そうでもなさそうじゃん)』
『(何か知ってそうだな。リザ・フレイムって女を捜してるんだけど、その辺りに住んでいるはずなんだ)』
そう言ってリザの特徴を説明した。GINが知り得た彼女の生い立ちを掻い摘んで話し、それらしき娼婦が客を引くエリアを教えてもらった。
『(調べたスラムはほぼ全部回ったけど見つからない。別の人からハーレムって地名だけは教えてもらったんだけど、話の途中で逃げられちゃったんだ。ハーレムって文化圏だった気もするし、そういう場所があれば教えて欲しい)』
『(あたしもその辺に行ったことはないから。詳しい地図はわかんない。その女のことも、残念ながら知らないわ。ところで、あんたの待たせてるあの黒タク、解ってて乗ってる?)』
その女性は、GINの乗って来たタクシーが無認可のぼったくりタクシーだと教えてくれた。
『(そうなんだ。道理で高いと思った)』
軽い眩暈を覚える。鎮痛剤が底を尽きて買い足したときに目を剥く値段だったことで、初めてこの国では日本とは話にならないほど医療費や薬の値段が違うと知ったばかりだ。また新たに無駄な経費を使っていることが判り、自分の無知と無鉄砲を軽く呪った。
『(事情は知らないし、聞く気もないけどさ。その女を探すのは諦めなよ。悪いこと言わないからさ。あんた、またカモられるよ。きっと、絶対)』
容赦なく断言される。人の好さげな黒い瞳が心配そうにGINの瞳を覗き込んだ。初めて触れた親切に、自然と笑みが浮かんだ。
『(ありがとう。でも、諦めるわけにもいかないし。地下鉄でどう行けばいいかだけ、最後に教えてくれないか)』
彼女は大きく首を横に振り、大げさに肩をすくませた。
『(そうかい。じゃあ、金目のものを置いて、得物を用意してから尋ねるほうがいいよ。ジャパニーズならなおさらね)』
彼女はそう言って地下鉄での行き方を説明し、逃げるように立ち去った。
日本では今どういう状況になっているのだろう。
頭痛薬も底を尽き、資金の面でも幾分か心細くなった。下手にこちらで口座から引き出そうものなら、紀由に自分の所在が知れることになる。そう思ってこれまで手持ちの資金でどうにか凌いでいたが、それもそろそろ限界だと思われた。
零やRIOの容態も気掛かりではあった。それらを考慮する余裕が生まれたのは、親切な黒人女性のハーレム地区に対する異様な警戒振りからだ。裏が暗躍する場所に近づけている気がした。
そんな報告も兼ねて、GINはようやく紀由と連絡を取る気になった。
「き、さまッ! どこで何してる! この馬鹿者が!」
相変わらずの紀由に思わず口角が引き攣れた。
『ごめん。あとちょっと。きな臭い場所を見つけたから、そこを調べてダメだったら、一度日本に帰るから』
そんな場当たり的な答えを返し、日本での状況を紀由に尋ねた。
「お前が飛び出す前のミッションのとき、例の案件で目撃情報があったと依頼主から報告があった」
傍受を懸念しての間接的な紀由の話から窺えたのは、首相公邸近辺をうろついていた複数の外国人や不審車輌の目撃情報がマスコミへ直接リークされた、ということ。鷹野が先手をついて、マスコミに由有の保護を会見で発表したとのことだった。
「その辺りはマスコミも大人しく口をつぐんだ。下手したら国際問題になることくらいは認識出来ているのだろう。とにかく、N.Y.の調査はキースに任せて、お前はすぐに帰国しろ。彼の方が地理や文化に明るい」
また面倒な話題へ戻した紀由に苦虫を潰し、GINは
『キースは子連れだろ。俺の方が自由が利く。だからあと一箇所だけ調べるまでは帰らない』
とだけ伝えて一方的に電話を切った。
『とりま、この場所にいるってのは特定されたな。ホテルを替えてからハーレムに行くか』
それが後に悔やむとも思わずに、GINは紀由に痕跡を残した場所から別の地区へと拠点を替えてしまった。
イースト・ハーレムの、とあるアベニュー。そこは近隣でも有名なスラム街らしく、一般の住人は近づこうとさえしないらしい。親切な黒人女性がなぜあそこまでスラムへ足を踏み入れることに反対したのか、GINは身を以って知ることとなった。
観光地区から離れて一時間後、GINは十人以上にのぼるストリートギャングの集団に囲まれた。そして最終的には壁際まで追い詰められる事態となっていた。そこまでの間に《流》を使って動ける相手を三人にまで削ることは出来ていたが、頭痛のリスクがGINの動きを鈍らせていた。
(やっべ……《流》は、もう使えない)
たった三メートル強の高さを跳ぶことさえ叶いそうにない。頭痛が俊敏な動きの邪魔をするのに加え、《能力》を使い過ぎて枯渇している感覚がそう思わせた。
ニヤニヤと下衆な笑みを零しながら近づいて来るのは、両腕をタトゥーまみれにした黒人の男。大柄で腕っ節の強そうな彼を皆が「ボス」と言ってはいたが、この区画を任されているだけの小物と判る若造だ。
『(ヘイ、ジャップ。鬼ごっこはもうおしまいか?)』
タトゥーの大男はそう言って、軽く指を差すようにジャックナイフの切っ先をGINに向けた。
『……』
コートのポケットに手を入れることさえ出来れば、あとひとつだけ残っている鎮痛剤を飲むことが出来る。だが迂闊に手を入れればどうなるのかは、いくらアメリカ事情に疎いGINでも知っていた。ボスの背後にいる若者を含め、注意深く観察する。
(拳銃は持っていなさそう、かな)
GINは一か八かの賭けに出た。ノーモーションから一気に身を屈め、同時にポケットへ手を滑らせた。真正面で立ちふさがったボスの足に思い切り蹴りを入れて転倒させる。
『Shit!』
ほかのふたりが同時にGINを頭上から襲った。ポケットから取り出した鎮痛剤を、思い切り奥歯で噛み砕く。効果が出るまで三十分内外。あと三十分だけもたせなくては。そんな焦る気持ちが、逆にGINの注意を散漫にさせた。
『いっ?!』
相手より小柄であることを利用してすり抜けようとしたつもりが、低姿勢でスライドした足を掴まれた。勢いのままに顔から身を崩し、鼻を思い切り路面に打ちつける。鼻腔からぬるりとした感触が伝い、口の中に鉄の味が広がった。頭痛が何割増にもなってGINを襲う。外傷から来る痛みと内側からのそれが曖昧になって、ズキズキとこめかみや額を締めつけた。
『!』
ふたり掛かりの力で、GINの両腕が思い切り後ろへねじられた。服を破られる耳障りな音がし、生ぬるい熱気がGINの上半身を気持ち悪く撫でた。布地の破れる音が続く中、目の前に放り捨てられたもの。
――神ちゃんに似合う色なんだけど。でも、年寄り臭いって怒るかな。
着ることがなくても持ち歩いていたGINのお守りが――由良が誕生日と就任祝いを兼ねて贈ってくれた深緑のコートが、GINの目の前で無残な姿に変わり果てていた。GINのショックは置き去りにされ、ボタンを引きちぎられたシャツがGINの両腕に絡みつく。腕の自由が利かなくなっていた。手下の一人がGINの前髪を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせた。
『ンぐぁ!』
顎を膝で思い切り蹴り上げられた。ミシ、と嫌な音が響き、顎と関節に激痛が走る。下卑た笑いが裏路地に響いた。内耳からガチガチという嫌な音が頭痛を刺激する。自分の歯が鳴っているのだと気づくまでに時間が掛かった。気づけばうつ伏せの状態で圧し掛かられていた体が腰から持ち上げられていた。身に着けていた服のほとんどは剥がされていた。誰かのベルトを外す音が、耳障りなほどカチャカチャと路地に響いていた。
『――ッ?!』
無理やり開かされた口の中に、臭気を放つ異物を押し込められた。悪寒と嫌悪と恥辱が走ったのは一瞬だった。それを凌ぐふたつの感情が、GINの瞳の色を変えた。
――ごめんなさい。もう読まないから、ぶたないで。
羽交い絞めの拘束感と痛みが、幼いころに受けた暴力とそれに伴う恐怖を呼んだ。
――神ちゃん、私の分も生きて、神ちゃんにしか出来ない使命を、まっとうしてね。
由良の遺した想いが目の前で引きちぎられている。それに対する怒りがGINの理性を吹き飛ばした。
そして何よりもGINを激情へと駆らせたもの。
――あたし、諦めないから。いつかまた、GINと一緒におんなじ場所で生きていくこと。
ここで立ち止まっている暇などない。時間がない。行く手を阻まれていることに対する激昂がGINのリミッターを解除した。
『(あ?)』
そんな間抜けな声を発したのは、いきり立った己をGINに咥えさせた男だ。GINの腰を持ち上げて露出した肌に触れていた別の男が、驚愕で目を見開いた。
『(なななななななな)』
次の瞬間、人の声とは思えない悲鳴が裏路地に轟いた。GINたちから少し離れた場所で服から金品を漁っていたタトゥーの黒人男が、その声のせいで作業を中断してGINたちのいる方を振り向いた。何が起きたのか解らないと言いたげな怪訝の表情が、GINとその足許で転げ回っている無様な仲間に視線を向けた。次の瞬間、大きく目を見開かせたボスの男は、GINに一物を噛みちぎられた男から、なすすべもなく間抜けな格好で腰を抜かしているもう一人へと視線を移した。やがて表情を失くしたボスの黒い瞳がGINの瞳と合うと、剣呑に細まった彼の目が鈍く光った。
『(ジャップ……てめえ、ブラザーに何をしやがった)』
GINは噛みちぎった一物の先端を吐き出し、日本語のままで唸るように呟いた。
『返せ』
視界が深い緑一色になっていた。脳みそを引きずり出したくなるほどの頭痛がGINを好戦的にさせた。
『貴様らと遊んでいる暇はない。さっさと金と服を返せ』
そう命じながら、一歩ずつボスの男に近づいてゆく。ジャックナイフをくるりと回して持ち直す彼のみぞおち目掛け、渾身のアッパーをぶち込んだ。それが人の目視では追えない速さで男の腹に埋まってゆく。拳に暴走した《送》が集まってゆく。練り込められた思念はそのまま男に流れていった。
『(ゴォォォッッッ!!)』
という醜い声が轟くと同時に、GINの頭上に吐しゃ物の雨が降った。胃酸のすえた臭いがGINをより不愉快にさせる。それを嘆くように、空から大粒の雨が落ちて来た。
『(バ……ケモノ……っ)』
久々に聞くその言葉は、たとえ英語であっても耳障りこの上ない。豪雨と化した雨音は、GINの耳に不快な単語が届かぬよう更なる騒音を撒き散らした。
『(しばらくそこで、悪い夢でも見ておきな)』
GINはボスの男からボロボロのTシャツとすすけた革ジャンを剥ぎ取ると、だぼだぼのそれを身に着けた。外されたジーンズのボタンを留め、ベルトを締め直す。次にくるりと踵を返し、自分をファックしようとした男の額を乱暴に掴んで吊り上げた。
『(シマの面子に伝達しろ。俺の滞在中、このシマは俺が借り受ける。俺に手を出したヤツがどうなるか、その目にようく焼きつけろ)』
そこで一旦言葉を区切り、GINは自分の汚い物を咥えさせた男へ視線を流した。鼻水と雨でびしょ濡れになった捕らわれの男が、GINに釣られて同じ方へ目玉だけをギョロリと動かした。GINの左手に、小さな小さなつむじ風が出来る。それが雨を巻き込んでゆく。《流》の圧縮されたそれが、次の瞬間、無数の剣へと姿を変えた。
『(――ッ!!)』
それは、注目を浴びた男の声にならない断末魔の悲鳴。キースからラーニングしたかまいたちが彼を襲い、GINに頭を鷲掴みにされて吊り上げられた男の目の前でスライスされた。しばしの、静寂。次に、ぼとぼとと重い何かが落ちる鈍い音。同時に、大量の降雨を凌ぐ血のシャワーがGINや拘束された男の全身を真っ赤に染めた。
『(ああああああああ)』
壊れたボイスレコーダーのようにひとつの音を絞り出す男。血にまみれた顔に飛んだ血飛沫を、スコールのような雨があっという間に洗い流していった。
『(今ごろボスも夢の中で、同じ思いをしている。俺の命令を聞いたことに文句はつけないはずだ。今すぐ言われたことを実行しろ。でなければ、次は――お前の番だ)』
自分の言いたいことだけを一方的に告げると、GINは男のを路面へ叩きつけるように振り落とした。
『(んがッ!)』
『(全員に、リザ・フレイムとニューク・ファイブに関する情報を調べさせろ)』
これまでに見たことのない黒に近い深緑の中、GINは仮面のような表情で淡々と指令を下した。紀由たちと出会うまでは当たり前だった、人を人として見ていなかったころの“神祐”が顔を覗かせていた。