あまい果実 3
――あまい果実みたいに ぼくの中で くさってしまうよ――
「神ちゃん、この歌、歌詞まで全部、覚えてる?」
モニターの中からそう問い掛けて来る由良は、両の手足をビニール紐で乱暴に縛られ、手足の先は色が変わっていた。
『由良、ケガはっ?! そこがどこだか判るか?』
と叫ぶGINの声が、彼女の耳に届いていない。モニターを囲むAV機器に目を凝らして見ても、マイク関連の機材を見つけることが出来なかった。
「なんてね。訊いても、神ちゃんたちの声が私には聞こえないみたい」
くすりと笑う彼女の声が、モニターを載せたボートへ近づいて来る水音に掻き消された。
『由良、居場所が判別出来る、目印になりそうな何かはないか』
紀由がモニターに向かって問い質す。彼の声と表情からは、日ごろの対応とはまるで違う、冷静さを欠いた焦りの色が滲んでいた。
「今、私の前に“こう言え”っていう言葉を映したモニターがあるんだけど、その前に、神ちゃんに伝えたいことを先に伝えさせてね。どうせ私は、もうこれから先ずっと、神ちゃんと会えないんでしょう?」
由良は紀由の問いも無視した形で、視線を少し上へずらして見えない誰かに問い掛けた。
『ちっ。一方通行なのか』
腹立たしげな紀由の舌打ちを、打ち寄せる波が連れ去った。もうひとつの水を掻き分ける音が、GINの隣でぴたりととまる。
『由良……貴女とはまだ話が終わっていません。すぐに、助けますから』
零のくぐもった細い声を耳にすると、紀由がこちらの音声の届いていないことを彼女に伝えた。
「テロップが変わらないってことは、時間をくれるってことなのね」
そう言った由良が視線をこちらへ戻した瞬間、三人は同時に息を呑んだ。
『由良?』
『どうして』
『……笑って、る……?』
それは、今まで三人が、由良の顔では見たことのない種類の微笑だった。
「神ちゃんが思っているより、私は神ちゃんのこと、みんな、みぃんな、知ってるのよ」
引き出しに隠した過去も、と、歌詞になぞらえて、由良が呟く。
『由良? 何を言っている?』
GINと零は、いぶかる声音で呟く紀由を見ることが出来なかった。厳寒の海に晒された足より、腹の底の方が凍てついた。
「神ちゃん、自分を責めないでね」
虚ろな瞳がGINを見つめる。心臓がこれ以上ないというほど、早くて強い脈を打ち続けた。
「私、解ったの。きっとね、神ちゃんの“ソレ”って、兄さんの持っている素質と同じで、世界を本来あるべき形にとどめさせるためには必要な才能のひとつ、なのよ」
由良は穏やかな口調でGINをそう諭した。その声は三人に、彼女が自分の置かれた状況を認識出来ていないと思わせるほど柔らかで落ち着いていた。
『あいつ、心身膠着に陥ったか。埒が明かないな。とにかくこいつを吐き出したあのボートまで』
救命ボートに収まったモニタを見据えていた紀由が、姿勢を起こしてそう言い掛けたとき、続く由良の言葉が全員を固まらせた。
「だから、零さんと肌を重ねることで“ソレ”のデメリットが解消されるのも、それが零さんの使命なら諦めるしかないかな、なんて、思ったの」
『!』
声にならない当事者のふたりが、同時に息を呑む。
『な、に……?』
零よGINに向けられた紀由の背中がこちらへ振り返るのを視界の隅に捉え、GINは咄嗟に向けられるであろう紀由の視線から逃げた。零がGINが視線を背けた先で、自らがその視界から消えるように数歩身をずらす。
「愛情の欠片もないお互いなのに、そんなことが出来るなんて、と思ったこともあるけれど、使命に必要なら私が消えるしかない、やっとそう思えたの」
GINや零の動揺にはお構いなしで、由良は淡々と言葉を繋いだ。
わずかな時間、沈黙が訪れる。波の音が耳障りなほど大きくGINの鼓膜を刺激した。そしてそれ以上に、内側から響く鼓動が、やかましいほどGINを責め立てた。波の力に抗うわずかな水音が間近に立つ。
『神祐……どういう、ことだ……』
水面を這うような低い声に、GINはびくりと肩を上げた。
『本間』
『零は黙っていろ。こいつに訊いている』
震える声が、紀由の怒りを表していた。救命ボートのへりを掴んで支えていた体が不意に持ち上げられる。
『きさま、由良を利用してまで、俺や親父との関わりを保ちたかったということか』
急に息が詰まったかと思うと、紀由の刺すような強い視線が間近でGINの瞳を捉えた。
『……そんな汚い手を使って上り詰めたところで、一体なんの意味が』
言葉の途中で紀由の顔色が変わる。襟首を掴んだ紀由の両手が、GINの頬に直接触れていた。
『はな、せ』
そんな呻きに近いGINの呟きは、紀由の耳に届かなかった。まともに思念が溢れ出すのを、わずかほどもとめることが出来なかった。
『な、んだ、これは……』
焦れば焦るほど、駄々漏れになる。由良の言葉に触発されて、廻っては消えていくこれまでのこと。
『……ッ、放せッ』
ようやく紀由の手から逃れたものの、隠していたことやネガティブな部分ばかりが、すでに彼へ《送》られていた。
「兄さん、きっと一緒にいるんでしょう。神ちゃんを叱ったら、化けて出てやるんだから。怒らないであげてね」
笑いながら告げられた不吉な物言いに、紀由が誰よりも始めにモニターを振り返った。振り返る刹那に紀由が浮かべた今にも泣きそうな顔が、GINの五感を麻痺させた。弁解のひとつも言えなかった。すくむ足が崩れてしまわないよう踏ん張ることで精一杯になっていた。
『ゆ、ら……すぐに』
「神ちゃんの使命に比べたら、私の気持ちも、命なんかも、本当にちっぽけなものなの。だからふたりとも」
――助けになんか来ないでね。
その瞬間、GINの五感が一斉に息を吹き返し、電気の走るような痛みと寒気が全身を襲った。由良の視線が、微笑を湛えたままわずかに上がる。由良に指示を出しているらしいモニターの位置で、由良の視線が固定された。
「やっと私に出来ることを見つけたの。あなたの命令なんかに従わない。助けなんて、求めない。私は神ちゃんの足枷になる気なんて、ないわ。彼がすべきことをするために必要ならば、こんなちっぽけな命、あなた方の好きにすればいい。爆破したいのならすればいいわ。兄さんも神ちゃんも、私情で判断ミスなんて、犯さない」
声高に宣言する由良の瞳から、空虚の色が消え失せた。同時にモニターの中が警告の赤い点滅を映し出す。
『由良……バカな』
零が顔をゆがめて、信じられないといった声音で呟いた。警告の赤とシンクロする点滅が、水平線の一角に見えた。
「風間由良に、なりたかったな。でも、神ちゃんの邪魔になるくらいなら、これでよかったって思えるから、いいの」
由良の切なげな囁きが、ノイズに混じってGINの鼓膜を哀しく揺らす。
『紀由、先に行く』
一跳躍では、赤の点滅を繰り返す船まで辿り着けない。GINは波打ち際まで後退し、助走距離を確保した。
「神ちゃんの中で、私が腐ってしまう前に、役に立てるから、よかった」
そんな声を背中で聞き、心の中でだけ否定する。
(由良、違う)
GINの視界が深緑に変わる。赤い点滅が赤黒いそれへと塗り替えられてゆく。
紀由はすでに、由良の映るモニターを吐き出したモーターボートに向かっておよふぃ出していた。彼を目標に定め、意識と漲るエネルギーをアキレス腱に集中させる。身の内に充満してゆく《流》がGINにゴーサインを出すと、GINは思い切り左足を踏み込んだ。
『ふざけん、なッ』
「神ちゃん、私の分も生きて」
由良を映したモニターを飛び越える刹那、そんな声がGINに届く。
「神ちゃんにしか出来ない使命を、まっとう、してね」
その声を背に受けて、紀由の上を飛び越える。彼の目に自分が映ったことを確認し、それとほぼ同時にモーターボートへ着地した。手早くはしごを海面へ下ろし、紀由の足場を確保した。
『紀由?』
はしごに手を掛けたまま動きをとめた紀由をいぶかり、表情の抜けた彼に声を掛けた。
『どういう、ことだ……』
そう呟く彼の視線を追って、GINも乗り込んだボートの躯体へ視線を投げる。
“POLICE”
由良を拉致したと思われる犯行グループが使ったに違いないこのボート。その躯体にペイントされていたロゴは、水上警察の所有を意味していた。
ボートのわずかな照明が漏らす仄かな灯りでしか見えなかったその文字が、一瞬にして鮮明になった。同時にGINたちのいる位置よりも沖の方角から、激しい爆音が轟いた。
『な……ッ』
沖合いの闇に浮かぶ一隻の船が、業火に包まれ黒煙を巻き上げる。ふたりは同時に絶句した。紀由がいち早く我に返り、操縦席へ身を躍らせた。
『紀由、お前、操縦が』
『免許くらい取得済みだっ』
そう言っている間にもボートはターンし、燃え盛る炎に最大速度で向かっていた。
――こころを開いてくれないと もう全部ダメになってしまう――
アーティストの声ではなく、由良の声で歌われるそれが、GINの中でリフレインする。
――あまい果実みたいに ぼくの中で くさってしまうよ――
『怖かった、だけなんだ……』
由良に拒絶されることが。彼女がその歌詞になぞらえて告げた、GINの彼女に対する想いを、誤解だと心の中で否定した。
――君へのこんなにも深い この想いは かわってしまうんだ――
『変わってなんか、いない……』
向かい風に向かって呟く。焦れた思いがきつくデッキを握らせる。次第に焼けつくような熱が、GINの目を細めさせた。
――あまい果実みたいに 時が経つと黒ずんでいくんだ――
『まだ……なんにも……ちゃんと伝えてないのに……』
GINたちの乗ったボートから十数メートルもの距離があるのに、それ以上近づけないほどの熱がふたりを襲う。この距離でも焼けそうなほどの熱さなのに、由良はあの中にいる。そう思うと、体が勝手に動いていた。
『神祐、待てッ』
紀由の制止を聞く気になどなれなかった。飛び込んだ海の温度までが、かなりの熱を帯びていた。それでも被らないよりはマシとばかりに、GINは一度潜って全身を濡らした。再びボートに上がり、ジャンプの姿勢を構えた。
『死に逃げなどさせるか』
震える声がGINを捉え、強い力が腕を掴んで無理やり跳躍をやめさせた。
『フザけんなっ。もしかしたらまだ』
『感情で動くな。頭を使え』
手遅れだ、と呟く声が、限りなく弱かった。GINの腕を掴んだ紀由の手が、彼の震えを伝えていた。俯いた横顔が、口惜しげに奥歯を噛みしめる。強張った紀由の頬が、彼の無念さをGINに見せつけた。
『お前たちが由良を殺したも同然だ。俺はお前たちを赦さない』
透明のひと筋が、熱風ですっかり渇いた紀由の顎を伝い、ぽたりと海面へ吸い込まれていった。
その後のことは、断片的にしか覚えていない。紀由が舵をとって退却する船の一隻に追いつき、ふたりで乗り込んで捕らえた犯行グループのひとりを、GINが思い切り殴り飛ばした。彼らが中国語と片言の日本語で「頼マレタダケ」「依頼主、知ラナイ」を繰り返していたことだけが、彼らに関して覚えている唯一のことだ。
陸と海の両方から、警察であるはずの自分たちが囲まれた。砂浜へ戻されたとき、零が手錠を掛けられていた。ひとりの警官が、紀由に携帯電話を差し出した。
『……副総監』
彼が通話相手をそう呼んだことは覚えている。その事件は、韓国の海賊による水上警察船のジャックによって引き起こされたと報道された。いち早く情報をキャッチして迅速に対応した功績として、紀由に警視任命という異例ともいうべき早期昇進の辞令が言い渡された。
由良の死因は交通事故死として母親に伝えられた。今思えば、サレンダーが根回しをしたのだろう、ないはずの由良の遺体どころか加害者まで存在し、すべては普通の事故処理と同じ経過を辿って処理された。もちろん棺の遺体は別人だろう。
『顔がね、もう誰だか解らない状態だったの。きっと由良は、神ちゃんにだけは見られたくないと思うのよ。……ごめんなさいね』
由良の母親が、嗚咽混じりで会わせられない理由をそう語った。
葬儀は、警察関係者からの弔問を一切固辞し、ごく近しい者だけでしめやかに執り行なわれた。GINが弔問に赴かない不自然さは、何も知らない由良の母親に不審を抱かせる。紀由から事務的な声で許可の理由を告げられ、選択権のないGINはそれに従った。零とは一切の連絡がつかなかった。
『よく顔を出せたものね』
泣き腫らした目で唸るように言葉を吐き捨てたのは、由良を実の妹のように可愛がっていた志保だった。GINをねめつける目は、由良を家の中に入るまで見送らなかったことを責めているわけではなかった。オフレコにすべき事実を知っている鋭さを持っていた。GINをなじる志保に制止を掛けた紀由は、一度もGINと目を合わせなかった。そして彼は、父親である本間総監とも、葬儀中一度も言葉や視線を交わさなかった。漆黒の喪服に、赤く腫れた両の瞼。人目のないところで弱った自分を拭い切ったのだろうが、その痕跡を残すような不完全な紀由を初めて見た。
『神ちゃんも私たちと同じ思いでいるのに。ごめんなさいね。志保さんが取り乱して』
由良の母親だけが、知らないがゆえにGINの弔問に礼を述べる。それが却ってGINの頭をより深く下げさせた。
『一度は家に戻ったのだから、神ちゃんのせいじゃないわ』
――神ちゃんが責任を感じなくていいのよ。自分を責めないでね。
由良の告げた意味とはまったく違う思いをこめて、由良たちの母親が由良と同じ言葉を口にした。
『……申し訳、ありませんでした……っ』
心からの謝罪が、嗚咽へと変わっていった。もう二度と元には戻れないのだと思い知らされた。GINは由良の葬儀から帰ると着替えを済ませ、何も持たずにアパートを出た。それきり二度とその部屋には戻らなかった。
GINが由有の拉致事件で負った怪我のせいで入院を余儀なくされていたとき、零からその当時のことを初めて知らされた。
零が水上警察船ジャック事件に関与しているという嫌疑が掛けられた形を取って、サレンダーが彼女を一時的に表社会から隔離した。零が本当に高木ファイルの内訳を知らないと判って、半年後にようやく解放されたらしい。それを機に、零は公安から交通課へ左遷された。
事件当時に本間総監が掴まらなかったのも、サレンダーの差し金だったそうだ。
紀由にサレンダーの存在を確信させ、本庁最地下のアジトに乗り込ませた原動力は、高木の遺した紀由宛のメッセージだけではなかった。
『ゆかりさんが本間を訪ねて《能力》のことを打ち明けなかったら、本間は高木さんのメッセージを半信半疑で受けとめたまま、無駄に時間を費やしていたでしょうね』
YOUは高木の保護を求めて警視庁を訪ねたという。高木の死を知ると、彼女は紀由を指名したらしい。
『高木さんの周到さには、頭が下がりました。本間が乗り込んで来たときには、さすがの私もうろたえました。でも、ゆかりさんから事情を聞いたら本間の説得を諦めざるを得ませんでした』
その事情というのが、組織の壊滅、らしい。かなり端折った説明だとは思ったが、いずれ解ると零にはぐらかされれば、それ以上訊くことが出来なかった。そのまま、なんとなく聞きそびれている。
「ゆかりさんは、高木さんとどういうきっかけで知り合ったんだろう?」
組織の中で、ボスの次に謎めいた彼女に関する疑問が、浮かんだままに口から漏れた。
「高木さんって、誰?」
「うぉ」
突然の合いの手に、思わず変な声が出た。いつの間にか由有がトイレから戻って正面に座っていた。
「びっくりした。いたのか」
「ひどい。さっきからずぅっといるのに。声を掛けてもコートを握ったまんまぼーっとしてるんだもん」
百面相が面白くて黙って見ていたと言う。その割に、由有の表情が妙に暗い気がした。
「デザート、なんか食う?」
「ううん。それより、海が見たい。連れてって?」
こんなにも寒い三月の冷えた夜なのに、変わったことを言う。グローブを嵌め直してメニューへ伸びた手が、中途半端な位置でぴたりととまった。
「海? 今から?」
「うん。GINと初めて会った、あの海へ行きたいの」
それを聞いた途端、GINは露骨に顔をしかめた。
「やだ。寒い」
「去年は行ってたじゃないの。それも、今よりもっと寒い二月のうちに」
「……よく覚えてるな。日付まで」
由有にとっては、たまたまその日だった程度のことなのに、という呆れた内心が、由有への突っ込みの言葉に滲み出た。今日は嫌なことを思い出してしまったせいで、いつも以上にあの海へ行く心境にはなれなかった。
「覚えてるに決まってるじゃない。GINが今みたいな顔してるときだったもん」
そう言って浮かべた微笑が、また由良の最期に見せたそれと重なって見えてしまう。今にも消えてしまいそうな、儚い哀しげな微笑。無碍に出来ない気にさせる、GINに有無を言わせない作り笑い。
「ね、連れてって」
「どうしても?」
「どうしても」
「別の日の昼間じゃダメ?」
「ダメ。今がいいの」
深い溜息がふたりの間に零れ落ちる。GINは自分の主張を諦め、伝票を掴んで席を立った。