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李淘世(リ・タオシィー)暗殺ミッション 7

 第二ターミナルの滑走路へ降り立ったGINとYOUを待っていたのは、ひと足先に到着していたキースと本間だけではなかった。

「遼、零」

 GINはまだ包帯の取れないRIOを目にした途端、気色ばんだ表情を浮かべて彼らの方へ駈けていった。YOUはそれについていくことが出来なかった。ただすくんだ足に力を込めて踏ん張ることで精一杯だった。

 GINとすれ違うようにこちらへ向かって歩いて来る人影がひとつ。その影がすれ違いざまにGINの腕を掴んだ。GINは人影の存在に、まるで気づいていなかったらしい。彼は腕を掴まれたことで初めてはっとした顔をし、そして人物を見つめ返した。遠くからの淡い照明が、人影の所作をYOUに見せる。影から表情の判る明るさを得た人物は、口許に微笑を湛えて何かをGINに告げていた。ブルーグレーの瞳は、微笑に似合わない醒めた色でGINを品定めするように見据えていた。GINは大きく目を見開いたかと思うと、突然前のめりになって腹を抱えた。「はっ」と噴き出した声が、YOUの耳にまで届いた。そして今度はGINが、ブルーグレーの瞳の持ち主に何かを告げていた。そしてGINの右手がYOUを指し示す。GINの傍らにいた人物の首筋を隠していた黒髪が揺れたかと思うと、その横顔が初めてこちらを向いた。GINに背中を押され、前につんのめる。そんな滑稽な“彼”を見たことなど、YOUは今までに一度もなかった。

思安(スーアン)

 おぼろげなだった“彼”の姿が、YOUの目にもはっきりと表情が判るほど近づいた。最後に向き合ったときから、三年と少し。YOUの本名を呼ぶ懐かしい声は変わらないのに、彼はたった三年の間に随分と痩せていた。

「僕に叱られる覚悟は出来ているかい?」

 そう言って微笑む表情は、別れを告げる以前に見せてくれた自然な笑みと何ひとつ変わらない。目の前にあるその笑顔が、その瞬間だけYOUの記憶から最後に見た彼の戸惑う表情を忘れさせた。

「……タオっ」

 彼――淘世が「おいで」という代わりに両腕を広げた瞬間、勢いよく地面を蹴っていた。もどかしい思いでたった数メートルの距離を全力疾走する。その腕の中に飛び込んだ瞬間、懐かしい匂いがYOUを優しく包み、涙腺をゆるませた。

「バカだね。勝手に勘違いをしたまま飛び出して。本間さんに余計な手間を掛けさせてしまったじゃないか」

 淘世は、子供のころと同じように噛み砕くような柔らかさでゆっくりと諭した。

「あのね、スー」

 懐かしい呼び名が、YOUの耳をくすぐった。そして声の主は、少しだけ間を空けた。

「キミの言葉にすぐ答えられなかったのは」

 答え、その言葉を受けた瞬間YOUの中で、本間からのメッセージに返信したことを淘世に知られてしまった日の出来事が再現された。


 淘世が胡主席の非嫡子と知ってから、彼の足枷になりたくないと弟に徹した。戸籍上は男で中身が女、そんな自分は淘世のマイナスになると思い、彼に寄せる気持ちもすべて否定した。《能力》のハンデも徹底的に隠す一方で、いざというとき淘世の力になればとコントロールの鍛錬に勤しんで来た。

 それらYOUの努力すべてが壊れた日。いつまでもYOUを子供扱いするような口振りで、淘世が日本へ戻ることに反対をした。そんな彼に、YOUが堪え切れずに口にしてしまった本当の気持ち。

『タオの中途半端な優しさなんか、本当は要らなかった。タオを兄さんと思ったことなんて、一度もない』

 自分を心配する淘世のそれが、いつからか重くなっていた。そこに含まれている愛情は、自分が求めてはいけない上に、どうしても求めてしまうものが微塵も含まれていないから。

『私の気持ちも、性同一性障害のハンデも、タオの邪魔にしかならないわ。だからもう傍にいたくないの。私は仲間がいるところへ行く。タオなんか、もう要らない。タオにももう、私なんか必要ない』

 咄嗟に叫んで、YOUの腕を掴んだ彼の手を振り払った。YOUの発した言葉と拒絶の態度が、淘世の眉間に深い皺を浮かばせた。

『気持ち、って?』

 そう訊き直したくせに、YOUを捉え戻そうとしていた淘世の手がぴたりと止まってしまった。困惑に満ちた淘世の表情こそが、自分の気持ちへ答えだとYOUは思った。


 自分の置かれた今の立場を思い出した途端、淘世の憂う表情を見た瞬間にYOUを覆った強張りがまた襲う。

「離し」

 と言い掛けた言葉へたたみ掛けるように、淘世がさっきよりも大きな声で自分の言葉をごり押しした。抗うYOUを押さえ込むように両の腕に力がこもり、YOUの動きを封じてしまう。


 ――キミを僕の不運に巻き込むのが怖かった。


「ごめんね、スー。あのときは、行かせた方がキミにとって幸せなんだろう、とも思ったんだ」

 そう言った淘世の声が、小さく震えた。

「スーの苦しみを理解してやれない。僕には《能力》がないから」

 耳許で呟く声は、YOUの言葉を遮った人が発したとは思えないか細さだ。

「面倒な立場に立たされた今の僕の傍らに置いていたら、スーを権力争いに巻き込んでしまうと思ったんだ。だから、答えることに迷いが生まれた。声が出せなかった」

 口惜しげに吐き捨てるその声が、あまりにも淘世らしくなくて、力が抜けていく。

「タオ」

「失くしたと思ってから、ようやくどうしたらいいのか解った。だから、鷹野首相と本間さんに無理を言って、迎えに来た」

 胡主席からスーを親族として傍に置くことの了承を得た、と彼は言った。自分を後継者として擁立させたい胡がその条件を呑んだ、と彼が告げたとき、心なしかその声に不届きなほどの高慢ささえ感じられた。

「スーのことは、頭で考えることをやめにしたんだ。僕はいつもそれで後悔してばかりだったから」

 淘世がそう言ってYOUの耳許で繰り返したのは、YOUが置いて来た最後の言葉。

『一生逢えなくても、タオが笑って生きていてさえくれたら、私はそれでいい。だから、行くわ』

 淘世は「弁解にしか聞こえないかも知れないけれど」と前置きをしつつ、言った。

「僕らはずっと一緒に過ごして来たから。僕以外に目を向けたことがないし、人を信じることが出来ないスーだったから。だから、一時的な気の迷いだと決めつけていたのかも知れない。僕が押し殺して来た感情を結局隠し切れていなくて、その影響を受けてしまっただけだと思っていた。不毛でしかない感情なんて、何もスーには与えてなどくれないだろうと考えたから、行かせるべきだと……キミの言葉を聞いて黙ってしまったのは、同じように思ったから、なんだ」

 スーが笑って過ごせるなら、スーと二度と逢えなくなっても、きっと耐えられる。YOUが過去に残した言葉を模した声が、それを紡ぐことに抵抗するかのように、途切れ途切れに零された。

「でも、僕はどうやら、自分で思っていたよりも、随分と欲張りだったらしい」

 もがくことを忘れていたYOUの体が不意に寒さを覚える。解放された体の代わりに、濡れた頬が大きな手に包まれた。

「一生逢えないのは、やっぱり僕には無理そうだと判ったから」

 ブルーグレーの瞳が、YOUを魅了する弧を描く。はにかんだ淘世の微笑が、YOUの心臓を蹴り上げた。

「このままスーを連れて行くよ」

 まるでYOUには選択権がないかのような断定の言葉が、YOUの口をぽかりと開かせる。さっきまでのように、空に浮かんでいるわけでもないのに、水と戯れているのでもないのに、体中がふわふわと浮いて夢を見ているような錯覚に陥った。

「私……とうとう頭にキちゃったのかしら」

 そうとしか思えない淘世の告白が、勝手にYOUの口を滑らせた。

 本間の指示では、あくまでも空港内の目撃情報をすべて《淨》によって差し替えることのみ。漏れがあればそちらへの対応もしなくてはならないと算段していた。それを本間が念頭に置かないはずがない。だから、これは自分の妄想なのだ。願望が多分に混じった、エゴイズムな、妄想。

「ひひゃんっ!」

 薄闇にYOUの奇妙な悲鳴が響き、YOUの頬には激痛が走った。まともにモノを言えなかったのは、淘世が子供のころと同じようにYOUの両頬を指で摘まみ、ぐにゃりと真横へ引っ張ったせいだ。

「夢じゃないよ。僕はここにいる」

 YOUの表情だけで何もかもを読み尽くす物言いが、悔しいほどに心躍らせる。淘世が当たり前のようにYOUの手を取った。

「ほら、時間がない。本間さんたちを待たせてる。急がないと」

 そう言って彼らの方へ走り出す淘世に引きずられるまま、YOUも釣られて駆け出した。ぐいと袖で瞼をこすって前を見れば、仲間たちがいろんな表情を浮かべて待っている。

「ったく、いきなり離脱かよ」

 とぼやくRIOは、包帯の巻かれた首筋へ、さも痒そうに爪を立てているものの、笑っている。

「ゆかりさんの不在中、こちらの方は私たちだけでも対応が充分に可能です。シガツェでの李氏の護衛と、滞在中の本間やGINをよろしくお願いします」

 零が信頼の意思をこめて、彼女の大切な人たちを自分に託すと明言する。

 GINは、

「うっそ! お前が操縦するのか?! いつの間にセスナの免許まで取ってた?! っていうか、お前って実は暇? ヒマなのか?」

 と本間に挑んで殴られていた。それを見てつい笑ってしまう。それを見た本間が少しだけ眉をひそめると、全員の意識を切り替えるとばかりに今後の予定を淘世に告げた。

「李淘世氏。李思安とキース・ストームが、シガツェ滞在中あなたの護衛をします。こちらがあなたに協力願いたい事項については、向こうへ到着してから、ということでいいですね?」

 チベット自治区、シガツェ。それはYOUの盲点だった。中国政府と敵対する自治区。チベット自体は独立国であるという誇りと主張を忘れない“国”だ。まさかそんなところが胡主席の後継者を受け容れるとは思わなかった。

「はい、もちろん。みなさん、よろしくお願いします」

 本間にそう返す淘世は、YOUのよく知る鉄壁の仮面をつけた“無実の逃亡者”というスタンスに戻っていた。




 GIN、本間、キース、YOU、淘世の五人を乗せたセスナが空を舞う。セスナを見送るように、雨と雲のカーテンが道を開けては、また空を包んでいく。YOUの《淨》を詰め込んだ雨の雫は、ひび割れた天井部から管制塔内に入り込み、職員たちを浄化していった。

「ちぇ、まだ俺には無理か。なあ、キース。そこまでたくさんの気流を一気に扱うのに、どういうトレーニングをして来たんだ?」

 防音用のヘッドホンを取り外してそうがなるGINに、雲を操るキースがやはりヘッドホンを外したまま怒鳴り返す。

「もっかいディープ・キスでダイレクトに教えてやろうか」

「黙れ変態。冗談でもそのテの」

 と言い掛けたGINが、はっとした顔をして言葉を呑んだ。そして盗み見るようにYOUへ視線を移す。

(ゲイは男性として男性が好き、ということなわけだから、私の場合とは、微妙に違うんだけどな)

 そう思いながら、にこりと笑みを返すと、GINは怯えた表情から子供のようなほっとした笑みに表情を変えた。彼はこちらへ傾けた身体をまっすぐに戻し、再びキースへ視線を戻した。

「で、これって《流》の応用なんだよな、きっと。どうイメージしたらいいんだ?」

「黙れっつったじゃん。訊くなよ」

「黙るのはそっちじゃないっつの」

 そんな漫才のようなやり取りが、わずかな安全のひとときに心の休息も与えてくれる。子供の喧嘩に近いそんなやり取りを聞きながらYOUもヘッドホンをつけようとしたとき。

「スー、彼には怒らないんだね」

 という無愛想な声が、YOUの耳へ直に届けられた。

「彼? GINのこと? 怒るって、どうして?」

 ヘッドホンをしようとしたYOUの手を制した淘世の手に妙な力が入っている。それが妙にYOUをどきりとさせた。くすぐったい感覚がYOUの心拍数を次第に上げてゆく。

「昔のスーなら、ゲイと一緒くたにされた、って、すぐ泣きそうな顔で言い返す子だったのに」

 そうごちる淘世の横顔が、言い捨てるなり窓へぷいと傾いてYOUから顔を隠してしまった。

「……」

 確かに、そうだった。そしていつも、YOUが相手に反論をし返されると、殴り合いの喧嘩になるよりも先に淘世が相手を論破して事なきを得てしまうのだ。

『スーは女の子だよ。大人たちが性同一性障害を理解してくれないから、なかなかきちんとした対応がされないだけだ』

 今思うと、そんな難しいことをまだ一桁年齢かようやく十歳になったばかり、という幼いうちにわかるはずもないのだけれど。それでも、淘世は自分の年齢目線ではあるものの、精一杯YOUに代わって相手と対峙してくれた。

『キミがちゃんと正しくスーを理解して、偏見の目を取り払って、それでもまだそれを理由にスーをからかうのなら、いつでも僕がキミのからかう言葉を聞いてあげる。だからスーには、もうちょっかいを出さないでくれないかな』

 今日の今日まで淘世のそれは、兄として妹を庇っての厚意だと思っていた。

(えっと、もしかして)

 コトコトとせわしなく脈打つ心臓が、ついにはギャロップになっていた。まだどこか夢うつつの狭間にいる気にさせられる。

「タオ……妬いてる、とか?」

 それを確かめたくて、引っ張ってくれと言わんばかりの黒髪の束を引いて淘世の頭を引き寄せた。

「いたっ、こら、スー」

 小さくそう呻いて振り返った彼の顔を見れば、今にも泣きそうな情けない顔で、しかも真っ赤に染まっていた。そんな彼を初めて見た。

(そうよね。タオだって、偉い人である前に、私とおんなじ、一人の人間)

 そう思うと心が穏やかに凪いで行った。傍にいてもいいのだと素直に思わせてくれる、ありのままの淘世の心を改めて信じることができた。

 YOUは淘世の耳許へ唇を寄せ、GINに聞こえない小さな声で囁いた。

(タオもGINと話してみれば解るわ。呆れるくらいとっても子供で、放っておけない気にさせられるの)

 そう告げる声に、GINへの色めいた思いを含んだものはない。それが淘世にも伝わると信じて、YOUから見たGINの姿を彼の耳許で囁いた。

(人の邪な思念まで視えてしまう《風》使いはね、神の子の中でも最も純粋で、傷つきやすい子なの。誰にでもそんな思いを抱かせる人なのよ。だからこそ、最強の《風》なのかもね)

 そんな私見を淘世に話すと、彼は少しずつ表情を和らげていった。

(最も神に愛でられし“神童(シェントォン)”、というところ、なのかな)

 YOUが「そうね」と答えると、淘世は涼しい顔で「なら僕は、神さまとスーの取り合いをせずに済んでよかった」と言って居心地の悪いからかいでYOUにささやかな報復をした。


 本間が淘世の潜伏先にシガツェを選んだのは、塩湖が散在するあの一帯が、世界中で最も自然の気が濃いからだと言う。

(四元素を繋ぐ“気”の濃いシガツェであれば、GINのハンディも軽減されるだろう、と本間さんは言っていた。僕に何か起きて対応せざるを得ないときでも、日本にいるときほど副作用のリスクを心配せずに《能力》を使えるだろうから、と)

 本間の周到さに舌を巻く。あらゆる想定のもと、二歩も三歩も先を読んで、敢えて中国を敵と見做す自治区へ潜入させようとしたのか。そう思うと、すべての不可能さえも可能に変えられるのでは、という淡い期待が生まれた。自分の非力な《水》でも淘世を守れるかも知れない。淘世を狙う反対勢力と、血を流さない形で渡り合えるかも知れない。

(タオは、本間さんの最終目的も知っているの?)

 その問いは、“サレンダーを取り仕切る存在を殲滅すること”という意味で淘世に尋ねた。だが彼から返って来た答えは、YOUの予想を上回るものだった。

(彼から聞いた。裏で糸を引く人物の正体も彼は知っているから、どれだけの覚悟かと思うと、協力せざるを得なかった)

 そして更に小さな声でYOUに囁く。その正体を聞いた途端、YOUの両目が大きく見開かれた。

(そんな……)

 それは、声にもならない呻きになった。思わず向けた視線の先では、苦渋に満ちた淘世の伏せがちな顔があった。

(本間さんとの取引は、日中だけの問題ではないんだよ)

 YOUは、淘世が胡主席の跡を継承する気になった理由が、このときようやく解った気がした。

『タオを保護するというのは、小さなミッションに過ぎなかった、ということなのね』

 決してGINには聞かれないように、淘世の掌にそんな指文字を書いて答えを促す。

『国同士で争っているような事態ではないんだ。権力に固執しない人間でなくちゃ、各国の連携なんて不可能だ』

 彼はそんな指文字の答えを返すとともに小さく頷き、これがただの幕開けに過ぎないことをYOUに再認識させた。

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