神の子 1
チベット・シガツェ地区の外れに点在する塩湖群。秘境という言葉をイメージさせるこの荒野に目的地があると紀由は言う。点在する塩湖の中でも、比較的大きな湖の湖畔に存在しているとのことだ。
「メチャクチャ住環境が悪そうだな」
GINが背中を丸めてそうぼやいたが、紀由の耳には届かなかったようだ。
(……さぶ)
ぶるりと体が震えたのは寒気のせいだ、と自分に言い含めた。
幼いころに童話の挿絵で見た荒野を連想させる、色の数が乏しい“拒絶”のイメージ。GINはその風景から目を背けたくなって視線を落とした。
シガツェ地区の市街地でこの秘境の概要を聞いたときは、車で数時間という近距離にこんなうら寂しい場所があると言われても実感がなかった。一面の白い岩肌。塩湖の影響でほとんど草木が育たないらしい、白い荒地。微生物さえ棲めない濃度を如実に伝える、真っ青で深い湖の色。生物の潜む気配をまったく感じさせない光景が、GINに施設時代を連想させる。ここに来てからのGINは、ずっと不快げに顔をしかめたままでいた。
万が一に備え、市街地で身に着けていたものすべてを処分して買い換えた。盗聴機器の排除や、出立当時の出で立ちから一行の素性が露呈するのを防ぐための根回しだ。それとともに一室を借りて、GINの負った右大腿の応急処置も施された。当然医者の世話にはなれないので、YOUの《水》の作用で取り敢えず傷口を密着固定させるだけだ。持ち込んだ零の血漿輸血によって《育》を促すことで代謝の促進を、と紀由に打診されたが、全力で断った。YOUが苦笑しながら、GINに《淨》を使って痛みを軽くしてくれた。
薄闇の時刻。もう市街へ戻るのが難しい今ごろになって、GINは帽子を勧められたのに買わなかったことを後悔した。断った理由は至って単純、前髪を出せないのがイヤだったからだ。店員から「サングラスでは自分の吐いた息で鼻や頬が湿気てしもやけの原因になる」と忠告を受けたが、目が丸出しになる帽子はかたくなに拒んだ。そして現在、店員が言っていたとおり、鼻の頭が痒くて仕方がない。両耳まで痛痒い。GINはそっとグローブを外し、すこしばかり温かさのマシな両の素手で、そっと耳たぶを摘まんで温めた。
「ようこそ。ご無事で何よりでした」
小さな集落に辿り着き、車を降りると同時に、日本語で出迎えられた。GINたちを寒空の下で待っていた初老の紳士は、敵意のない穏やかな微笑を一行に向けた。彼は紀由に向かって右手を差し出し、笑顔を崩さずに自己紹介をした。
「この村をまとめている、郭慧大と申します。淘世天子からお話は伺っています。このたびは天子のわがままも混じった依頼をお引き受けいただき、ありがとうございます。即席で仕込まれた日本語ですが、間違ってはおりませんかな」
という流れるように自然な長い日本語を聞いて、GINは目を見開いた。付け焼刃に学んだ程度でこれだけ操れる者は、物覚えの早い若年層でもそうはいないだろう。癖のない発音と自然な語彙を言の葉に乗せる慧大に対し、感心せずにはいられなかった。だが紀由は、そんな慧大に鋭い眼光をゆるめず、その手を握り返すこともなく言葉だけを彼に返した。
「さすがに日本語が達者ですね。――元の名を楊道明、長年華僑として日本で暮らしていただけある」
紀由がGINにも初耳なことを口にした途端、慧大の視線に鋭さが加わった。微笑を湛えたままなのに、目だけが明らかに警戒の色を帯び始めた。
「淘世氏のご母堂とは、その昔恋仲だったそうですね。胡主席の側室に見初められて引き裂かれたところまでは存じていますが、我々は、あなたをどこまで信用していいのでしょうか」
紀由から語られた内容にも驚かされたが、その情報収集の速さと正確さにも舌を巻いた。慧大の表情を見れば、そしていきなり張り詰めた空気の違いを感じれば、紀由の述べたことが事実だとキースやYOUにも判ったようだ。
ただ、それをこの場で述べる理由が解らなかった。また、個人の事情に立ち入り過ぎた不躾な言い回しも、GINの知る紀由らしくない。
「おい、本間」
小声で慌てて制しながら、彼の腕を掴んで後ろへ退いた。素手のままでいたことをすっかり忘れていた。彼の腕を掴むコンマ一秒にも満たない直前、GINの剥き出しの素肌が紀由の手の甲をかすり、一瞬の内に彼の思い描いている思念を意図せず読めてしまった。
(……そういう、ことか)
紀由が表層思念で強く意識していることだけではあったが、ある程度の状況を認識した。彼にじろりと横目で睨まれたGINは、ばつの悪さから俯いた。
「悪い」
小声でそう詫びを告げ、掴んだ腕から手を離してまた一歩後ろへ退いた。
「信用、とは?」
慧大が人を食ったような飄々とした相好を崩さないまま、GINから彼の方へ向き直った紀由へ逆に問い返した。
「淘世氏に、彼のご母堂とのことを隠していましたね。それに不自然な点はもちろんありませんが、あなたは今回の騒動が起きるまで、淘世氏を自分の血を分けた子だと信じて彼とご母堂を陰ながら支え続けて来たのではないか、と」
慧大は遠い過去に、淘世の母親に関することで中国の役人と争ったがために犯罪者の汚名を被ったままの立場らしい。日本へ渡って華僑を頼り、そこで彼が信頼していた李氏に淘世と彼の母親を託したという。
「それからほどなく、あなたはここで自治区の統括を任命され、日本を離れてここでの地盤を築いた。その指令を下したのは」
「ええ、胡主席の嫡男、故・胡斌ですね」
その名を口にした瞬間、慧大の微笑が不自然にゆがんだ。
「斌氏は嫡男であるがゆえに、過剰に胡主席の親族を恐れていた。攻撃は最大の防御とばかりに策略をめぐらせた挙句、実質自ら敵を作り、暗殺に至った経緯があります。後付け理論と一笑されればそれまでのことですが、斌氏があなたの経歴を操作してまであなたを自分の右手として起用したことと、この亡命先を築く指示、彼の過剰な親族への敵意を併せ考えるに、今回のご助力が純粋に淘世氏の保護を目的にしたものではない、という見方も出来ますが」
それは暗に、現在の後継者候補で有力視されている、暗殺された斌氏の実弟の息が掛かっているのではないかという疑いを慧大に伝える物言いだった。
「淘世氏が聡明であることは存じています。が、幼少期から懇意にしているあなたに対し、窮地に立たされている現在、どこまで沈着にあなたを判断出来ているのかはいささか疑問です。あいにく私は自分の目で確かめたことしか信じない性質なので、シガツェの方々の淘世氏への忠義は信頼出来ても、失礼ながら、あなた自身を見極めない限り淘世氏を置いて日本へ戻るわけにはいきません」
紀由の言葉が途切れるとともに、慧大の面から微笑が完全に消え去った。
「現在最有力視されている胡主席の次男殿に、私が淘世天子を差し出して命乞いを謀るのでは、というご懸念ですな。もしそれを肯定したら、あなたはどうされるおつもりか」
紀由の表情が気色ばんだ。
「返答次第では、淘世氏をしかるべき時期まで保護するために、それなりの対応をしなくてはならない。あなたが我々の協力に快諾した、私が納得出来る理由をお聞かせ願いたい」
紀由はそこまで言うと、すぐ背後に佇むGINとキースにスタンバイを示唆する視線を送って来た。GINの背中がかすかな気の乱れを感じ取る。キースの作り出したそれが、“それなりの対応”の意味をGINにも知らせた。大きな溜息をひとつつく。GINは少しでも気を抜けば揺らいでしまいそうな気分を押し殺し、自分も掌へ《流》を束ねるよう気を集中させた。
慧大は差し出した右手を一旦引き戻し、深く大きな溜息をついた。
「よく調べましたね。表向き私は既に死者となっているはずなのに」
そう語る慧大の面に宿ったそれは、憤りはあれど、敵意は感じられなかった。
「だが、あなたはひとつだけ勘違いをしている。私は中国人であるというだけではない、日本に住んでいた華僑、でもあるんですよ」
――ちゃあんと、和の心も持ち合わせている。それが私の誇りであり、自負だ。
無防備なほど解放された思念が溢れ、GINの中まで流れ込んで来る。淘世と似た面差しの女性の哀しげな泣き顔。軋むほどの痛みを伴う、若かりしころの慧大が抱いていた想い。痛んだ胸が癒されていく、幼い淘世が慧大に向ける笑顔。
慧大が漂わせる濁りのない慈しみの思念が、GINの中で再び“正義とは何か”という疑問を浮かばせた。重ねる年月が、彼のような域まで人を成熟させるのか。自分にも、そんな日が訪れてくれるのだろうか。
適度なシンクロ率を維持したままの《送》が、慧大の心の奥深くに絶えず漂う想いに触れる。集結させた掌で燻っていた《流》の塊は、彼の思いに触れると冷やされ小さくなっていった。慧大の強い信念が、GINを縋るような目にさせた。
「私が日本人を尊敬するのは、義と仁を尊重する稀有の国民性に因ります。その心根は、幼いころから思春期までを日本で暮らした淘世天子にも息づいている。両親から受けた漢の血を愛し、己を育んでくれた日本をも愛する彼だからこそ、その心根を私の母国、中国にも戻してくださると信じています」
その言葉は、塩湖から水分が蒸発し、凝縮された岩塩のように硬い決意を示していた。
(紀由、手)
彼の後ろからそっと耳打ちをしたGINは、素手にした右手の人差し指で、後ろ手に組んでいた紀由の指先にそっと触れた。漏れ伝えられた慧大の思念を《送》り終えると、紀由はわずかにGINの方へ顔を傾けた。「解った」と言いたげな素振りで小さく頷いた横顔は、少しだけ緊張感がゆるんだ表情になっていた。それに安堵し、紀由から再び数歩あとずさる。GINでなくとも解る慧大の口調も手伝い、紀由の表情はいつものふてぶてしいものに戻っていた。
「大変な失礼を申し上げた。私の仲間ともども、保護をよろしく頼みます」
淘世に寄り添う形で慧大と紀由の間に佇んでいたYOUの頬が、うっすらと染まる。彼女は大きく見開いた瞳を潤ませながら紀由を凝視した。紀由は無愛想な顔でそんな彼女を一瞥すると、
「早速で申し訳ないが、早々に本題へ移りたい。案内を頼みます」
と慧大に打診し、先に一歩を踏み出した。必然的に紀由が先頭を切る格好となる。彼の判りやすいその態度が、GINの悪戯心を誘った。
「きゅーちゃん」
懐かしさの混じったおかしさが、GINに駆け足をさせる。
「照れてるの?」
紀由に追いつくなり、そう言って彼の顔を覗き込んでやった。
「やかましい」
言うが早いか、紀由の裏拳がGINの顔前に繰り出される。しかも、それをかまして来た本人は真正面を向いたまま、というノーモーションで決めて来たので、GINにその予測は不可能だった。
「はぅ!」
GINの顔面に見事なストレートの裏拳がクリティカルヒットした。GINの痛々しい悲鳴は響くことなく、白い荒野に吸い込まれていった。