あまい果実 4
春休み中とはいえ、来週から新年度だ。三月末の時期に加え、夜の十時を回ってもいるためか、首都高速に入ってからは思っていたより車も少なく、スムーズにZを走らせることが出来た。
由有は窓を全開させ、まばらに流れるテイルランプや、規則正しく後ろへと流れていくロードランプを、無表情の目で追っている。GINはそんな彼女の横顔を視界の片隅で捉えた。
「寒くないのか?」
そう尋ねながらまともに由有へ視線を移すと、どうも彼女の様子がおかしい。ファミレスで飯を食っているときは、そうでもなかったように思う。
「……」
そして今もこうして、また由有からの返事がない。
「コラ、何を怒ってるのか知らないけど、返事くらいしろ」
GINは由有の頭を軽く小突き、彼女がムキになって言い返して来るのを期待した。
「きゃっ」
GINの予測に反して、彼女は肩をびくりと震わせた。
「ビックリしたあ。何?」
そう言いながら大きく目を見開いた横顔がこちらを向くとき、GINの死角になっている左耳からイヤホンを外すのが見えた。その仕草でようやく、由有が無言だった理由を把握した。
「なんだ。何か聴いていたのか」
苦笑混じりにそう返しながら、ダッシュボードからオーディオ端末用の接続アクセサリーを取り出した。
「言えばいいのに。ほら、これ、そこのUSBのソケットへ繋ぎな」
「ありがと。GINの趣味と違いそうな気がして、なんとなく、ね」
由有は苦笑いを浮かべながら、遠慮がちにそう答えた。その傍らで、スマートホンとZのスピーカーを繋いでいる。
「何を聴いてたんだ?」
妙な間が開くのを避けるため程度の、軽い気持ちで訊いてみた。
「……アニソン」
ぼそ、と小さな声が返って来る。
「ガキ」
と言うと同時に噴き出した。由有がアニメソングを聴く。その子供らしさは、いつも大人扱いしろとうるさい彼女の意外な一面という印象を抱かせた。
「違うもんっ」
由有が口にした反論のBGMとなって、その曲がスピーカーから流れ出す。アニメの主題歌だと知らされていなければ、そうとは思えないほど普通のJ-POPだった。それを聴いた瞬間、GINの笑い声がやんだ。
「元々はこの人の古い曲を聴いて」
「あれ? ちょい待って」
聞き覚えのある男性ヴォーカルの声に、GINは注意深く耳を澄ませた。わけも解らないまま、胸の辺りが苦しくなる。
「これ、聴いたことのある声だ。誰?」
「スガシカオさん」
GINは元々邦楽をあまり聴かない。そのせいか、それは初めて聞くアーティストの名前だった。
(んじゃ、なんでこんなに気になってるんだろう)
息の詰まるような感覚が止まらない。由有のスマートホンが、今ひとつその原因を突き止められないGINへ正解を告げるように次の曲を流し始めた。
それまでの明るい曲調とは打って変わった、短調で奏でられるイントロ。
「あ、これはアニメの主題歌じゃないのよ。ずっと昔の曲」
由有がそう言い足すまでもなく、それを耳にしたGINの背筋にぞくりとした感覚が走った。
「この曲を初めて聴いたとき、すぐにレンタルショップでアルバムを借りて通しで聴いてみたの。そしたら一気に嵌って、結局買っちゃった」
由有が口ごもる感じで、とつとつとこのアーティストを好む理由を語った。
「歌詞が好きなんだ。人間って、綺麗な面しかない、なんてはずないじゃない? そういう暗い部分をすごく共感しちゃえる言葉遣いで歌ってるの。初めて聴いたときは泣けちゃった」
BGMと化したその曲が、GINを六年前へと引きずっていく。高音でありながらハスキーな声が、サビのメロディを歌い上げた。
――あまい果実みたいに ぼくの中で熟しているんだ――
「したーたーり、落ちそうなくらいにー、君への想いは、あふれーてーいるーのにー」
由有が小さく口ずさむ。その声が由良と重なっていく。夜の海が、泣いている。儚い笑みが消えていく。そのイメージがGINの中で溢れ返った。
「あたしね、この曲が一番好き、なのかも知れない。きっと一番共感しちゃってるんだと、思う」
その曲は『あまい果実』。由良が最期まで口ずさんでいた歌だった。
三月の海は、思っていたほどの寒さではなかった。確かに春が近づいていると感じさせる風が、そっとGINの頬をかすめてゆく。
履き慣れないパンプスに足を痛めつけられ、由有は汚れることも気にせずパンプスを脱ぎ捨てた。まるでゴミを摘むように片方ずつパンプスを持ち、ストッキングだけが守る足で汚れた砂浜を踊るように小さく跳ねて歩く。
「足の裏を切るぞ。ちゃんと履いて歩けよ」
「ケガしたらGINにおんぶしてもらうからいいんだもん」
「なんで俺が面倒見なくちゃならないんだ」
軽い足取りで数歩先を行く由有にそう毒づいてみたが、紫煙と一緒に笑みが零れた。
「だって、GINはあたしのSPでしょ?」
なんの疑いも抱いていない瞳が振り返り、GINの瞳をまっすぐ捉えた。
「……“元”、だし。今は警護部の連中が守ってるだろう」
つい目を逸らしたくなり、答えながら立ち止まって靴の裏で煙草を揉み消す。
多分、GINの右脚に埋め込まれたチップから情報を得て、サレンダー経由で警護部の面子が近くで監視していることだろう。組織の存在はさておき、本物のSPが近場に控えているということを、由有へ暗に伝えたつもりだったが。
「オリエさんの入院先へ着くまでに、とっくに巻いちゃったもん。任務だけで気持ちが伴わない人の警護なんて、いざというとき当てにならないものよ」
妙に大人びた口調で語られ、どきりとさせられた。そして紡がれた言葉の意味も解らなかった。
「んじゃ、任されたわけでもない俺なんか、もっと当てにならないじゃん」
「GINは、特別なの」
「……わけわかんないし」
戸惑いの混じったGINの呟きを、白い波がさらっていった。
一年前に由有が独りぼっちで膝を抱えていたところで、今年は真夜中の海をふたりで眺める。由有はしばらく立ったまま海を見つめていたが、やがてGINと同じように膝を折って身を屈めた。
漆黒の中に浮かぶ白波は、今年も去年と変わらず寄せては返す。時折ゴミを運んで来るのに気づいたのは、今年が初めてだった。
「GIN、先月はここに来なかったんだね」
海に視線を向けたまま、由有が独り言のように呟いた。
「お前、ひょっとして先月ここに来てたのか?」
「うん。ユラとの思い出がある場所みたいだから、今年も来るかと思って、GINを待ってた」
去年初めて由有と会ったとき、彼女を由良と見間違えた。それを根に持って咎めるつもりだったのかと一瞬勘ぐったが、彼女の口調はいたって穏やかだった。
「オリエと坂口の案件で忙しかったし」
本当は、忘れていた。その事実が由良に対する罪悪感を抱かせた。だが、GINは由有にそう言われるまでは、そんな意識さえなかった自分の変化に気づかなかった。
「っていうか、待ってたって、なんで? 先月はお前が単独行動に走って掴まらなかったくらいだから、電話を取り損ねたことなんてなかったはずだ」
「うん。呼び出したら、きっとGINは逃げちゃうと思ったから。電話は入れてないよ」
「んじゃ、事務所に来ればよかったじゃん」
「どうしてもここで逢いたかったの。GINの前で、ユラに宣戦布告してやろう、って思ったから」
「宣戦布告?」
そう問い返すGINの声が、露骨に不快なトーンで闇に響いた。由有のGINに対する解りやすいほどストレートな言動は、紀由や零に再三の忠告を受けているほどだ。RIOにいたっては、しつこいほどからかうので、何度か大人げない口論までして自己嫌悪したことさえある。
「由有。お前さあ」
GINは海を見つめたまま、やはり波を見つめたままの由有に語り掛けた。
「前々から一度言っておこうと思ったんだけど」
だるい動作でコートのポケットまさぐり、場つなぎに煙草を咥えて火をともした。
「お前が俺に期待してるソイツって、恋愛感情じゃないぞ」
自分で言っている台詞は、選びに選んだ末に出たもの。だがやはり音にしてみると、陳腐さと傲慢さが鼻について頬の筋肉が引き攣った。こちらへ視線を移す気配を隣から感じ、大袈裟な溜息をついて俯いた。無造作に伸ばした前髪が、由有から上手にGINの目を隠す。潮時だと自分に言い聞かせ、GINは引導を渡すつもりで由有にひとつの提案を促した。
「意地張ってないで、本物の親父さんに甘えろよ。お前が思っているほど、鷹野はお前やおふくろさんをないがしろにしているわけじゃない」
GINが誰にも口外せずに、そして書類にもせずに引き受けた“要人”の依頼を遂行した。
「鷹野の秘書、瀧田って言ったっけ? あの人を通じて鷹野が泣きついて来たぞ。由有が話をするどころか会ってもくれない、って。俺っていう親父代わりがいるから意地を張れてるんだろうからさ。そろそろ、それに気づいたら?」
吐き出すだけ吐き出して、ほとんど吸い込んでいない煙草をようやく深く吸い込んだ。勝手に息が止まる。肺を通じて全身に回った煙で眩暈に近いゆらめきを感じ、GINの身体を一度だけくらりと揺らさせた。
「さすがに俺も、由有みたいなでかい娘は要らないし。素直に本当の親父さんと向き合いな」
口にした言葉を自分の中にも刻む。楔を打つように、GINは手にしていた煙草を砂の中へねじ込んだ。
「GIN、なんにも解ってないね」
ぴしゃりと言い放たれた由有の声には、じれったさを孕んだ憤りがこめられていた。
「ねえ、あたし、そんな話をするためにここへ来たいって言ったんじゃないんだよ?」
そんな言葉に気をとられ、由有の動く気配を察知するのが一瞬遅れた。
「子供扱いしないでよ」
はっとして顔を上げた先、あり得ない距離に由有がいた。咄嗟に身を引いて距離を保とうと思ったのに尻もちをついてしまい、由有から逃げ損ねた。
「ゆ」
「一年前、ケガをしてまであたしを助けてくれたよね。そのとき、救急車に乗り換えるまでの間、GINはあたしの膝枕で寝てたんだよ」
二重の意味で心臓がどくんと大きく脈打ち、GINの動きを無理やり止めた。逃すまいとする手が伸びて来る。GINが体勢を整える間もなく、由有のかじかんだ両手が、GINの頬に直接触れた。
――GINのこと全部、《能力》のことも、知ってる。
GINの《送》が、由有の表層思念を無遠慮なほどに取り込み始める。視界が淡い緑に変わっていく。サングラスはポケットの中に収めたままだった。異常な早さで高まっていく鼓動がGINを浅い息遣いにさせ、すべての言葉を封じ込んだ。逃れようにも逃れられない強い視線が、GINの異質な瞳の色をまっすぐに覗き込む。由有の訴えるような強いまなざしは、GINに目を逸らすことさえ許さなかった。
「初めてGINの中のモノが視えたときは、ユラと間違えられてもしょうがないかな、と思ったの。顔とか姿とかじゃなくて、ユラの持っているモノがあのころのあたしと同じだったから」
《要らない命。消えるべき命。それが大切な人のためになるなら、それでもいい。そんな風に思ってたの。それがユラとおんなじだな、って、思ったの》
由有の言葉と思念がクロスする。大人びた微笑を受けて、GINの頬が引き攣れた。ためらうことなくしがみついて来る彼女から、逃れることさえ出来ない。
「GINがあたしの前でも、平気でうたた寝したままになっていくのが、すごく嬉しかったの。そういうのって、最初のうちは零の前だけだったでしょう?」
《GIN、気づいて。GIN自身の、本当の気持ち。ちゃんと見てよ、あたしのこと。ちゃんと聴いてよ。視てよ》
濡れた頬が、GINのそれまで湿らせる。海風が吹き抜け、ふたりの頬にぴりりとした痛みを残して過ぎ去った。
「GINのユラに対するそれこそ、恋愛感情なんかじゃないよ。気がついて」
《愛してるって言いながら、ユラはGINを縛っただけ。自分で勝手に作り上げた“使命”っていう大義名分をGINに押しつけて、自分の認められないことから逃げたのよ。GINだって、本当はそれに気づいてるくせに、どうしてそうやってごまかすの?》
見透かしたように断言する由有の思念が、GINを混乱させる。自分の中の何がどのように彼女へ《送》られてしまっているのか解らなくなっていた。それほどの動揺がGINを支配していた。
「あの歌は、GINの思念を感じたときに初めて知ったの。ユラのこと、大嫌いになったわ。解っていてGINを縛りつけたんだって知ったから」
――もうそばにいれないくらいに そのニオイは鼻をつくんだ――
嫌いなのに耳について離れなかったそのフレーズが、GINの中でリフレインした。由良の顔が、思い出せない。由有に侵蝕されていく。ゆっくりと身を剥がしてGINを見下ろす微笑がそう思わせた。
「GINの持ってるそれは、ユラの気持ちに応えられなかったことに対する罪悪感だよ。ユラに押しつけられた、持つ必要のないお門違いな罪悪感」
断言する強い口調と裏腹に、GINの頬に触れたままの手が、小さく細かに震えている。
《お父さん代わりなんかじゃないよ。本気で迷惑がっている人に、こんな図々しいことなんか出来ないよ……お願い、気がついて》
「GINは寝ているときが一番無防備だから。GINが知らないGINのことは、あたしの方が知っている」
その感覚は、よく熟れた桃をかじったときに味わったものととてもよく似ていた。くどいほどの甘さは、喉の渇きを誘う味。滴り落ちる果汁はその渇きを癒すどころか渇きを更に煽るほどの濃厚な甘さ。
「GIN、あたしは」
「……由有」
かすれた声で、名を呼んだ。ようやく身体の自由を取り戻せたのは、甘ったるいそれが理由ではなく。
「二度と《能力》のことを口にするな。それから、もう事務所にも来るな。俺の連絡先も携帯から消せ」
甘ったるい感覚と同時に溢れ返った感情が、GINに理性を取り戻させた。ひとつの懸念が、GINに尖った警告を吐き出させた。
「どうして? あたしは怖くなんかない。一年も騙せて来たもの。サレンダ」
「黙れ。視たのなら、それを口にしただけでどうなるのか知ってるんだろう。俺や紀由にお前をイレイズさせる気か」
GINは警告する一方で、由有の手首を強く掴んだ。小さな悲鳴を上げる彼女に構わず、自分の肌に触れる彼女の両手を引き剥がす。本音を晒したままでは、口先のすべてが無駄になる。無自覚が認識に変わっていくに従い、GINの眉間に深い皺が寄った。
「GIN、待って。最後まで話を」
「聞く必要なんかない」
グローブで遮断された思念が、由有に伝わることはなかった。
GINは片手で由有の両手を拘束したまま、もう一方の手で携帯電話を取り出した。
『はい、土方』
「零、また由有がSPを巻いてほっつき歩いてるのを掴まえた。SPと連絡を取って引き取りに来いと伝えてくれ」
「GIN?! ちょっと待って!」
GINの手を振り解こうと足掻く由有を従え、零に用件を淡々と告げた。
『今、どこですか』
「海浜公園」
『……彼らから由有を見失ったと連絡が来ていましたので、既に風間事務所で待機させています。そちらへ向かわせますか』
「すれ違うと面倒だから、もう二十分だけ待てと伝えてくれ」
『了解です』
通話オフのボタンを押すと同時に、GINの心のボタンもオフにする。由有の泣き顔を視界に一切入れなかった。上ずった懇願の声には、聞こえない振りを貫いた。触れようと伸ばして来る震えた手を容赦なく払い除けて拒んだ。事務所に着くまでの二十分間は、GINにとって何時間単位の長さに感じさせるほどの、苦痛を伴う時間とも言えた。
SPに由有を引き渡し、独りに戻った事務所へ足を踏み入れる。そこで初めて思い出したのは、RIOのこと。
「零にRIOの容態を訊き損ねたな」
由有の悲鳴に近い懇願する声が、電話越しに零の耳にも入っていたはずだ。そして彼女は、日ごろなら言いそうな「どういうことですか」といった、GINを咎める類の追及を口にしなかった。
「勘づかれた、かな」
くすりと漏れた自嘲が、薄暗い事務所に響いて消えた。
GINは灯りもつけずに、だるそうな足取りで冷蔵庫に近づいた。よく冷えたヘネシーを手に取り、扉を乱暴に足で閉じる。グラスを出すのも面倒で、瓶にそのまま口をつけた。
「お門違いな罪悪感、か」
自嘲気味に呟いた言葉が、パズルのピースのようにGINの中でぴたりと嵌った。




