李淘世(リ・タオシィー)暗殺ミッション 1
四月。GINがサレンダーに属してから二度目の春を迎えたころ、政局に小さな揺れが起きていた。GINは自分で淹れたまずいインスタントコーヒーを片手に、賑わいを見せている夕方枠の報道番組をぼんやりと眺めていた。テレビの画面には、嫌がらせのような大量のストロボの光に眉をひそめる鷹野が渋い顔で映っていた。
『今回の隠し子発覚の報道は、二十年前に日本党を離脱した改日新党・鷹野正忠議員のご子息が公設秘書として政界入りしたことと関連があるんですか』
通り過ぎようとする鷹野を無理やり引きとめて暴力的な強引さでマイクを突きつけるマスコミたちと鷹野の間に、見覚えのある顔が割り込んだ。
『次の予定の時間が詰まっているので』
鷹野から最も厚い信頼を受けている第一秘書の彼は、鷹野の代理としてGINを訪ねて来たとき同様、相変わらずの無表情で周囲のマスコミを威嚇していた。その鉄仮面振りにある種の尊敬さえ覚える。
「瀧田さんもご苦労なこった」
テレビの中で身を挺して鷹野を守る秘書に向かって、聞こえもしないねぎらいを口にした。
『首相、ひと言だけお願いします。真帆夫人は“世襲議員など今の政界に必要ない、サンバンよりも大切なのは国を背負う強い使命感”と主張し続けていましたよね。首相も同様に公言していたはずですが、娘さんを将来三世として擁立する、という可能性は?』
『若手を集めての勉強会は、正忠議員対策とも娘さんの夫候補を見極めるためとも言われていますが』
「くだらね」
GINは聞くに堪えかねて、とうとうテレビの電源を切った。
由有を振り切る形で無理やりこの事務所から引き離したのが、二週間ほど前のこと。最後に間近で見た泣き顔は、記憶から薄れるどころかより鮮やかに思い出せるほどGINの中に焼きついている。
由有の電話番号とメールアドレスを受信拒否設定にしたのは、その場の衝動だった。自分と関わったばかりにサレンダーからイレイズされることをほかの何よりも恐れた。だが、事態はあっという間に一転した。今の由有の立場は、名実ともに鷹野の娘として世間に認知されている。あくまでも暗躍組織としての立ち位置を保持したいサレンダーとしては、迂闊に由有をどうにか出来るものではない。
そう考え直して拒否設定を解除し、ひと言だけのメールを入れたのが一週間前。
『言い忘れた。事務所の鍵を返せ』
送ったメールに返信はなかった。
いつも、そうだ。失くしてから、失ったものの大きさに気づく。
――GIN、ちゃんとあたしを視てよ。
「とか言ったくせに。切り替えが早いね、今どきの若いコってのは」
SPの車に押し込まれた由有が最後に口にした言葉を、今日も思い浮かべてはそんな風に嘲笑う。これで一体何度目だろう。そう思うと、また苦い笑いがこみ上げた。
「さて、そろそろ時間か」
下らないことを考えている自分に気づき、ディスプレイの隅で遠慮がちに示された時刻を見て自分を奮い立たせた。
RIOを手懐けるミッションのあとに控えていた、本番のミッション。組織からの指令。
“中国最高指導者、胡劉傑主席の婚外子、李淘世を暗殺せよ”
正体不明のボスは、本庁地階にある例の部屋で、紀由と零にそう告げたらしい。療養中のRIOは紀由の指示のもと後方支援。その指示に零が要望を口にした。
『李淘世の来日理由は、隠密の観光旅行とのこと。目立たぬよう守備を手薄にしていると思われます。RIOは療養に専念させていただけるとありがたいのですが』
そして零自身の後方支援も辞退を願い出た。《能力》者としての働きが不可能な自分は、本件で足手まといにしかならない、というのが零の主張だった。
《本間警視正は、どう考えますか》
無機質な声が紀由に問い掛けた。
『非公開での来日は、航空便の最終以降という深夜。目撃者も少ない時間帯ですし、GINに実行の専念をさせれば、YOU独りでも充分に《清》の処理が可能と考えます』
表向きは胡主席の妾腹ということさえ秘密にされている、問題ない。ボスはそう言った紀由に最終判断を任せたとのことだった。
紀由が本庁の地階で受けた指令を、そのまま実行するはずがない。
「ホテルに二十時、か。ちょっと早めに行っておこう」
まだ肌寒い卯月の夜。今夜も由良のくれた深緑のコートを羽織る。もし自分を縛りつけるつもりで彼女が自爆したのだとしても、それについて由良を批難する資格など自分にはない、と言い聞かせた。
Zを息づかせ、すべての窓を全開にする。
「さっびぃ」
劣等感にまみれた瞳を隠す前髪が舞い上げられ、刺すような冷たい風がGINの顔を撫でる。ネオンのまたたく都会をZで思い切り駆け抜ける心地よさに酔う。GINの中から、次第に濁った思いが薄れていった。
空港に近接したとあるホテル。言い渡された偽名をフロントで告げ、エレベーターへ案内される。部屋までの案内を断り、一人でエレベーターに乗り込んだ。待ち合わせた部屋のある階を示すボタンを押し、急上昇するエレベーターに鼓膜を刺激され、顔をしかめる。ほどなくしてエレベーターの扉が開くと、GINは指定された番号を探しながら奥の方へと歩を進めた。指示された部屋の前でノックをすると、バスローブ姿のYOUが開けた扉の隙間から顔を覗かせた。
「思ったより早いですね。どうぞ」
そう言って上品な笑みを浮かべ、ドアチェーンを外して中へいざなう。なんとなく嫌な予感をよぎらせながらも、言われるままに中へと入った。
「風間さん次第のところがあると思いますけど、例の方法は私の場合で完了までに一晩ぐらいの時間を要します。早速ですけど、まずはお風呂を済ませてもらえます?」
「は?」
日本語であること以外、意味がさっぱり解らない。ここへ来るまでに気持ちを仕事モードに切り替えたはずだが、まだ余計な雑念でも混じっているのだろうか。確か紀由には、今回のミッション前に零の血漿輸血テストをするからまずはここを訪ねろ、と言われて赴いたはずなのだが。
「零の代わりに」
計らずも浮かんでしまった引き攣れた不安を、冗談でごまかそうとしょうもないことを口にしてみた。
「ゆかりさんとセッ」
「どれだけポジティブ思考なんですか。そんなにあなたにとって都合のいい話ばかり転がってなんかいませんよ」
GINが「ジョーク」という締めの言葉を出すよりも先に、YOUがぴしゃりと切り捨てた。その上、微笑む口許に対して、刺すような視線がものすごく怖い。濡れた彼女のショートボブの毛先までが、今にも鋭い針に化けて飛んで来そうな勢いだ。GINの恐怖がその瞬間だけ、血漿献血失敗の可能性から静かに怒りを発散させるYOUへとスライドした。
「冗談です。ごめんなさい」
よく解らないながらも頭を下げ、渋々指示に従いバスルームへ足を運んだ。
「あ、風間さん」
「あ?」
「着替えずに、バスローブのまま出て来てくださいね。でないと明日着る服がなくなっちゃいますから」
と意味深につけ足された言葉が、一層GINの不安を煽った。
(キツいとは聞いてたけど、そんなに苦しいもんなのかな)
GINのその問いに、シャワーの飛沫も当然答えなかった。
左袖を肩までめくられ、ゴムバンドがGINの左上腕を締めつけている。YOUの手には、わずかな黄味を帯びた透明の液体で満たされた注射器。それを構えてにこりと微笑む彼女。その微笑がかなり、怖い。GINの喉がゴクリと嫌な音を立てた。
「それ、マジで打つのか? 拒絶反応とか、ホントに大丈夫なんだろうな」
「大丈夫ですよ。零さんはABで、あなたはO型。血漿の相性は本間さんから聞いているのでしょう?」
「そうだけど……でもコレ、ホントに血漿? 見たことないんだけど、こんな色なのに、血?」
見栄を張っている余裕などなく、必死になってこの実験を取りやめる隙を探した。だがGINが口実を見つける間もなく、とどめとして放たれたYOUのひと言に黙らされた。
「風間さんは怖がりですね。私はいつもこの方法ですよ。あなたと同じ《育》の受け取り方が出来ませんから」
「……」
爽やかなYOUの笑顔と明暗の対を成すように、GINの赤いような青いような複雑な顔が、糸の切れた人形のようにガクリとうな垂れた。
「いわゆる置換療法と違います。あなたの血液を取り替えてしまっては、《風》の能力が薄まってしまう危険性が考えられますからね。だから融合させるわけですが、異物を入れるわけですから、それなりの苦痛が伴います」
苦痛、痛みなのか気持ち悪さなのか。それとも言葉では置き換えられない、もっと別の感覚なのか。
「どんな感じ? 痛い? 血を吐くとか? 臓器がぶっ壊れるとか……もしかして、死ぬ?」
「死ぬ訳がないでしょう。私が大丈夫なんですから、風間さんも絶対大丈夫ですよ。……多分」
“絶対”と“多分”が同時に成立するはずがないだろう、と心の中でだけ突っ込みを入れた。そうでもしないと、痛みへの恐怖に押し潰されそうだった。まったく心許ない「大丈夫」という太鼓判に本気で泣きたくなって来た。
ベッドに腰を落ち着けた恰好のまま、つるりと黄味掛かった液体を飲み込んでいく腕を眺める。血漿を注入される間、YOUに意外な話を打ち明けられた。
「一見普通に過ごせてますけど、私たちの中の誰が、いつ、どこで、どうなるか、なんて先のことはわかりません。それは零さんにも言えること。彼女は良質の血液を提供するため、食生活にとても気を配っているんですよ。血漿の冷凍保存を提案したのも彼女です。そして、このテストの提案も。つくづく、彼女は母性的な存在ですね」
O型は、ほかのどの血漿でも受け取れるそうだ。一方零の血液型であるABの血漿は、与える一方で同血液型からしか血漿を受け取ることが出来ないらしい。
「確かに苦痛は伴いますけど、あなたはいろんな意味で最強なんですから。この程度で根を上げないでくださいね」
そしてこのミッションを完璧に成し遂げて欲しい。そう言ったYOUの表情が神妙な面持ちになった。
「何?」
「え?」
「なんかえらく思い入れ深そうな感じだから。今回のミッションに」
図星だったのだろうか。憂いを帯びた表情が途端に変わり、YOUは無理な作り笑顔をかたどった。
「あ、はい。投与完了ですよ。ベッドに横になっておいてくださいね。私一人では、その辺でのた打ち回られても運んでなんてあげられませんから」
思い切りあからさまに話を逸らされた。YOUのその態度はGINの好奇心を煽ったが、それを追求する暇が与えられることはなかった。
「はが……っ?! い……っ!」
内側から血管が破裂するのではないかとさえ思えるような強い痛みが、突然GINの腕を発端に全身へと広がっていった。
「あら、さすが一番長いつき合いなだけありますね。反応の出るのが、私のときより早いです」
のんきにそう呟いて微笑む彼女に腹立たしさを覚えるが、何ひとつ言い返せない。身体中のすべての細胞が、零のそれを拒絶する。急激な高濃度にGINの細胞たちが悲鳴を上げた。肝臓が、脊髄が、心臓が鷲掴みされたようだ。注射針の刺さった腕が最も熱い。焼けるような感覚で、腕を引きちぎりたくなる。
「が……かはっ! ……ぁ……! く……そ!」
YOUに忠告されるまでもなく、腰掛けていたベッドに崩れ落ちる。途端に腹からこみ上げたものがベッドを汚した。胃液の混じったすえた臭いが部屋中に立ち込める。YOUの動く気配がしたかと思うと、冷たい夜風が室内に流れ込んで来た。
「男の人って、女よりも痛みに弱いんですって。彼のために、風間さんにまでこんな思いをさせて、ごめんなさい」
窓から吹き込む風に乗って、YOUの声が切なげに運ばれて来る。うっすらと涙でぼやけた視線を彼女の方へ向けると、まるでGINの苦痛が感染したのかと思わせるような悲痛の表情が、静かにGINの視線を受けとめていた。
「か、れ……って」
「李淘世。彼が、以前あなたに話した、私の……大切な人、義兄なの」
思い掛けないときに、思いもよらない形で彼女の正体を唐突に突きつけられた。
「いきなり政治の表に引きずり出されてしまった彼を助けたくて、私から本間さんに近づいたの。あなたたちを利用して、ごめんなさい」
「な……んで、あんた……が、あや……ぐっ」
ごぼ、と耳障りな音が喉の奥から零れ出す。収縮し切った胃が腹に力を入れさせてくれない。脂汗が目に沁み、それが余計に無様な涙を誘った。YOUは毎回、こんな苦しみと引き換えに任務をこなしていたのだろうか。GINは途切れ途切れにそんなことを思いながら、のた打ち回って融合の苦しみと戦った。
「少しでも、ほら、水分を摂って」
YOUがそう言って、グラスの水を口許に近づける。水が勝手に小さく踊り、GINの手を煩わせることなくするりと喉を通ってゆく。ときおり背を撫でる細い指先が、少しだけGINの苦痛を和らげた。喘ぎながら、ふと思い出した。YOUの《浄》は、対象者の苦痛や穢れと受けとめたものを清め洗い流す《能力》だった、ということを。
吐しゃ物と涙とみっともない叫びや呻き。それがいつもよりは恥や屈辱と感じない。GINの《風》やRIOの《焔》が砕き壊す《能力》であるのに対し、零やYOUの《能力》は、育み、癒し、他者に与える類のものだ。さっきYOUの言った「最強」という言葉を、そっくりそのまま女能力者たちへ返したい心境になった。