李淘世(リ・タオシィー)暗殺ミッション 4
GINがキースとの苦戦を強いられていたその時間、YOUは過去に自分と淘世を襲った火事の記憶と戦っていた。
「タオ! 私! 思安よ! 返事をして!」
久し振りに自分の本名を口にする。無人の静寂と漆黒の闇の中、燃え盛る狂った赤を見つめているうちに、GINがいたときに一度は立て直せた平常心があっという間に崩れてしまった。今と昔がYOUの中で入り乱れ、悲鳴に近い声で淘世の名を繰り返す。
「タオっ! どこなのっ。私はここよ、助けてッ!!」
舐める炎がYOUの髪をわずかに焦がし、ジ、という鈍い音を立てた瞬間、押さえつけていた火への恐怖が一気に表へ溢れ出た。
まだ華僑として日本に住んでいたころ。あのときも、炎が辺りを包んでYOUの見るものすべてを真っ赤に染めた。養父母は殺され、すべての金品は奪われた。まだ幼かったYOUを襲った強盗事件は、未解決のまま迷宮入りとして処理された。
『タオ……タオ! 助けて! 私はここ!』
渦巻く煙と炎の中で、どこが出口かも分からず逃げ惑っていた。まるで今の自分のように、ただひたすら義兄である淘世の名を呼び続け、煙にむせながら彼を探していた。
「タオ! 私はここ! 返事をして、タオ!」
あのときと同じように、淘世の名を叫ぶ。
『スー!』
今もまた自分をそう呼んで、無事な姿を見せてくれるのを願った。
すすだらけの汚れた顔でも、煙に喉をやられてひどい声になっていても、ひと目でそれが義兄だと判った。それくらい淘世は、YOUの記憶にある最も古いときから唯一無二の存在だった。孤児の自分を養子にしてくれた彼の両親よりも、彼だけがYOUにとって生きる理由のすべてだった。皆が“男の癖に気持ち悪い”と蔑む目で見る中、淘世だけが普通に接してくれた。命を賭けてまで探し出してくれた彼を、生涯掛けて守ると自分に誓った。五行を学び、水と親しみ、《水》の力をコントロールすることに躍起になる毎日を送った。傍らにはいつも、淘世がいた。
『それはスーが神の子だという証だよ。キミはとても優しいから。誰かを救うことの出来る力を神さまが授けてくれたんだ。だから自分を大切におし』
そう言って見守ってくれた淘世を捨てて、日本へ舞い戻って来た。大勢の誰かではなく、彼を助けたくて。そんなエゴを抱いた、これは罰なのだろうか。そう思うと顔は焼けそうなほど熱いのに、腹だけが氷を詰め込まれたような冷たさを訴えた。
「タオ……お願い、返事をして……」
炎がYOUの毛先を焦がす。髪の焼ける至近距離まで事故機に近づいても、彼の気配を感じることが出来なかった。
「君っ、危ないっ」
不意にそんな声がしたかと思うと、いきなり後ろへ腕を引っ張られた。同時にバチンと勢いよく火がはね、危うく服に引火するところだった。
「何をしてるんですか、早く避難してくださいっ」
振り返れば防火服に身を包んだ消防隊員に守られていた。取られた自分の腕を見て、黄色い作業服をまとっている今の立場を思い出す。
(今は……あのときじゃない。タオは、ここには、いない)
ずぶ濡れの服に、一度だけ身を震わせた。
「ほかの宿直はとっくに退勤してますよ。今夜は出入りを禁じられていたでしょう。上に見つからないうちに、早く避難してください」
YOUを庇った消防隊員は険しい口調でそれだけ言うと、消火活動へ戻って行った。
「そうよ。何をしているの、私」
炎などに負けている暇はない。自分の非力を嘆いて日本へ舞い戻ったのは、今日この日のためだ。淘世を政治の表に引きずり出そうとする者と、それを阻むために淘世の命を狙う者、双方から逃げ続けることに限界を感じたからこそ、本間からの謎めいたメッセージに返信を送ったのだ。
“四元素の《水》を司る者を探している。このメッセージの意味を理解出来る者であれば、助けを要する状況にあるはずだ。連絡を待つ。《土》《風》を護る者より”
その文面は、まだ華僑として日本に住んでいたころ、亡き養父が怒りに満ちた顔で破り捨てていた手紙と同じものだった。
『くそ、高木のヤツ。デカのくせに』
養父の口汚い言葉を初めて聞いた。その強烈な印象が、のちに役立つとは思わなかった。
淘世にメッセージのことを話せば反対するに決まっている。そう考えて単身日本へ乗り込んだ。何も解らないまま警視庁を訪れたYOUは、高木の死を知り途方に暮れた。彼の後任を問い質したのが、当時すでに交通課に配属されていた零だった。幸運と偶然が本間へとYOUを導いた。彼は素性の知れない李思安という存在を信じ、水越ゆかりの日本名を用意してくれた。
「助けられるべきは、私じゃ、ない……私が、タオを助けるの」
YOUはきりりと口を結んだ。
「本間さんも、GINだって、タオのために動いてくれている」
YOUの瞳が瑠璃色に染まってゆく。降り注ぐというにはあまりにも強い雨足の筋ひとつひとつに変化が生まれた。騒がしく消火活動をする消防隊員たちが握る散水ホースから飛び出す水にも異変が生じ出す。
――幇助我,玄武。
唖然とする消防隊を視界の隅に捉えつつ、それを意に介さず舞い踊る。それに惹かれるような動きを見せる水の糸が、幾重にも折り重なってYOUの全身を包み始めた。
(気持ちいい……)
水はYOUにとって、実際には知らない母の胎内を連想させる存在だった。火災の熱をほどよくさえぎり、柔らかな弾力が母の抱擁を思わせる。目撃者の悲鳴や驚愕の声も、YOUの耳には届かない。
瑠璃の瞳が上空を見上げた。波を掻き上げるように地面から頭上に向かって腕を勢いよく振り上げると、YOUを包んだ水柱が天に向かって一直線に高く伸びた。
勢いに任せて自ら空中へ飛び出す。水龍と化した水柱の髭らしき細い筋が、優しくYOUを抱きとめた。
「ありがとう」
龍頭へ感謝をこめて愛しげに口づける。水龍がそれに呼応するような動きで大きくうねり、旋回した。大きく振られた龍の尾から、炎目指して太い水柱が放たれる。人の力では及ばないそれが、燃え狂う炎を呑んでゆく。それに従い闇の占める黒が増えていった。
「GINがいなくても、この一帯すべてに《清》を掛けてしまえば“大は小を兼ねる”ことになるかしら」
不自然な雨雲の集まりと、《水》が伝えて来るGINとよく似たグリーンを放つオーラ。それらが集中している管制塔の切っ先を見つめ、ほんの一瞬だけ考えた。
「あれはGINよりも明るい緑ね。雨雲を集めているのも、あの敵さんみたい。GINと同じ、《風》? 気流も操る人、ということなのかしら」
自己確認するために、敢えて声に出してみる。そのつもりだったが、実は自分の判断に迷いがあっただけかも知れない。完全に鎮火した途端、龍の水柱がYOUの推測を認めるようにくるりと大きな円を描いた。そのとき初めて、声にした持論に対する妙な自信が湧いた。
「まだ当分雨雲を留まらせるつもりでいるようだし、《淨》もまとめてやっちゃいましょうか」
YOUの提案に賛成すると言いたげに、水龍が大きくうねった。
強い瑠璃のオーラを放ち、周辺五百メートルをターゲットに《清》と《淨》を繰り出す。水に念をこめて放つと、そのたびに辺りから緊張感がとけてゆく。
「あれ? え? なんで出動したんだ?」
彼らには《淨》によって、目の前の事故機が見えていない。先ほどYOUを助けた隊員の口振りから察するに、隠密で要人が来日することとテロの可能性だけは示唆されていたようだ。民間企業の従業員を退避させていたのは、サレンダーが直接手を回したからだろう。
「やっぱりこのありさまは、記憶を消しただけでは矛盾するわね。どう差し替えようとしても、個人の判断では難しいかも」
GINの《送》が必要だとYOUが判断したそのとき、コードレスイヤホンから本間の声が流れた。
『YOU、GINとの通信が途絶えた。ヤツの皮下組織に埋め込んだマイクロチップも反応を示さない。負傷している可能性が高い。戦闘位置を確認しろ、至急だ』
その声はあくまでも淡々としているが、YOUは容易に彼の内心が想像出来た。
「管制塔にGIN、もしくはターゲットと思われる《能力》者のオーラが感じられます。そちらを確認します」
そう応答している間にも、水龍が管制塔に向かって空高く舞い上がる。小さな溜息がイヤホンから聞こえた。そしてしばらくの沈黙のあと。
『スー、闘うだけがすべてではないよ。キミらしい形で相手と交渉するんだよ』
数年ぶりに聞く懐かしい声が、YOUにそう諭した。
「タオ……」
そう呟く声が上ずる。彼は、無事だった。話せるほど無傷の状態で本間が彼を保護してくれていた。
『あとでお説教したいことが山ほどあるから。任務を済ませて《風》と一緒に戻っておいで』
勝手に飛び出したことを言っているのだと思う。だけど声音はそれを少しも責めていない。急を要する事態だと解っているのに、GINや本間に申し訳なく思うのに、浮き立つ心が短くも甘ったるい返事を紡がせた。
「うん……今度は私が本間さんに恩返しをする番ね」
淘世からの「是」の声を聞くと、YOUは再び瞳に力を込めた。きりりと唇を固く結び、再び龍頭に潜り込む。
「手伝ってね、水龍さん」
YOUの声に頷くとばかりに思い切り首を下げた水龍は、その反動を使って一気に頭をもたげ、速度を上げて管制塔目指して疾走した。