愛に飢えた精霊の子たち~シルフのキースとウンディーネのレイン~ 3
搭乗口に向かって先を急ぐ。目的地へ近づくにつれ、GINの焦りがいや増していった。
(なんか、ヤバい思念……ダイブで意識の深層まで潜ってる感覚に近いな)
紀由とRIOのいる地点で、GINにそう思わせるほど赤裸々でゆがんだ思念が渦巻いている。それが焦りの元凶となっていた。
その一方で、背後から間もなく追いつくであろうふたりの動向にも気を取られる。キースへ返した白バッジが、レインとの会話をGINに届けていた。
《(レイン、大丈夫だって。俺が今まで嘘をついたことがあるか?}》
《(な、ないけど、でも、黙ってるもの! それは嘘とおんなじだもん。うそつきッ。だからカザマとふたりにするのはヤだったんだ!)》
(勘弁しろよ……)
キースの詰めの甘さに苛立ちを覚えて口を挟もうとしたとき、ふと異なる思念がGINの意識をまた別の方へと向けさせた。
「あのくそ女、何迷ってんだ」
かすかに黄土のオーラの迷う《気》を風が運んだ。戦闘の気配は消えている。距離にしておよそ数百メートル。いつの間にか自分はその位置まで戻って来ていたようだ。すぐそれに気づけなかったのは、見えてもいいはずの隆起した路面が見えなかったためだ。
タイロンとの間で何があったのかまでは解らないものの、零が紀由を見捨ててタイロンをはじめとしたアメリカ側に寝返る可能性はゼロだという確信がある。
「ったく、世話の焼けるヤツ」
GINは苦笑と愚痴を零しながら、瞼を閉じた。意識をそこへ集中させると余計に苦笑でGINの面がゆがむ。
――風間独りで、あのふたりを相手に、でも、本間が遼だけにサラマンダを任せているとは思えないし……どうしよう――。
GINの支援という義務感と紀由の許へ行きたい気持ちの狭間で迷っている《土》の女に向けて、掌に《送》を練り込んだ。それを《流》に乗せて彼女のいる方角へ思い切り解き放つ。
――かたがついたなら、早く本間の傍に戻れ。ぐずぐずしてんな、この愚図女!
遠隔から《能力》を使ったのは、六年振りで自信がない。自分に《能力》の行使を禁じるきっかけになった、藤澤会事件のとき以来だった。祈る想いが半分、届くと信じる気持ちが半分。
GINが《送》に託して迷える零に伝えた思い。
――あと十分ほどでレインとキースを連れて戻る。本間と遼を頼む。手は汚すな、俺がやる。
GINの《送》を《育》くんでくれたことへの、ささやかな謝礼。零がいなければ、思念を読むことは出来ても他者の奥底へ潜るところまで《送》を高めることは出来なかった。
「零、これで今までの分と相殺、ってことにしろよ」
GINの独語に応えるかのように、土色のオーラが強い意志を再燃させ始めた。これで心配ごとがひとつ減った。零を自分で守れなかったことが、少しだけ悔しいと言えば悔しいが。
風が彼女の思いを運んで来る。
――何ひとつ失う気がないなんて、いかにも風間らしいわね。
読まれることを意識していない零の思念を垣間見て、少しだけ面食らう。どういう現象なのかは解らないが、こちらが《送》で読み取ろうと意図していない状況で触れずに思念を感じるのは初めてだ。思えばこのミッションでは、同じ属性のキースはさておき、彼以外の思念でも触れずに漠然と感じられるなど、初めてと感じる違和感が多い。《能力》者が一箇所に集結している影響なのだろうか。
(ま、考えてわかるもんでもないし、今はそれどころじゃないか)
それはあとで嫌というほど紀由に考えさせればいい。彼に比べて機転の働かない自分が考えるのは、どう考えても現時点では時間の無駄だ。思考がそこに至ると、自分でも呆れるほどあっさりと割り切れた。
紀由が頭脳なら、自分が足なら、零は彼の手になればいい。それが彼女の望みなら、その手に少しでもたくさんのものを掴めるよう、彼女も自分の思うままにもっと欲張ればいい。
「今まで諦める生き方をして来た分、これからは思うように生きたらいいさ」
零は本間のために。自分は――。
GINは決して誰にも届かない本音を、独り心の中で呟いた。
数回にわたる跳躍で零と別れた地点辺りまで近づくと、搭乗口と反対方向へ向かって走ってゆくYOUの姿を地上に認めた。
「YOU!」
と彼女を呼びとめ、彼女の前で地上に着地する。
「GIN! 今そちらへ向かうところでした」
GINの登場で足をとめたYOUが、早口で状況の説明をした。
「RAYは本間さんの指令により、RIOに代わってリザと交戦するため搭乗口に向かいました。私が乗って来た足で向かったので、もう合流しているでしょう。キースとレインを至急連れて来るようにと本間さんが」
「助かった……もうすぐあいつも合流する、けど」
GINは渡りに船とばかりにこちらの状況を説明した。
「――っていうわけで、レインが完全に俺を敵視している状態でダイブするしかないのが現状。出来ればYOUの《淨》で俺へのそういうのって消せないもんかな。懐柔する時間が惜しい」
「そうですね。キースを誘導するにしても、GINの存在を否定されれば、戻り方が解らないキースもレインの深層へ閉じ込められる形になる」
「そゆこと」
「差し替えられる記憶がどうなるか、という部分は彼女次第ですけど、やってみる価値はあると思います。憎悪という感情は明らかに不浄ですし」
そんな打ち合わせをしているふたりの頭上を一陣の風が通り過ぎ、ふたりの髪を乱暴に舞い上げた。
「キース」
路面に降り立った彼を見て、YOUが呆れた声で彼の名を呼んだ。
「あなた、なんて顔してるの? それにそのずぶ濡れの格好……レインの《能力》をまともに受けたの?」
キースはYOUにそう言わせるほど、今にも泣きそうな顔をしていた。そんな彼に担がれて、彼の肩の上でぐったりとしているレインはぴくりとも動かない。
「……今まで、一度も手を上げたことなんて、なかったんだ……ちっとも話を聞こうとしないから」
キースは悪事を働いたのがバレた子供のように「信じてもらえなかったから」「暴れて逃げようとしたレインが悪いんだ」と弁解を交えて、レインに一発を食らわせて不本意な形で失神させたことを白状した。
「わかったから……ガキみたいに泣くなよ」
羨ましいくらいのストレートな表現に、大人二人が苦笑いを漏らす。GINはYOUと話した段取りをキースに伝え、了承を受けてからレインの《淨》を試みた。《淨》の媒体となる水は、レインに《泡》を食らったキースの髪から滴り落ちるものだけで充分に事足りるとのことだった。YOUはレインの額に水で渦を描きながら、指で掻き混ぜるように《淨》に反応するレインの思念を探し始めた。
「まだ十三歳、でしたよね。そんな年ごろの子が持つ感情じゃないわ」
YOUが憂う瞳でレインを見下ろしながら、苦しげに呟いた。
「彼女の《淨》に反応するものすべてを消せ、という指示じゃなくて、本当に、よかった」
YOUのその感想は、言い換えればレインのすべてを彼女自身が“不浄”と見做している、ということだ。それを肯定するのが、隣で唇を噛んでうなだれるキースの横顔だった。
「GINに関する又聞きの情報は消せました。キースに失神させられたショックが一番大きいようですね。今の彼女はそちらに意識が集中していて、GINに関する記憶の改ざんをどう繋げるのかまでは未知数ですが、ダイブしますか?」
「やるっきゃないっしょ」
GINの即答は、尻込みし兼ねないキースを牽制するように強い口調で告げられた。
「ダイブしている間の俺らは、まるっきり無防備な状態になる。YOU、その数分だけ周辺のガードをよろしく」
GINはYOUへの指示をそう締めくくると、キースの右手を素手で取った。
「俺の《送》にシンクロさせろ。そのときの感覚を覚えておきな」
小さくうなずくキースの瞳に、少しずつ力が戻って来る。それを見て少しだけ安堵している自分を確認すると、GINはレインの額にもう一方の手で触れた。触れる面積を少しずつ広げていく。やがて掌全部がレインの額と瞼すべてを覆い尽くした。固く瞼を閉じ、レインの深層へとダイブする。
(……痛……っ)
GINの目の前に、青の世界が広がっていった。
とぷん、と水の揺れる音がする。レインの奇妙な心の中。濡れている感覚はまったくない。青い玉の塊ひとつひとつをよく見れば、まるで映画のワンシーンのように、彼女の短い十数年が欠片となって封じられていた。
《レインには、こんな風に見えてたのか》
ほとんどの時間を共有していたキースがそんな感想を思い描いた。当然のことながら、GINは単独でしかダイブしたことがないので、お互いに思わず顔を見合わせた――ようなイメージが湧き上がった。
《筒抜けかよ》
《お互いにな》
《居心地悪いな》
どちらからともなくそんな思いが湧き、互いに同意の思念を思い描く。
《なあ、今感じるこれはつまり、表層思念ってヤツだろう?》
《あ? ああ。レイン自身は、もう少し奥に潜っているんじゃないかと思う》
《ダイブのコツは大体解った》
キースがそう念じたと同時に、くいと何かに引き込まれる。昔アニメか漫画のSFもので見た瞬間移動のように、一瞬にして違うレインの心に近づいたような感覚だった。
《今、ハニーが知らないレインとの時間軸へ行きたいって念じてみた。そういうことだろ?》
少しだけ得意げな表情を浮かべたキースが、ひとつの大きな水の繭に手を触れながら言った。GINも促されるままにそれへ触れてみれば、初めて視る光景が流れ込んで来る。
《初めてパクった金じゃなくて、てめえの稼いだ金でレインに服を買ってやれたんだ。そんときの記憶》
彼女の蒼い瞳によく似合う、少しタイトなデザインのデニムキュロット。ぶかぶかのシャツはキースのお下がりだったのだろう。
『(キース、ありがとう)』
『(次はブラウスを買ってやるからな)』
キースはそんな過去の会話を懐かしげに見つめていた。
《俺、レインを探して来る。あいつの最後の思念を知ってるのは俺だし》
言語化された思念はそれだけだったが、早く彼女の誤解を解きたいという焦りや、とにかく思うところが筒抜けなこの状態から逃げたいという居心地の悪さも伝わって来た。
《手分けして探すほうが、確かに効率がいいだろうな》
GINはそんな表現でキースにゴーサインを出した。
《深部へ潜っている意識は眠っている場合が多い。見失いやすいから、思念を拾うだけじゃなくて、オーラにも注意して探せよ》
《イエス、サー》
二手に分かれ、GINもキースとは別の方向へ泳ぐように彼女の深層へ潜る。青い世界は次第に暗さを増していった。
見覚えのある、その光景。どこかのスラム、汚い裏路地。
(これは、初めてキースの思念に触れたとき視た風景だ)
腹の減った感覚を不意に覚えた。恐らく、このときレイン――今キースにそう呼ばれている蒼い瞳の少女が感じていたもの。溢れるようにGINへ注ぎ込まれて来るのは、それだけではなかった。恐怖と不安が、この時間軸の彼女が置かれていた状況をGINに伝えていた。
三日も何も食べていない。ここで待て、と母親に言われたからだ。待つ間に何人かの大人から殴られたり蹴られたりもした。どこかへ連れて行かれそうになったときは、仕方なくその場を一度逃げ出した。隣で居を構えるホームレスが、数字に×印をつけていた。彼女はそれで日を追っていた。ずっと、母の迎えを信じていた。
四日目の深夜、碧い瞳をした少女が目の前を通り過ぎていった。彼女はちらりと少女の蒼い瞳を見たが、後ろの男たちが近づいて来る気配に気づくと、こちらに声を掛けることもなく小走りに去っていった。同じ年くらいの少女だった。碧く澄んだ瞳がビー玉のようだ、と羨ましく思った。そんなことを思うと、また空腹を思い出す。ビー玉のイメージが、飴玉を思い出させたからだ。
視界が縦から横になる。もう壁にもたれて身体を起こしていることさえ辛くなっていた。ゴツ、と嫌な音が鼓膜を揺さぶり、右耳の辺りに痛みが走った。ぼんやりと、悲鳴を聞いたような気がする。ぼやけた視界の中、ボロボロの白いスニーカーがトンネルの中へ走っていくのが見えた。
しばらくすると、そのスニーカーが戻って来た。ボロボロだったことに変わりはないが、スニーカーには模様が入っていた。紐の結び目のゆがみ加減も同じなのに、色は赤と汚れた白のまだらに変わっていた。視線をゆっくりと上げる。さっき見た少女と同じ、綺麗な碧い瞳が呆けた顔で見下ろしていた。
『(なんだ……夢じゃん。ほら、レインはここにいる)』
銀の長い髪、碧く澄んだ瞳。少年の顔はまるで神様のように見えたのに、纏うボロボロのTシャツは濡れた深紅に染まって柄が見えなくなっていた。それがTシャツの色ではないと、そこから滴るものが教えていた。
(逃げなきゃ。あたしも、殺される)
だがそのときの蒼い瞳の少女は、腹が減り過ぎて身体を起こすことさえ出来なかった。
だが少年は少女の予測に反し、トンネルの中へ戻ってしまった。そして次に戻ったとき、彼の手には何かでいっぱいになった紙袋を携えていた。
『(ごめんな、遅くなって。ほら。今日はパンも手に入ったぞ)』
彼はそう言って少女の前にひざまずき、紙袋の中からパンを取り出して少女の口に含ませた。それは乾燥し過ぎて美味くもないはずなのに、甘くて柔らかくて、とても美味く感じた。ひと欠片を食べ終えると、起き上がる力が湧いた。
『(それと、レインに土産もあるんだ)』
そう言って差し出されたのは、小さなフェルトで作られた、碧い瞳と赤茶色の髪を持つ人形だった。赤茶色の髪と面差しが、自分とよく似た人形だと思った。同時に、さっき通り過ぎていった少女にも似ていた。そしてこの人形はさっきの少女と同じ色の瞳をしていた。自分の瞳は碧じゃない、蒼だ。だから、それに手を伸ばせなかった。
『(あたしは、レインじゃない)』
『(じゃあ、今から、レインだ)』
――俺の。
とくん、と心臓が脈を打つ。初めてまともに少年と視線を合わせた。
『(お前、四日前からここにずっといたよな。捨てられたんだよ。要らねえ、っつって)』
じわりと視界がゆがみ、少年の姿がぼやけていく。次第にすべてが青に変わっていった。
『(う……わぁ、なんだこのガキ!)』
隣人のホームレスが突然悲鳴を上げた。隣で寝ていたはずの彼は、声を掛けてくれた“新しい家族”の紙袋に手を掛けていた。
『(レイン、まさか……お前“も”?)』
少年は後ろを振り返った光景を見て、もう一度こちらを見つめるとそう言った。状況を把握した彼の口角だけが、右側だけゆるりと上がる。
『(ありがとさん。もういいぜ)』
少年はゆるりと立ち上がり、盗みを働こうとしたホームレスを見下ろした。
『(てめえこそ、人の戦利品をパクってんじゃねえよ。クソが)』
少年が右手を翳した瞬間、ホームレスの身体がスライスされた。
『(……ッ!)』
少女が声にならない悲鳴を上げ、ごくりと喉を鳴らした。紅い飛沫がふたりに飛び散り、ビシャ、と嫌な音を立てた。
『(レイン、一緒に暮らそう)』
もう、口に仕掛けていたパンは美味くない。がちがちと鳴る歯がそれを噛み砕かせてくれない。仮に噛み切れたとしても、やっぱり美味くはないだろう。鉄臭くて生ぬるい、変に湿ったそんなものでは。
――いうことを聞かないと、殺される。
そう思った瞬間、あたたかくて少し固い質感にふわりと包まれた。
『(お前まで俺を怖がらないで。独りにしないで……俺も、もう独りなんだ……)』
ほんの数秒前にゆがんだ笑みを零して人を殺めた少年の声が、そうとは思えないほどか細い声で懇願した。自分よりも震えている彼が自分よりもずっと年上だということを、少女はその瞬間だけ忘れた。
『(こわい、の? 自分が?)』
『(さっきもだよ。なんだよ、これ。殺すつもりなんか、なかったんだ)』
少女以上に、少年は怯えていた。捨てられた自分なんかに嫌われることを。少年自身の《能力》を。
『(初めて、使ったの?)』
少年の背に腕を回す。自分よりも背の高い少年の頭を、そっと自分の肩へ寄せて抱きしめる。記憶の中では随分遠くなってしまった、母のやり方を思い出しながら。少年が小さく肩で頷くと、妙な温かさが満ちて来た。
『(お兄ちゃんのこと、なんて呼んだらいい?)』
『(キース。キース・ストーム)』
少年は、そう名乗った。嗚咽混じりに聞いたのは、初めて《能力》が発動された数分前、レインという名の妹を巻き込んでしまい、彼女を襲った暴漢と一緒に自分の手で妹まで殺してしまったこと。
『(俺は咎人だ……せめて、レインに償わなくちゃ)』
絶対に、一生守る、と誓ってくれた。それでキースが生きていけるなら、自分を必要としてくれるなら、それでいい。七歳の時から、蒼い瞳の少女は“レイン・ストーム”になった。