第二戦 婚約破棄ですか? それでは決闘いたしましょう
ノルディア王立学園の卒業祝賀会。
十八歳を迎え、晴れて成人となった卒業生たちを祝う大広間には、色とりどりの花が飾られ、軽やかな音楽と楽しげな笑い声が満ちていた。
三年前、この同じ卒業祝賀会で、一人の侯爵令嬢が婚約者へ決闘を申し込み、魔導銃で胸元の薔薇を撃ち抜いたという話は、今でも学園の語り草になっている。
もっとも、今年もまた同じような騒ぎが起こるなどとは、誰も思っていなかった。
「卒業したら、すぐ王宮勤務なの?」
大広間の一角で、アンネローゼ・フォン・シルバーベルクは隣に立つ青年へ尋ねた。
十八歳の彼女は、シルバーベルク伯爵家の一人娘であり、次期当主でもある。
暗い褐色の髪を、今夜は普段より少しだけ緩く三つ編みにまとめ、琥珀色の瞳の前には飾り気のない眼鏡をかけている。すらりとした細身の令嬢だった。
成績優秀で真面目な努力家であり、卒業後は父である伯爵のもとで領地経営や商取引を本格的に学び、いずれは伯爵家を継ぐつもりでいる。
だが、華やかな令嬢の多い学園では、目立つほうではなかった。
大人しくて地味なうえに、魔法の才能がほとんどない令嬢。周囲からは、そう思われていた。
「うん。まずは下っ端からだけどな」
答えたのは、フェリクス・フォン・ヘッセン。
アンネローゼと同じ十八歳の彼は、ヘッセン伯爵家の次男で、卒業後は王宮で官僚として働くことが決まっている。
黒い髪に濃い緑色の瞳をした、背の高い青年だ。
誰もが振り返るような派手な美貌ではないものの、気さくで人当たりがよく、男女を問わず友人が多かった。
そしてアンネローゼとは、隣り合う領地で幼い頃から一緒に育った幼なじみでもある。
「アンネは?」
「しばらくはお父様について勉強するつもり。鉱山のこともそうだけど、最近始めた事業のほうも覚えたいし」
フェリクスは彼女らしい返事に笑みを浮かべた。
「また勉強か。あんまり無理すんなよ?」
「フェリクスに言われたくないわ。王宮へ入るための試験勉強、ずっとしてたでしょう?」
アンネローゼが見上げると、彼は悪びれもせず肩をすくめた。
「俺はもう終わったからいいんだよ」
昔から変わらない気安いやり取りに、アンネローゼは柔らかく笑った。
本当なら今夜、彼女の隣にいるべきなのはフェリクスではなく、婚約者であるアルノルト・フォン・アイゼンベルクのはずだった。
だが、彼は今夜もアンネローゼを迎えには来なかった。
それどころか、先ほどから別の少女を伴って会場内を歩いている。
「なあ、アンネ」
フェリクスの視線が、少し離れたところにいるアルノルトへ向いた。
「なに?」
「本当に、あれ放っといていいのか?」
その視線の先を確かめ、アンネローゼは小さく息を吐いた。
「またその話?」
「今日くらい、お前をエスコートするのが普通だろ」
アルノルトの隣には、ふわふわと癖のあるクリーム色の髪を顎のあたりで揃えた、小柄な少女がいた。
大きな蜂蜜色の瞳が印象的な、どこか小動物を思わせる可愛らしい少女だ。
クララ・フォン・リンデン。十六歳の彼女は、アンネローゼたちより二学年下の男爵令嬢だった。
「私が何を言ったところで無駄なの」
アンネローゼは二人から視線を戻し、静かに続けた。
「アルノルト様は、私を自分より下だと思っているんだもの」
フェリクスの眉間に皺が寄った。
「俺、それが一番気に入らないんだけど」
「フェリクスが怒らなくてもいいのよ?」
宥めるように言っても、彼の表情は緩まなかった。
「怒るだろ。昔から知ってるやつが、そんな扱いされてんだから」
アンネローゼは一瞬、言葉に詰まった。
昔から知っている。その一言の向こうにあるものを、聞いてはいけない気がしていた。
自分には婚約者がいる。十四歳の頃から、ずっと。
だから、いつものように笑って話を終わらせようとした。その時だった。
「アンネローゼ・フォン・シルバーベルク!」
大広間へ、よく通る男の声が響いた。
アルノルトがクララを伴い、こちらへ歩いてくる。
周囲の視線が集まる中、彼はアンネローゼの前で足を止めると、堂々と言い放った。
「私は今日限りで、お前との婚約を破棄する!」
大広間が静まり返った。
アンネローゼは眼鏡の奥でゆっくりと瞬きをし、隣のフェリクスは眉をひそめた。
「は?」
低く漏れた声に重なるように、アルノルトの傍らからも戸惑いの声が上がった。
「え?」
クララまで、大きな瞳を見開いていた。どうやら彼女も知らなかったらしい。
アンネローゼはその反応を一瞬だけ確認してから、アルノルトへ視線を戻した。
「婚約破棄、ですか?」
「そうだ」
アルノルトは胸を張った。
「私はもう耐えられない。お前のような地味で、何の取り柄もない女と結婚するなど」
「そうですか」
アンネローゼの返事は、それだけだった。
泣きもしなければ、怒りもしない。それが気に入らなかったのか、アルノルトは明らかに拍子抜けした顔をした。
「何だ、その態度は」
「婚約を解消なさりたいのでしたら、両家で正式に話し合えばよろしいと思います」
淡々とした返事に、アルノルトの口元が歪む。
「やはり可愛げがないな」
「そうでしょうか」
フェリクスの顔が少しずつ険しくなっていく。
だが、アンネローゼ自身が冷静に対応している以上、口を挟むことはしなかった。
アルノルトはその静けさを、自分が優位に立っているからだとでも思ったらしい。
「昔からそうだ。地味な格好ばかりして、社交の場へ連れて歩いても華がない。魔法だってろくに使えないだろう? 学園へ何年通っても、まともな術ひとつ見せたことがない」
アンネローゼは黙って聞いていた。
自分が地味だと言われることも、魔法が使えないと思われることも、どうでもよかった。
事実、学園で魔法を披露したことはほとんどない。
実技でもごくわずかな魔力を流すだけで、周囲に『魔法適性の低い令嬢』と思われていても、一度も訂正してこなかった。
「そもそもシルバーベルク家に価値があるとすれば、鉱山と金くらいだろう」
そこで、アンネローゼの琥珀色の瞳がわずかに細められた。
けれど、アルノルトは気づかない。
「お前の父親もそうだ。伯爵だというのに、庶民の商人みたいにあれこれ事業へ手を出して、金儲けに必死になっている」
大広間の空気が変わった。
アンネローゼは静かに顔を上げる。
「アルノルト様」
「何だ」
「今のお言葉を、撤回してください」
声を荒らげたわけではない。それでも、長年彼女を知るフェリクスには分かった。
アンネローゼは怒っている。
自分が馬鹿にされても大抵のことは受け流す彼女は、家族を侮辱されることだけは昔から許さなかった。
「何を撤回しろというんだ」
「父への侮辱です」
アルノルトは鼻で笑った。
「侮辱? 事実を言っただけだろう。伯爵ともあろう者が、商売にばかり夢中になって――」
「そうですか」
アンネローゼは一度だけ小さく息を吐き、眼鏡の奥からまっすぐアルノルトを見た。
「それでは、決闘いたしましょう」
「…………は?」
大広間のあちこちから、息を呑む音がした。
その直後、誰かが小さく呟いた。
「また……?」
戸惑うような声をきっかけに、周囲の人々が顔を見合わせる。
「三年前も卒業祝賀会だったよな」
「エーレンヴァルト嬢の件か?」
その名を聞き、近くにいた者たちもひそひそと言葉を交わし始めた。
「魔導銃で会場中の薔薇を散らしたというあれ?」
「今度は何が起こるんだ?」
ざわめきが広がる中、フェリクスは片手でこめかみを押さえた。
「アンネ……」
「なに?」
振り向いた彼女の表情を見て、フェリクスは小さく首を振った。
「いや」
止める気はなかった。むしろ、よく言ったと思っているから。
◇
ノルディア王国には、貴族同士の名誉に関する争いを決着させる正式な決闘制度が残されている。
互いの胸元に一輪の薔薇を留め、相手の薔薇を先に散らした者が勝者となる。
もちろん殺し合いではなく、武器には殺傷能力を抑えた決闘専用品が使用される。
魔法を用いる場合には、決闘者の身体や衣服、装飾品へ強力な防護魔法を施し、さらに決闘区画全体を結界で囲う。
ただし、胸元の薔薇だけは防護魔法の対象外だ。
相手を傷つけることなく、その一輪を散らすことで勝敗を決める。
今回、アルノルトが選んだのは魔法による決闘だった。
「申し込まれた側には、武器区分を選ぶ権利があります。魔法でよろしいのですね?」
立会いを務める魔術教師が確認すると、アルノルトはアンネローゼを見て嘲るように笑った。
「剣ではさすがに、お前に勝ち目がないだろう。魔法なら、お前にも多少は勝負になるかもしれないしな」
少し離れた場所で、フェリクスが静かに目を閉じた。
「あーあ……」
隣にいた友人が、不思議そうに振り返る。
「何だ?」
「いや。本人が選んだなら仕方ない」
友人は意味が分からない様子で眉を寄せた。
「だから何が?」
「もういい」
フェリクスがそれ以上の説明を諦める一方で、アンネローゼはいつもの静かな表情のまま、アルノルトへ確認した。
「本当に、魔法でよろしいのですね?」
「何度言わせる」
苛立った返事にも動じず、アンネローゼは小さく頷いた。
「承知いたしました」
それから魔術教師へ向き直る。
「先生」
「何でしょう?」
「アイゼンベルク様には、学園で使用可能な中で最も強力な防護魔法をお願いいたします」
教師が眉を寄せた。
「最も強力なものを?」
「はい。万が一、怪我をさせてしまってはいけませんので」
真剣な申し出を聞き、アルノルトは馬鹿にするように笑った。
「随分な自信だな」
フェリクスはもう何も言わなかった。ただ、心の中で思う。
――本当に何も知らないんだな。
アンネローゼは魔法が使えないのではない。
使っていないのだ。
◇
決闘は、学園の中庭で行われることになった。
卒業祝賀会の参加者たちが結界の外から見守る中、学園職員と魔術教師たちによって手際よく準備が進められていく。
アルノルトとアンネローゼの胸元には、それぞれ一輪の赤い薔薇が留められた。
二人の身体には規則どおり防護魔法が施され、さらにアルノルトにはアンネローゼの希望により、教師数名が学園内で許可される最高強度の防護を重ねていた。
「本当にここまでする必要があるのか?」
アルノルトは不満そうだったが、教師たちは念を入れて防護を確認した。
対するアンネローゼは、いつもの眼鏡をかけたまま静かに立っている。
「その眼鏡をかけたまま戦うつもりか?」
嘲るように言われ、アンネローゼは眼鏡のつるへそっと触れた。
「いいえ。始まる前に外します」
「なら、最初から外しておけばいいだろう」
アンネローゼは静かに首を振った。
「それはできません」
「なぜだ?」
怪訝そうな顔をするアルノルトへ、少しだけ困ったように笑う。
「必要なものですから」
その眼鏡には、シルバーベルク領で採掘される希少な魔導鉱石が使われている。
極めて高い魔力絶縁性を持つ特殊な鉱石で、装着している間、アンネローゼの魔力は外界とほぼ完全に遮断されるのだ。
つまり、これをかけている限り、彼女は本当に魔法をほとんど使えない。
「それでは、双方準備を」
教師の声に、アンネローゼは結界の端で見守るフェリクスへ歩み寄った。
「フェリクス、これお願い」
「はいはい」
差し出された手へ、外した眼鏡を預ける。
フェリクスは慣れた様子で受け取ると、胸ポケットへ大切そうにしまった。
アンネローゼが結界の内側へ戻る頃には、すでに彼女の周囲に変化が起こり始めていた。
琥珀色の瞳の奥に淡い光が灯り、暗い褐色だった髪へ、根元から冷たい色が走る。
やがて髪全体が淡い水色へ変わると、空気中の水分が細かな氷晶となり、彼女の周囲を舞い始めた。
月明かりを受けて煌めく、無数の氷晶。
ダイヤモンドダスト。
アンネローゼは、ただ立っているだけだった。
それなのに周囲の気温は一気に下がり、足元の芝生には白い霜が広がっていく。
観客の間から、戸惑うようなざわめきが広がる。
「な……何だ、それは」
アルノルトの顔から、先ほどまでの余裕が消えていた。
魔術教師たちも息を呑み、目の前の光景を見つめている。
「シルバーベルク嬢……君の魔力量は……」
アンネローゼは少し困ったように眉を下げた。
「ええ。ですから、普段は使わないようにしているのです」
「封じていたということですか……?」
信じられない様子の教師へ、アンネローゼは首を振った。
「はい。加減が、あまり得意ではないので」
フェリクスが小さく息を吐いた。
昔からそうだった。
幼い頃、ほんの少し池の水を凍らせようとして、水面すべてを凍結させたことがある。
庭へ雪を降らせてみたいと言って、屋敷の周辺だけ真冬のようにしてしまったこともあった。
そのたびに大量の魔力を一気に放出し、自分自身が魔力酔いを起こして倒れた。
だから眼鏡を使うようになり、それ以来、アンネローゼは魔法を封じて生きてきたのだ。
周囲の驚きなど気にした様子もなく、アンネローゼは所定の位置へ戻った。
二人が向かい合ったのを確かめ、教師が先ほどよりも緊張した声を出す。
「それでは――始め!」
アルノルトが先に動いた。
杖の先から放たれた炎の塊が、まっすぐアンネローゼへ向かう。けれど彼女は避けず、防御魔法を展開する様子さえなかった。
炎が、周囲に舞うダイヤモンドダストへ触れる。
その瞬間、燃え盛っていた炎は急速に勢いを失った。
白い霧に包まれたかと思うと、アンネローゼへ届くはるか手前で、跡形もなく消滅する。
「…………は?」
アルノルトが呆然とした。
アンネローゼ自身は、特に何かをしたわけではない。
ただ、溢れ出す氷属性の魔力によって、彼女の周囲には常に異常な低温の領域が形成されている。
並程度の炎魔法では、その領域へ踏み込むことすらできないのだ。
アンネローゼは消えた炎を見て、小さく瞬いた。
「よかった。これくらいでしたら、何もしなくても大丈夫そうですね」
そう言って、右手をアルノルトへ向ける。
「では、こちらから参ります」
次の瞬間、アルノルトの身体には何一つ触れることなく、胸元の赤い薔薇だけが一瞬で白く凍りついた。
「なっ……」
ぱきん。
澄んだ音を立てて、凍結した薔薇が砕け散る。
赤い花弁は細かな氷片となり、きらきらと光を反射しながら地面へ落ちていった。
誰も、すぐには声を出せなかった。
立会いの教師が散った薔薇を確認し、ようやく口を開く。
「勝者――アンネローゼ・フォン・シルバーベルク」
アンネローゼは腕を下ろし、安堵したように小さく息を吐いた。
「よかった……」
その声に、教師が振り返る。
「何がです?」
「ちゃんと、薔薇だけで止められました」
教師の視線が、彼女とアルノルトの間を行き来した。
「そこを心配していたんですか?」
「はい。加減ができないので、全身凍らせてしまうのではないかと心配していました」
素直に頷かれ、教師はしばらく何も言えなかった。
◇
決闘が終わっても、周囲の視線はアンネローゼへ集まったままだった。
眼鏡を外した彼女は、先ほどまでとはまるで印象が違う。
淡い水色の髪に、魔力を宿して金色に輝く琥珀の瞳。その周囲では、いまだダイヤモンドダストが舞い続けていた。
「あれが……シルバーベルク嬢?」
「綺麗……」
見惚れる者たちの傍らで、別の者たちは戸惑ったように顔を見合わせていた。
「それより、あの魔力量は何なんだ」
「どうして今まで誰も知らなかった?」
ざわめきの中、真っ先にアンネローゼへ歩み寄ったのはアルノルトだった。
「アンネローゼ」
「はい?」
振り向いた彼女を見つめ、アルノルトは取り繕うように口を開いた。
「婚約破棄の件だが……少し考え直してやってもいい」
アンネローゼが瞬く。
「なぜです?」
「なぜって……私は、君のことを誤解していた」
アルノルトの視線は、淡い水色の髪と、まだ周囲へ溢れている膨大な魔力へ向けられていた。
その様子を見て、少し離れた場所にいたクララの表情が変わった。
「アルノルト様」
「何だ」
振り向いた彼へ、クララは確かめるように問いかけた。
「私には、アンネローゼ様との婚約は、家同士が決めただけのお飾りだと仰いましたよね」
「それは――」
言い淀んだアルノルトを見つめたまま、クララは続けた。
「アンネローゼ様もあなたを必要としていないから、今日の夜会へ私が一緒に来ても何の問題もないと」
「クララ、今は――」
「私、今日ここで婚約破棄なさるなんて知りませんでした」
周囲がざわめいた。
クララはぎゅっと両手を握りしめ、震えそうになる声を押し出した。
「それに……私には、『君しかいない』と仰いましたよね」
「待て」
アルノルトが口を挟んでも、もう言葉を止めなかった。
「なのに、アンネローゼ様の本当のお姿を知った途端、婚約破棄を取り消すのですか?」
アルノルトが言葉に詰まった。
クララはその顔を見つめ、やがて小さく首を振る。
「もう結構です」
小動物のような印象の少女が、はっきりと言い切り、アルノルトから一歩離れた。
その頃には騒ぎを聞きつけ、両家の親たちも集まっていた。
シルバーベルク伯爵夫妻は、まず娘に怪我がないことを確認し、事情を聞くと揃って顔を険しくする。
「娘を侮辱したうえに、私の仕事まで随分と馬鹿にしてくれたそうだね」
シルバーベルク伯爵の声は穏やかだった。穏やかすぎて、逆に怖さが際立っていた。
一方、アイゼンベルク侯爵は深く息を吐いた。
「アルノルト」
「父上、これは――」
「黙れ。これ以上、我が家に恥をかかせるな」
侯爵は息子をぴしゃりと黙らせると、シルバーベルク夫妻へ頭を下げた。
「このたびは、愚息が大変な非礼を働き申し訳ない。婚約者としての態度に問題があることは承知していたが、結婚して責任を持てば多少は落ち着くだろうと考えていた。こちらの見通しが甘かった」
侯爵夫人も苦い顔でアンネローゼへ謝罪した。
それでもアルノルトは、まだ口を挟もうとする。
「父上! しかし、婚約については――」
「帰るぞ。今すぐだ」
有無を言わせぬ声に、それ以上は何も言えなかった。
そうしてアルノルトは、両親によってその場から連れていかれた。
騒ぎが一段落すると、クララがおずおずとアンネローゼへ近づいてきた。
「シルバーベルク様」
「はい」
アンネローゼが向き直ると、クララは緊張した面持ちで口を開いた。
「私、聞かされていたことをそのまま信じていました。貴族の婚約は家同士が決めるものだから、形だけの関係も珍しくないと……アンネローゼ様も気にしていないから大丈夫だと」
大きな蜂蜜色の瞳が伏せられた。
「知らなかったからといって、何も悪くないとは思っていません。軽率でした。本当に申し訳ありません」
アンネローゼは少し驚いたように少女を見つめ、それから柔らかく笑った。
「謝ってくれてありがとう。あなたも、今日初めて知ったのでしょう? 婚約破棄するつもりだったことを」
「はい……」
小さく頷いた少女へ、アンネローゼは穏やかに続けた。
「それなら、これから気をつければいいのよ」
クララは顔を上げ、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その場を離れていく背中を見送っていると、背後から聞き慣れた声がした。
「アンネ」
フェリクスは彼女の前まで来ると、胸ポケットから預かっていた眼鏡を取り出した。
「ほら、眼鏡。お前、そろそろ酔うだろ?」
「あ……」
完全に忘れていたらしい顔をしたアンネローゼに、フェリクスは呆れたように眉を下げた。
「やっぱり忘れてたな」
「少しだけよ」
言い訳しながら眼鏡を受け取り、アンネローゼは慣れた手つきでかけ直した。
途端に、周囲へ満ちていた魔力がすっと薄れていく。
金色に輝いていた瞳は元の琥珀色へ戻り、淡い水色だった髪も、根元からゆっくりと暗い褐色へ変わっていった。
空中を煌めいていたダイヤモンドダストも消え、そこにはいつものアンネローゼが立っていた。
フェリクスはその顔を覗き込み、今度は真面目な声で尋ねた。
「気持ち悪くないか?」
「少しだけ。でも、大丈夫よ」
案の定の答えに、フェリクスは小さく息を吐いた。
「アンネの『大丈夫』は昔から信用してないからな」
「もう、フェリクスは心配しすぎよ」
そう言って笑ったものの、魔力を抑えた反動で一気に寒さを感じたのか、アンネローゼの肩が小さく震えた。
それを見逃さなかったフェリクスは、何も言わずに自分の上着を脱ぎ、彼女の肩へかける。
「フェリクス?」
「寒いだろ? いいから着とけ」
アンネローゼは温もりの残る上着に触れ、彼を見上げた。
「でも、それじゃあ、あなたが寒くなるわ」
返そうとする手を、フェリクスが軽く押し留める。
「俺は平気。だから無理すんな」
柔らかな声だった。
昔から変わらず、自分より先にアンネローゼのことを気にしてくれる。
彼女は肩にかかった上着の端を、そっと握った。
「ありがとう……」
◇
祝賀会がようやく落ち着きを取り戻した頃、アンネローゼは一人、テラスへ出ていた。
肩にはまだフェリクスの上着を羽織り、夜の庭を眺めている。
婚約がなくなった。
十四歳の頃から、自分の未来に当然のように存在していたものが、今日突然消えたのだ。
アイゼンベルク侯爵家から縁談が届いたのは、四年前だった。
相手はシルバーベルク伯爵家より家格の高い侯爵家。
条件だけを見れば申し分なく、むしろこちらから断る理由を見つける方が難しい縁談だった。
だからアンネローゼは、それを受け入れた。
家同士で決められた婚約なのだから、それでいいと思っていた。
たとえ、その時すでに心の中に別の人がいたとしても。
ずっと前から、アンネローゼの心にはフェリクスがいた。
七歳の頃にはもう、彼が特別な存在になっていたのだ。
隣の領地から遊びに来る黒髪の少年を待つ時間が好きだった。
一緒に本を読むことも、庭を歩くことも、ただ隣にいることさえ楽しかった。
魔力を暴走させて泣いた時には、何も言わずそばに座っていてくれた。
眼鏡をかけ始めた日には、ひどく不思議そうな顔をされたものだ。
『それ、見えにくくないの?』
『度は入ってないわ』
アンネローゼが答えると、フェリクスはますます不思議そうに眉を寄せた。
『じゃあ眼鏡じゃないだろ』
『眼鏡の形をしてるもの』
彼はしばらくその顔を眺めていたが、やがて納得したような、していないような顔で頷いた。
『まあいいけど』
そんなくだらない会話まで、今でも覚えている。
十四歳の頃には、フェリクスも何か言いたそうにしていた気がする。
けれど、その少し前にアイゼンベルク家との婚約が決まり、アンネローゼも彼も、結局何も口にはしなかった。
それから四年。
同じ学園へ通い、今までと変わらず友人として、幼なじみとして隣にいながら、互いの胸にあるものだけは見ないふりをしてきた。
恋をしていることなど、まるで最初からなかったかのように。
「ここにいたのか」
不意に背後から聞き慣れた声がして、アンネローゼは振り返った。
「フェリクス」
テラスへ出てきた彼は、そのままそばまで来ると、まず顔色を確かめるように覗き込んだ。
「体調は大丈夫か? 気分は悪くなってない?」
「もう平気よ」
それでもフェリクスは、まだ疑わしそうに彼女を見ていた。
「本当か?」
念を押すように尋ねられ、アンネローゼは思わず笑った。
「本当よ。そんなに信用ない?」
「魔力使った後のお前に関してはない」
きっぱりと言われ、アンネローゼは少し頬を膨らませた。
「ひどい」
フェリクスは彼女の隣へ立つと、同じように夜の庭へ視線を向けた。
しばらく二人とも何も言わなかったが、その沈黙を気まずいと思ったことは、昔から一度もない。
アンネローゼは肩にかけた上着へそっと触れ、隣の彼を見上げた。
「これ、ありがとう」
「外は冷えるだろ? まだ着てていいよ」
遠慮して上着の端を持ち上げたものの、フェリクスは受け取ろうとしなかった。
「でも、フェリクスが寒いでしょう?」
彼は先ほどと同じ調子で笑い、軽く首を振った。
「俺は大丈夫。いいから、そのまま着てろって」
「うん……」
素直に頷くと、フェリクスは安心したように庭へ視線を戻した。
いつもなら、このまま他愛のない話が始まる。
卒業後の王宮での仕事や、シルバーベルク家で父が始めた新しい事業。それぞれが明日から歩き始める道について、きっといくらでも話せただろう。
けれど今夜のフェリクスは、なかなか口を開かなかった。
珍しく言葉を選んでいるような横顔に気づき、アンネローゼは首を傾げる。
「フェリクス?」
呼びかけると、彼はようやくこちらを向いた。
「アンネ。ちょっと、真面目な話していい?」
いつもの気安い笑顔とは違った。濃い緑色の瞳にまっすぐ見つめられ、アンネローゼも自然と姿勢を正す。
「うん」
フェリクスは一度息を吐き、少し迷うような間を置いてから口を開いた。
「本当は、今日言うのは卑怯だと思ってる」
「何のこと?」
アンネローゼが尋ねると、彼は困ったように笑った。
「お前、婚約破棄されたばっかりだろ。だから本当なら、少し時間を置いたほうがいいんだと思う」
そこで一度言葉を切り、眉を下げる。
「でもさ。たぶん明日から、お前に縁談が山ほど来るはずだ」
「どうして?」
思わず聞き返すと、フェリクスは呆れたようにアンネローゼを見た。
「どうしてって……今日まで地味で魔法も使えないと思われてた伯爵令嬢が、実はあれだけの魔力持ってました、だぞ?」
「そうかしら」
今ひとつ実感のなさそうな返事に、フェリクスはさらに続けた。
「しかもシルバーベルク家は金持ってるし、お前は次期当主だし」
「お父様が聞いたら、金持ちって言い方は少し嫌がるかもしれないわね」
「そこじゃないって」
思わず二人で笑った。
けれどフェリクスはすぐに真面目な顔へ戻り、アンネローゼとの距離を一歩だけ縮めた。
「だから、その前に言わせて」
胸の奥で、心臓が大きく鳴った。
四年前、十四歳の頃に聞きたくて、でも聞けなかった言葉が、今度こそ来るような気がした。
フェリクスが緊張した顔で笑う。
「俺にしとかない?」
アンネローゼは、しばらく何も言えなかった。
その沈黙をどう受け取ったのか、フェリクスが慌てて続ける。
「いや、今すぐ返事をくれって意味じゃないからな。婚約破棄された直後につけ込むみたいなのは嫌だし。ただ……他の縁談が来る前に、俺も候補に入れてほしくて――」
「候補じゃない」
アンネローゼの言葉に、フェリクスがぴたりと止まった。
「え……?」
その顔を見ているうちに、アンネローゼは自然と笑っていた。
四年間、口にできなかった。けれど本当は、それよりもっとずっと前から胸の中にあった気持ちだ。
もう、隠しておく理由はない。
「私、本当は、ずっとフェリクスがよかったの」
フェリクスの濃い緑色の瞳が、大きく見開かれた。
しばらく何も言わずにアンネローゼを見つめていたが、やがて信じられないことを聞いたように口を開く。
「いつから……?」
少しだけ考えてから、アンネローゼは柔らかく笑った。
「七歳くらいから」
今度こそ、フェリクスは完全に言葉を失った。
「フェリクス?」
名前を呼ばれ、ようやく我に返ったように瞬きをする。それから小さく息を吐き、彼女を見つめた。
「俺も。……同じくらいから、ずっとアンネが好きだった」
今度はアンネローゼが黙る番だった。
互いに何も言えないまま見つめ合っていたが、やがてフェリクスが、耐えきれなくなったように両手で顔を覆った。
「俺たち、何してたんだろうな……」
アンネローゼは思わず笑った。
「仕方がなかったのよ。婚約してたし」
「その前だよ」
フェリクスは顔を上げた。
「十四の時、俺が先に言っとけばよかった」
「私だって言えなかったもの」
アンネローゼが困ったように笑うと、彼は名残惜しそうに呟いた。
「言ってくれればよかったのに」
「フェリクスこそ」
すぐに返され、フェリクスは苦笑した。
「それもそうだな」
どちらからともなく、また笑った。
十一年間好きだった。そのうち四年間は、互いに何も言えなかった。
けれど、もう黙っている理由はない。
フェリクスがゆっくりと手を伸ばし、アンネローゼの指先へ触れる直前で止めた。
「手、繋いでいい?」
それがあまりにもフェリクスらしくて、アンネローゼはまた笑った。
「うん」
重なった手は、昔から何度も触れてきたはずなのに、初めて触れたように少しだけ緊張した。
フェリクスはその手を優しく握り、それでもまだ少し不安そうに彼女を見た。
「じゃあ……明日から縁談が山ほど来ても、心配する必要はないってことでいい?」
アンネローゼは迷わず頷いた。
「もちろん。全部お断りするわ」
「よかった……」
心底ほっとしたように息を吐く姿がおかしくて、アンネローゼは繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「でも、フェリクス。私、シルバーベルク家を継ぐわよ?」
「知ってるよ」
当然のような返事にも、アンネローゼは念を押した。
「卒業したらお父様の仕事も本格的に手伝うし、きっと忙しくなると思う」
フェリクスは、何でもないことのように肩をすくめた。
「俺も王宮で働くし。お互い忙しくなるな」
それだけだった。
自分の道を変えてほしいとも、仕事を諦めてほしいとも言わない。
ただ当然のように、アンネローゼが選んだ未来ごと受け入れている。
昔から、フェリクスはそういう人だった。だからきっと、こんなにも長い間好きだったのだ。
アンネローゼは肩にかかった彼の上着をそっと握り、それからもう一度、隣にいる幼なじみを見上げた。
「やっぱり私、ずっとフェリクスがよかった」
フェリクスの顔がわずかに赤くなる。
「それ、今言われると結構くるからやめて」
「どうして?」
アンネローゼが首を傾げると、彼は困ったように眉を下げた。
「俺、十一年分我慢してたんだけど」
「私もよ?」
迷いなく返され、フェリクスは一瞬言葉を失ってから笑った。
「そうだったな……」
夜のテラスへ、二人の笑い声が小さく溶けていった。
三年前、この卒業祝賀会で婚約を破棄された一人の侯爵令嬢は、決闘をきっかけに自分の才能と新しい未来を選び取った。
そして今夜、同じ場所で婚約を破棄された一人の伯爵令嬢もまた、隠していた力を解放し、家族の名誉を守り、四年間足を止めていた初恋をようやく前へ進めた。
眼鏡の奥で、琥珀色の瞳が柔らかく細められる。
明日から始まる未来は、もう誰かに決められたものではなかった。




