第一戦 婚約破棄ですか? でしたら決闘いたしましょう
初期の頃に勢いだけで書き上げた
『ノルディア王国決闘令嬢シリーズ』を、加筆修正してオムニバス形式にまとめました。
十人それぞれの華麗なる決闘譚を、お楽しみいただけましたら幸いです。
ノルディア王立学園の卒業祝賀会。
十八歳を迎え、晴れて成人となった卒業生たちを祝う大広間には、色とりどりの花が飾られ、軽やかな音楽と楽しげな笑い声が満ちていた。
この夜が明ければ、それぞれが貴族社会や軍、官僚機関など、自らに定められた道へ進んでいく。
ルチア・フォン・エーレンヴァルトも、その一人だった。
ふわふわと柔らかく波打つ金色の髪に、大きなエメラルドグリーンの瞳。
小柄で華奢な身体を淡い水色のドレスに包んだ彼女は、学園では知らぬ者のない侯爵令嬢である。
成績優秀、品行方正。礼儀作法にも隙がなく、誰に対しても穏やかで物腰が柔らかい。
教師からも生徒からも『理想の淑女』と評されるルチアは、今夜も友人たちと言葉を交わしながら、いつもと変わらぬ可憐な笑みを浮かべていた。
その穏やかな祝賀会の空気を、一人の青年の声が切り裂いた。
「ルチア・フォン・エーレンヴァルト。僕は君との婚約を破棄する!」
楽しげな話し声が途絶え、演奏までもが止まった。
突然訪れた静寂の中、名を呼ばれたルチアは大きな瞳をぱちりと瞬かせる。
目の前に立っているのは、婚約者のコンラート・フォン・ハルデンベルク。
公爵家の次男であり、卒業後はルチアと結婚し、エーレンヴァルト侯爵家へ婿入りする予定だった青年だ。
その傍らには、桃色の髪と瞳を持つ少女が寄り添っていた。男爵令嬢、マリー・フォン・ベルナーである。
「僕はマリーと真実の愛を見つけたんだ」
コンラートが堂々と言い切ると、マリーも胸元で両手を握りしめ、潤んだ瞳をルチアへ向けた。
「ルチア様……申し訳ありません。でも、私たち、本当に愛し合っているんです……」
「まあ」
ルチアは小さく声を漏らし、マリーを見つめてからコンラートへ視線を戻した。
驚きこそしたものの、怒りも悲しみも湧いてこない。
そもそもコンラートとの婚約は、幼い頃に家同士で決められたものだった。
互いに婚約者として相応の礼儀は守ってきたし、将来夫婦になることも当然のものとして受け入れていた。
けれど、恋をしていたかと問われれば違う。
彼が心から愛する女性を見つけたのなら、無理に婚約を続ける必要もないだろう。
「そうでしたの。コンラート様がマリー様と真実の愛を見つけられたのでしたら、お二人でお幸せになればよろしいと思いますわ」
ルチアは丁寧にドレスの裾を摘み、一礼した。
「え?」
今度はマリーが瞬いた。隣のコンラートも、明らかに拍子抜けした顔をしている。
どうやら泣き崩れるか、怒り出すか、少なくとも何らかの修羅場になることを想像していたらしい。
ルチアとしては、婚約を解消したいというのなら、それで構わなかった。
本来なら、そこで話は終わるはずだったのだ。
コンラートが、余計な一言を口にしなければ。
「やはり、君は冷たいな」
「はい?」
ルチアが顔を上げると、コンラートは不満を吐き出すように続けた。
「昔からそうだった。成績も礼儀作法も完璧で、何をやらせてもそつがない。けれど、君には面白みがないんだ」
先ほどとは違う意味で、大広間の空気が冷えていく。
それに気づいていないのか、コンラートはルチアを見据えたまま言葉を重ねた。
「僕を愛していたことだって、一度もないだろう? マリーは違う。僕自身を必要としてくれる。
君のように、侯爵家に迎える婿として僕を見ているだけの女性とは違うんだ」
ルチアの笑顔は消えなかった。ただ、大きなエメラルドグリーンの瞳が、ほんの少し細められる。
「コンラート様」
「何だ」
不機嫌そうな返事にも声を荒らげることなく、ルチアは静かに一歩前へ出た。
「婚約の解消については、確かに承りました。ですが、今のお言葉は、私個人だけでなくエーレンヴァルト侯爵家そのものへの侮辱と受け取ってよろしいのですね?」
「事実を言ったまでだ」
「そうですか」
誰もが可憐だと評する笑顔を浮かべたまま、ルチアは言った。
「でしたら、決闘いたしましょう」
「…………は?」
大広間のあちこちから、小さく息を呑む音が聞こえた。
その様子を少し離れた場所から見ていた男も、わずかに眉を上げる。
灰色の髪に、切れ長のアイスブルーの瞳。
軍服を身に纏った長身の男は、ジェラルド・ルッツ。二十九歳の若さで少佐の階級にあり、ノルディア王国軍第一狙撃隊に所属している。
魔導銃を含む銃器運用の専門家として軍から学園へ出向し、数年間にわたって特別教官を務めてきた彼は、この卒業祝賀会を最後に教官としての任を終え、明日には第一狙撃隊へ戻る予定だった。
そのジェラルドが、そっと天井を仰いだ。
「エーレンヴァルト嬢……」
嫌な予感しかしない。
だが、ざわめき始めた周囲など気にも留めず、ルチアはコンラートをまっすぐに見つめていた。
「決闘……だと?」
「はい。公衆の面前で私と我が家を侮辱されたのですから、正式に名誉を回復する機会をいただきたいと思います」
ノルディア王国には、貴族同士の名誉に関する争いを決着させるための正式な決闘制度が残されている。
互いの胸元に一輪の薔薇を留め、相手の薔薇を先に散らした者が勝者となる。
剣であれば刃引きされた決闘剣を、銃であれば人体を傷つけない専用の弾丸を使用するため、命を奪い合うものではない。
王立学園でも、生徒同士の決闘に備え、専用の武器や防護設備が常時管理されている。
教師や特別教官の一部には裁定の資格も与えられており、学園行事の最中であっても、条件が整えば正式な決闘として成立する。
ジェラルドも、その資格を持つ一人だった。
ルチアは戸惑うコンラートへ、穏やかに選択を促した。
「申し込まれた側には武器を選ぶ権利がありますわ。剣でも銃でも、コンラート様のお得意なほうをどうぞ」
「なら、魔導銃だ」
その瞬間、ジェラルドは静かに目を閉じた。
「あーあ……」
思わず漏れた声に、隣にいた教師が振り向く。
「ルッツ少佐?」
「いえ。何でもありません」
何でもないわけがなかった。言いたいことは、それこそ山ほどある。
ジェラルドは小さく息を吐くと、人垣を抜けて二人のもとへ向かった。
「魔導銃による正式決闘ですね。でしたら、私が立ち会います」
聞き慣れた声に、ルチアが顔を上げた。
「先生」
「こんばんは、エーレンヴァルト嬢。まずは卒業おめでとうございます」
ジェラルドが足を止めると、ルチアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、先生」
今する挨拶ではない気もするが、二人とも至って真面目だった。
その様子に苛立ったのか、コンラートが口を挟む。
「ルッツ先生なら、彼女を止めるべきでは?」
「なぜです?」
不思議そうに問い返され、コンラートは声を大きくした。
「令嬢が決闘など!」
「エーレンヴァルト嬢の申し出は、規則上何も問題ありませんよ」
ジェラルドは淡々と答えると、少し考えるようにコンラートを見た。
「ただまあ……教師として一つ助言するのであれば、今ここで謝罪して終わらせることをお勧めします」
「なぜだ!」
食ってかかられたジェラルドは、困ったように眉を下げた。
「親切で言ってるんですけどね」
コンラートには、その意味が分からないらしい。一方、ルチアは何も言わず、にこにことしている。
ジェラルドはその可憐な顔へ視線を移した。
「本当にやるんですね?」
「もちろんですわ」
迷いのない返事に、ジェラルドは小さく頷いた。
「そうですか」
それ以上は止めなかった。
◇
決闘は、学園の中庭で行われることになった。
卒業祝賀会の参加者たちが遠巻きに見守る中、学園職員によって決闘用の薔薇や魔導銃が運び込まれ、手際よく準備が進められていく。
ルチアとコンラートの胸元に、それぞれ一輪の赤い薔薇が留められると、ジェラルドは二丁の魔導銃を確認し、非殺傷用の魔導弾が装填されていることを双方へ示した。
「人体に命中しても傷は負いません。ただし、胸元の薔薇を完全に散らされた時点で敗北となります。異論は?」
「ない」
コンラートが短く答えると、ルチアも落ち着いた様子で頷いた。
「ありませんわ」
二人はそれぞれ銃を受け取り、所定の位置へ向かった。
コンラートは緊張した面持ちで銃を握っているが、ルチアの様子は普段とほとんど変わらない。
その姿を見ながら、ジェラルドは数年前の授業を思い出していた。
初めて魔導銃を握った十五歳の侯爵令嬢が、何の迷いもなく的の中心を撃ち抜いた日のことを。
一発目は、的の中心。二発目も、寸分違わず同じ場所だった。
距離を伸ばしても、銃を替えても、出力を上げても、その正確さは変わらなかった。
『エーレンヴァルト嬢。本当に初めてなんですよね?』
『はい、先生』
あまりにも素直に答えられ、ジェラルドは手元の記録へ目を落とした。
『マジかよ……』
『先生?』
不思議そうに呼ばれ、慌てて顔を上げる。
『失礼。何でもありません』
周囲の生徒たちは、彼の動揺など知る由もなく、感心したようにルチアを見ていた。
『ルチア様は銃もお上手なのね』
それも仕方がない。彼女は筆記も魔術理論も礼儀作法も、何でも優秀なのだから、射撃まで優れていても、皆はいつものように感心するだけで済んでしまう。
だが、ジェラルドには分かっていた。これは、そういう次元の話ではないということが。
「――それでは」
目の前のルチアへ意識を戻し、ジェラルドは片手を上げた。
「始め」
合図と同時に、コンラートが素早く銃を構えた。
引き金が引かれ、魔導弾が淡い光を引いて飛ぶ。
弾はルチアの肩口へ命中したものの、光となって弾けるだけで、身体にもドレスにも傷一つ残さなかった。
胸元の薔薇も無傷である。
ルチアはそこへちらりと視線を落とした。
「あら」
それだけ言って、魔導銃を持ち上げる。
構えに迷いはなく、狙いを定めるために長く時間を取ることさえなかった。
一発。
乾いた発射音と同時に光が走り、コンラートの胸元で赤い薔薇が鮮やかに弾けた。
花弁が夜風に舞い、芝生へと落ちていく。その光景を、誰もが声もなく見つめていた。
コンラートは何が起きたのか理解できないように、自分の胸元を見下ろしている。
ジェラルドは散った薔薇を確認し、静寂を破った。
「勝者、ルチア・フォン・エーレンヴァルト」
「そんな……」
呆然とするコンラートへ、ルチアは銃口を下げながら微笑んだ。
「これで決着ですわね」
「イカサマだ!」
突然の叫びに、見物していた人々がざわめいた。コンラートは顔を真っ赤にして、ルチアを指差す。
「一発で薔薇を散らすなんてあり得ない! 銃か薔薇に、何か細工をしたんだろう!」
ルチアは責められたというのに怒りもせず、大きな瞳をぱちりと瞬かせた。
「あら? そう思われますの?」
「当然だ!」
即座に言い返され、ルチアは少し困ったように周囲を見回した。
「では……」
その視線が、開け放たれた大広間の扉の向こうで止まった。
卒業を祝う会場には、色とりどりの花が飾られていた。赤や白、黄色の薔薇が、百合や小花とともに、いくつもの大きな花瓶へ活けられている。
ルチアのエメラルドグリーンの瞳が、ぱっと輝いた。その顔を見た瞬間、ジェラルドの眉が寄る。
「エーレンヴァルト嬢?」
「先生、もう一丁、お借りしてもよろしいですか?」
あまりに楽しげな声に、ジェラルドは警戒を隠さず尋ねた。
「何をするつもりです?」
ルチアは大広間を指した。
「せっかく薔薇がいっぱいありますので」
そう言って、にっこりと可憐に微笑む。
「二丁でお見せしますね」
「ちょっと待ってください」
止めるより早く、ルチアは武器台に置かれていた予備の決闘用魔導銃を手に取った。
ふわふわの金髪に、淡い水色のドレス。
その可憐な姿には似つかわしくない銃を両手に一丁ずつ握り、何の躊躇もなく持ち上げる。
ジェラルドは思わずこめかみを押さえた。
「エーレンヴァルト嬢。二丁射撃なんて授業で教えてませんよね」
「はい。習っていませんわね」
当然のように頷かれ、ジェラルドは念のために確かめた。
「経験は?」
「ありませんわ。でも、できそうな気がするんです」
あっさりと返ってきた答えに、思わず天を仰ぐ。
「マジか……」
「先生?」
不思議そうに首を傾げたルチアへ、ジェラルドは半ば諦めたように手を振った。
「いえ。もういいです。どうぞ」
その直後、左右の銃口から立て続けに光が走った。
一輪、二輪、三輪――そして四輪。
大広間の花瓶に活けられた薔薇が、次々と花弁を散らしていく。
赤い薔薇が舞い、続いて白、さらに黄色へと狙いが移った。
隣に咲く百合には一発も触れない。小さな花も、葉も、花瓶そのものさえ無傷だった。
右へ一発、左へ一発。間を置かず、再び右へ。
射線が切り替わるたびに、正確に薔薇だけが散っていく。
最後に、ルチアは左右の魔導銃を別々の方向へ向けた。
二つの発射音がほぼ同時に響き、狙いを定めた赤と白の薔薇が、一斉に花弁を舞わせる。
銃声が消えたあとも、誰一人として声を上げられなかった。
ルチアは両手の銃をゆっくりと下ろし、コンラートへ向き直った。
その顔には、いつもの穏やかな笑顔が浮かんでいる。
「これで、細工などなくてもできるとご理解いただけましたか?」
コンラートは何も言えなかった。マリーも青ざめた顔で、散り積もった薔薇の花弁を見つめている。
ジェラルドはしばらく花瓶を確認していたが、やがて長く息を吐いた。
「エーレンヴァルト嬢。二丁射撃は、本当に初めてなんですよね?」
「はい。意外とできましたわ」
弾んだ声で答えるルチアを振り返り、ジェラルドは眉間を押さえた。
「そういう問題じゃないんですよ」
「でも、最後に撃った赤い薔薇は、少し右へ寄ってしまいましたわ」
ルチアが指し示した薔薇は、ほぼ中央を撃ち抜かれていた。
ジェラルドはしばらくそれを見つめ、深く息を吐く。
「君の『少し』は、今後一切信用しないことにします」
ルチアは楽しそうに笑った。
その後、コンラートは決闘の結果を正式に受け入れ、ルチアへの侮辱についても謝罪することになった。婚約については両家で改めて話し合われ、正式に解消されることとなる。
マリーとともにその場をあとにする彼を、ルチアは特に引き留めなかった。
もう、彼女の関心はそこにはなかった。
◇
祝賀会がようやく落ち着きを取り戻した頃、ルチアは一人、テラスへ出て夜風に当たっていた。
コンラートとの婚約は、解消されることになった。
卒業すれば彼と結婚し、侯爵家を支えていく。そうして思い描いていた未来が、一夜にしてなくなったというのに、不思議と心は沈んでいなかった。
むしろ、胸の中に今までなかった余白ができたような感覚がある。
決められていた未来がなくなった代わりに、その場所へ何を置くのかを、これからは自分で選べるのだ。
「こんなところにいたんですか」
背後から聞こえた声に振り返ると、ジェラルドがテラスへ出てくるところだった。
「先生」
「今日でその呼び方も最後ですね」
歩み寄ってくる彼を見上げ、ルチアは小さく頷いた。
「そうでしたわね」
ジェラルドは今日をもって学園への出向を終え、明日から第一狙撃隊へ戻る。
ルチアも、もう生徒ではない。
そう考えると、少しだけ胸の奥が落ち着かなくなった。
「しかし……本当に、射撃部を引退してから一度も撃ってなかったんですか?」
「ええ。一度も触っていませんわ」
ルチアが答えると、ジェラルドはまだ納得がいかない様子で重ねて尋ねた。
「それで、二丁撃ちを初めてやって、あれですか?」
「はい。意外とやればできましたわね」
ジェラルドは手すりへ視線を落とし、そのまま黙り込んでしまった。ルチアは不思議に思い、彼の顔を覗き込む。
「先生?」
「ちょっと放っておいてください。軍人として自信をなくしてるところなので」
思わず笑ったルチアにつられ、ジェラルドも呆れたように口元を緩めた。
こうして先生と他愛のない話をする時間を、ルチアはずっと好きだった。
その気持ちを初めて自覚した日のことも、今でもはっきり覚えている。射撃部に入って、間もない頃のことだ。
魔導銃を撃つことが楽しくて仕方なく、夢中になって練習を続けた結果、部活動が終わる頃には引き金を引いていた指が赤く擦れてしまっていた。
その程度なら放っておけば治ると思っていたのに、ジェラルドはすぐに気づいた。
『エーレンヴァルト嬢。手を見せてください』
『これくらい平気ですわ』
ルチアが手を引っ込めようとすると、ジェラルドはその前へ大きな手のひらを差し出した。
『平気かどうかは、見てから決めます』
有無を言わせない口調に、おずおずと手を差し出す。
すると、赤くなった指を、大きな手がそっと支えた。
『ほら。いきなり一気に撃つからこうなるんですよ。明日、ペンが持てなくなったら困るでしょう』
呆れた口調だったのに、傷を確かめる指先は驚くほど丁寧だった。ルチアはその手元を見つめながら、小さく答えた。
『楽しかったものですから……』
『楽しくても加減してください。あと十発、を何回繰り返したんですか』
問われて練習の終わり際を思い返し、少し首を傾げる。
『三回くらいでしょうか』
『四回です』
間髪を入れずに訂正され、ルチアは口をつぐんだ。
小さな保護布を巻き終えたジェラルドは、何事もなかったように手を離した。
彼にとっては、教師として当たり前のことだったのだろう。
けれど、ルチアはその日の帰りの馬車で、何度も指先を見ていた。
触れた手が、とても優しかった。
コンラートも婚約者としてルチアの手を取ることはあったし、舞踏会ではエスコートもしてくれる。
けれど、形式どおりに差し出される手と、怪我を確かめるために丁寧に触れたジェラルドの手は、なぜかまるで違って感じられたのだ。
それからは、彼の何気ない振る舞いにも目が向くようになった。
射撃場へ向かう時にはルチアの歩幅に合わせて少しゆっくり歩き、重い銃器ケースは自然に持ってくれる。
寒い日には、指先が冷えていないか気にかけてくれた。
射撃を見ても、ただ漠然と褒めるだけで終わらせることはない。
『前より構えが速くなりましたね』
自分ではまだ手応えの薄かった変化にも気づき、次の練習では直そうと努めていた癖を見つけてくれる。
『右へ流れる癖、直しました?』
結果だけでなく、そこへ至るまでの努力を見てくれていることが嬉しかった。
本人はどれ一つ、特別なことをしているつもりなどなかったのだろう。
ルチアも、そうした優しさに心を動かされていることは伝えなかった。
自分には婚約者がいる。卒業すればコンラートを婿に迎え、エーレンヴァルト侯爵家を支えていくのだ。
先生への気持ちは、自分の胸の中だけにしまっておけばいい。ずっと、そう思っていた。
今日までは。
「エーレンヴァルト嬢?」
呼ばれて我に返ると、ジェラルドがこちらを見ていた。
「どうしました?」
「いいえ」
ルチアは微笑んで首を振り、夜空を見上げた。胸の中が、不思議なくらい軽い。
「先生。私、これからは好きなことをしてみようと思いますの」
ジェラルドは少しだけ目を見開いたあと、穏やかに頷いた。
「いいんじゃないですか」
その返事に背中を押され、ルチアは彼へ視線を戻した。
「魔導銃を、もっと本格的に学んでみたいです」
その言葉に、今度こそジェラルドの表情が真剣なものになった。
「軍人になるということですか?」
「ええ」
ルチアが頷くと、彼は改めてこちらへ向き直った。
「侯爵家のこともあるでしょうし、簡単な話じゃありませんよ。それに、軍は学園の射撃部とは違います」
「もちろん、承知しておりますわ」
穏やかな返事にも、ジェラルドは表情を緩めなかった。
「才能があるだけで務まる場所でもありません」
「それも分かっています」
ルチアが迷いなく答えると、ジェラルドはしばらくその顔を見つめていた。
やがて、決意が変わらないと悟ったように小さく笑う。
「まあ……適性については、私が保証しますけどね」
ルチアの瞳が輝いた。
「先生。私、魔導銃の才能があるんですよね?」
「あります。専門家の俺が自信をなくすくらいには」
その言葉を確かめるように小さく頷き、ルチアは一歩、ジェラルドとの距離を縮めた。
十一歳年上の、ずっと先生だった人。けれど、明日からはもう違う。
「でしたら」
ルチアは彼を見上げ、にっこりと笑った。
「いつか、先生の隣に立つこともできますか?」
ジェラルドがわずかに目を細めた。
「簡単な道ではありませんよ」
「承知しております」
即答したルチアを見つめ、ジェラルドは念を押すように告げた。
「第一狙撃隊を目指すつもりなら、容赦なく鍛えますよ」
「望むところですわ」
少しも怯む様子のないルチアに、彼は口元を緩めた。
「随分、自信がありますね」
「ええ」
ルチアは頷き、胸の前で両手を重ねた。
その姿だけを見れば、卒業祝賀会で婚約者へ決闘を申し込み、二丁の魔導銃で薔薇を撃ち散らした令嬢とは、とても思えない。
誰もが可憐だと評する笑顔のまま、ルチアは言った。
「私、狙い撃ちは得意ですから。狙った的は逃しませんわ」
「それは、よく知ってますけど」
苦笑するジェラルドを見上げ、ルチアは密かに胸を弾ませた。
どうやら、まだ何も分かっていないらしい。これから彼女が目指すのは、第一狙撃隊だけではない。
まずは先生と同じ第一狙撃隊へ入り、軍人として隣に立てるところまで追いつこう。
ジェラルド自身が、ルチアにはその適性があると認めてくれた。あとは努力して、そこへ辿り着けばいい。
その先のことは、ゆっくり考えればいい。
今まで胸の奥へしまっていた想いも、これからは諦める必要などないのだから。
そしてルチアは、一度決めた目標へ向かって努力を重ねることには慣れていた。
なにより――狙ったものを外さないことには、自信がある。
ジェラルドはまだ知らない。
すでに自分が、ルチアの射線の先にいることを。




