盲点 1
GINがYOUと合流し、キースを伴ってレインの深層意識へダイブしていたころ、零はYOUに明け渡された作業車で搭乗口付近まで戻っていた。
「なんてこと……どうなっているの」
答える者などいないのに、眼前に広がる炎の渦を見てついそんな問いを口にしてしまう。
「あっ」
作業車が突然スピンし、とっさに急ブレーキを踏んだ。車体がけたたましい音を立てながらアスファルトに幾重もの弧を描いた。恐らくタイヤにトラブルが生じ、フレームがじかにアスファルトをこすっているのだろう。零は視界が傾く直前にドアを開け、迷うことなく飛び降りた。
「熱っ」
アスファルトに熱と粘りを感じ、思わずついた掌を引っ込めた。熱でタイヤが軟化してパンクしたと思われる。零は目を細めて急ブレーキと熱の元凶に視線を傾けた。
「遼……」
業火の中に、ゆらめく人影が微かに見えた。ただ、その影は、ひとつ。一瞬霞のように見えただけで、すぐにアスファルトを焦がす煙がそれらを掻き消してしまった。
胸元でジジ、というノイズが聞こえた。これまでの衝撃で、白バッジがエラーを起こしているようだ。
(リセットすれば通信可能だとは思うけれど)
一瞬だけ、ためらう。細工されたこの白バッジは、リセット後のコネクト対象が本間のままであるとは限らない。零はサレンダーの中で、唯一体内にマイクロチップを埋められていない存在だ。それは高木の機転によるものだった。高木は零の自由と安全確保を条件に、ほかの《能力》者確保の協力を確約したのだ。組織が唯一零を縛れるものは、今も本間の存在と白バッジのみ。零はボスの指令に従い、華僑の居住区で胡主席の影武者を確保していることになっている。そのダブルスタンダードをボスから隠すため、ここへ来る前に普段身につけている白バッジは華僑の協力者たちに渡していた。もしもこの白バッジがボスのいるあの地下の回線に繋がってしまえば、ここを表示してしまう。つまり、本間のダブルスタンダードが露見することになる。
(本間なら、どこまでを想定しているか。そうね……)
きっとなんらかの手立ては講じているはずだ。ミッションが順調に進むはずがないという前提で。
(本間を信じましょう)
零は白バッジのリセットボタンを押した。オフになって五秒後にオートでオンになる仕組みになっているそれは、二度ほどエラーを繰り返したあと、機能を復活させた。
《――、聞こえるか。本間だ。RAY、応答しろ》
まだ一時間も経過していないはずなのに、何年振りとさえ思えるほどの懐かしい声が零の鼓膜を揺らした。
「本間……」
呟く声が、意図せず震える。彼の声はいつもと変わらず冷静で、滑舌のよさも変わりない。心身ともに無事だったことを知ると、自然と視界が揺らいでいった。
「RAYです。応答遅れました。リセットし、現在通信状態は良好です。どうぞ」
《YOUから連絡があり、こちらへ急行中と聞いている。今どこだ。負傷の度合いは》
事務的な口調の影に、かすかに混じる私情。それを解れる心の距離が、零をなんとも言えない心境にさせた。
「現在搭乗口に到着。負傷は利き腕を少々。ですが、マッド・タイロンの《癒》で軽減され戦闘は続行可能」
私情を振り捨て、端的に要点を返す。問題なく本間とコネクト出来たことで、任務という大儀が零の思考を占拠した。
「火急の情報のみお伝えします。タイロンの目的は《能力》の共有及びなんらかについての時間稼ぎ。彼は組織との契約を利用したに過ぎず、中立の立場を貫いています。二つの目的を果たした現在、彼がこちらを攻撃することはありません。私も彼から《癒》の力を受け取りました。まだ自分で発動させていませんが、自分の体で試してみます。使える状態にあれば、RIOの救出に向かいます。YOUから彼はリザと交戦中と聞いています。彼はどこですか」
一瞬の沈黙のあと、本間が告げた。
《サラマンダの炎の中だ。応答がない》
「!」
眼前の炎に視線を戻す。顔がひりひりと痛みを訴える。そんな熱の中に、RIOがいる――。
「救出に向かいます」
本間の許可を得る意味ではなく、そう告げた。
《GINがあと十分内外で到着する。数分前まではRIOの声も確認済だ。焦るな。お前にしか出来ない任務がある。そちらの任務を優先しろ》
「でも」
《聞け》
「……」
有無を言わせない口調に、さすがの零も黙らされた。
《リザ・フレイムはお前と似た生い立ちらしい。心理攻撃を有している。相手の弱点に漬け込んで心に潜り込む。精神と肉体をシンクロさせて心理崩壊と肉体へのダメージをシンクロさせる《能力》だ。媒体は目、絶対に彼女の目を見るな。年の割には幼児性が強く、プライドが高い。その短所を利用し、彼女の注意をRIOから一時的にお前へ引きつけろ》
十分、と制限時間を設けられた。それはつまり、GINが到着するまでの時間稼ぎという意味だ。
「GINが時間を守ったことなどありません。信じるんですか」
尖った声で、初めて本間に異論を唱えた。焦りと不安が零を煽っていた。それはこの業火がRIOの生存確率を秒単位で低くさせているからだと零は思っていた。
《GINがウンディーネのダイブに成功した。YOUがキースやGINから聞いた情報によると、レインも個人的な事情からここへ運ばれて来ている。キースもレインの安全確保が目的だ。《風》と《水》の協力は確定している。ヤツらを信じろ》
――お前一人に任せるつもりはない。
「……え?」
《この通達を最後の通信とする》
「俺は一人で高見の見物をする趣味などない」
白バッジを通じて聞こえていた声が、肉声と重なった。反射的にそちらを振り返れば、そこには。
「あとはその場で指示を出す。ついて来い」
「な、にを考えているんですか。《能力》もないくせに」
右足をひきずって近づいて来る人物に、そんな見下す言葉を吐いた。苦笑を浮かべる彼の顔には、疲労が滲んでいる。だが、その瞳だけは迷うことを知らない強さが保たれたままだった。汚れてすっかりまだら模様に成り果てた黒のスーツは、焦げつきや鋭利な何かで切り裂かれた跡があちこちに残されている。
「《癒》とは治癒と解釈していいな? 一分で俺の右足を実験台に《癒》を発動させてみろ」
といきなり無茶を言う上司に、開いた口が塞がらない。
「実験台にだなんて。いえ、それよりも、そんな悠長なことを言っている場合ではないでしょう」
彼を案ずる理由では、即時却下されると思って時間を命令拒否の理由に挙げたのに。
「急がば回れというだろう。自分の無能さぐらい、とうに自覚している。リザ・フレイムは男に強い憎悪があるからこそのあの状況だが、同性に対してはコンプレックスの塊だ。ましてや生い立ちも似ていながら自分の対極にあるお前には、相当負の感情を刺激されるだろう。心理的に追い詰めて物理攻撃へ持ち込ませるのがお前の任務だ。あとはリザを知るキースと、子守が得意なGINに仕上げてもらう」
彼らの到着までに物理攻撃戦闘に入ったときに備えておきたいだけだ、という理屈はわからないではないが。
「リザの目的がわからないのに、キースやGINに丸投げをして大丈夫なのでしょうか」
不安げに問いながら、本間の足許にひざまずく。一瞬ためらいながらも、彼の右大腿を貫通している銃創にそっと唇を寄せた。
「おそらくリザも時間稼ぎだろう。彼女は面倒が苦手な性質と見た。そこまでこちらが把握していると知れば、何に対する時間稼ぎなのかも簡単に吐くと踏んでいるが……痛っ」
零が傷口に触れた瞬間、本間の顔が苦痛でゆがんだ。だが零は構わずに《癒》し続けた。シャツの片袖を引き裂いた簡易の包帯から滴っていた血がとまり、それをそっと外してみれば傷口が銃の口径と比べて小さく見える気がした。視線を上げて本間に確認すれば、彼もまた驚きで目を見開いていた。
「直接接触がなくてもある程度の効果が見られるようだな」
「痛みは、どうですか」
「問題ない」
本間はそう言いながら、時計を確認した。
「まだ一分も経っていない、早いな。反動的なリスクもなさそうだ。これなら何があっても即対応が出来るだろう」
本間はそんな感想を述べると、続いてRIOに対する対応を指示した。
「万が一RIOが負傷していたら、治癒を最優先しろ。これなら彼に余計な負担を掛けることなく再戦させられる」
「最初からその計算を含んでいたのですか」
零もそう問い掛けながら立ち上がり、バタフライナイフへ手を伸ばす。YOUに調達してもらった新しいそれは、零の手によく馴染んだ。
「当然だ。……よし、動きに支障はなくなった。まずは防火対策からだ。行くぞ」
「はい」
身を翻す本間に続き、零も一歩を踏みしめる。熱で軟化したアスファルトが、零を引き止めるようにローファーの底に絡みついた。零はそれを、未だ身の内に燻る焦りや不安とともに踏みねじった。
本間に従い建物へと駆け足で近づく。既に消防隊が消火活動に当たっていたが、恐らく普通の水ではあの業火を消せないだろう。
「少々手荒な手段を取るしかないな」
「ですね」
本間の意見に同意する。とにかく時間がなかった。
散水ホースを手にした消防隊員へ近づくふたりの前に、別の消防隊員が立ちふさがった。
「君たち、どうしてまだこんなところにいるんだ! 早く避難しなさい!」
消防と警視庁が現在の件について連携が取れていないからか、とめた隊員は本間がこの件の指揮官であることを知らないらしい。
「警視庁の本間だ。極秘任務につき、協力を要請する」
彼がそう言って警察手帳を翳す傍らで、零が実力行使に移る。
「失礼」
「え?」
ホースを握っていた隊員から半ば無理やりホースを奪う。ショルダーを掴んで抵抗する消防隊員の脇腹に肘鉄を食らわせ、自分の肩にそれを掛け替えた。
「こ、の」
零のパンツがその声とともに引っ張られ、動きを鈍らされた。わずかに湧いた罪悪感が、零の眉をひそめさせた。
「すみません」
軽い詫びの言葉とともに、自由の利く左足を後ろへ軽く蹴り上げる。零は足許に絡みついた隊員の顔面をローファーで蹴り飛ばして意識を失わせた。その間にも散水ホースのノズルをひねり、肩に掛かる水圧の重みを確認すると、壁に向かって散水を始めた。スコールのような水の滝が、零の全身を濡らしてゆく。
「え、あ、ちょっと君! 何をして」
本間と揉めていた隊員が、そう言って零を制した。
「すまんな。君の防火服も拝借する」
と言い終わるよりも先に、本間の手刀が隊員の鎖骨付近を強打した。
「はがッ?!」
本間は隊員の男がバランスを崩して膝を折ったと同時に、うなだれたことで無防備になった頚部へ手刀を振り下ろして失神させた。混乱のさなかでは、誰も本間と零の行動を気に留める者はいない。本間は自分たちと居合わせてしまった不運な隊員たちから防火服を剥ぎ取り、壁から滝のように零れる水に身を浸しながら防火服を身に着けた。
彼が止水すると零もホースを捨てて、防火服を身にまとう。
「身分まで明かしてしまったのに、無茶をしますね。強硬手段はGINの悪影響ですか」
失神させた消防隊員たちをふたりで安全な建物の下へ運びながら零が問う。
「あいつと一緒にするな。俺はちゃんと考えた上で行動している」
ふたりはそんな会話を交わす一方で、強張った表情のまま業火の許へと駆け戻った。
「RIO!」
零は叫ぶと同時に炎の渦へ飛び込んだ。出来るだけ身を丸めて火の柱の中を転がる。皮膚の損傷を少しでも防ぐため、ターゲットを視覚に捉えることよりもそれを優先した。
一瞬だけ、喉にひりりした痛みが走る。わずかに開いた口からなだれ込む灼熱が、わずかな時間ながらも零の喉を焙った。ジュ、とかすかに防火服の溶ける音が聞こえ、ほどなく肩から左腕に掛けて焼ける痛みが走った。だが、すぐに炎の柱を潜り抜けることが出来た。どうやら炎は円を描く形で外と中を遮断しているだけのようだ。炎の輪の内側は、円周の炎がアスファルトを溶かして黒煙に巻かれているが、耐えられないほどの温度ではない。
「本間ッ」
零は台無しになった防災服を素早く脱ぎ捨てながら、彼の安否を確認した。
「チッ。RAY、お前のフードを貸してくれ」
零の真横からそんな声が聞こえた。身を立て直した本間の方は、頭部から肩に掛けての損傷が著しい。だが彼は防火服を脱ぐことはせず、顔を隠せなくなったフードを零の放り出したそれと取り替えた。
「俺はリザに面が割れている。同じ手を食らってお前たちの足手まといになるのはゴメンだ」
忌々しげにそう呟くと、彼はリザの心理攻撃で重度の火傷を負う幻覚に見舞われたと簡単に語った。
「弱点を突いて来るんですよね。あなたにもそんなものがあったとは意外です」
「完璧な人間などいないだろう。そんな哀れむような目で見るな」
哀れんだつもりはないが、彼にはそう映ったらしい。弁解の言葉を述べるだけの時間も余裕も今はない。本間はベレッタを、零はバタフライナイフを右手に構え、炎の中心へ目を凝らす。
「RAY、リザの爪に注意を払え。とにかく避けさえすれば、俺が後ろからサポートする」
そう指示を出す本間が口惜しげな口調なのは、自分が前に立てないからだろう。
「炎の円弧を見る限り、概算だが直径は二十メートル内外、射程距離としては反対端まで充分いける。YOUとウンディーネの《水》なら、この炎を消せるだろう。この耐熱グローブがもつ間に炎の近くまでリザを誘導しろ」
冷静な声で指示を出す一方、本間の表情が苦悶でゆがむ。ベレッタが炎の熱を吸って防火対策を施されたグローブをぶすぶすと言わせている。タイムリミットは五分もない。
「了解です」
本間への応答とともに彼に背を向け、零は一歩を踏み出した。粘りつくアスファルトが零の足をしつこく引き止める。
(大丈夫。GINが必ず本間を守る。今私がすべきことは)
自分へ言い含めるように、希望的観測を言葉として思い描いた。たった五分。五分間だけリザの注意を本間やRIOから逸らし、可能であれば彼女と彼女を雇った組織の目的を。
(タイロンの言っていた“時間稼ぎ”の内訳を、彼女なら知っているはず)
炎以上に赤黒く燃え盛るサラマンダのオーラを注視しながら、零は慎重に一歩ずつ中心へと近づいていった。