第三幕 名前をつけない村 第10話「声」
「待ってください」
ヨーナの声は、自分でも驚くほど、震えていた。
長老会の全員が、彼女を見た。羊飼いの男も、書記の男も、ヨーナがこれまで、こういう場でほとんど発言してこなかったことを知っていた。だからこそ、その一言は、思いのほか強く場に響いた。
ヨーナは、懐から、祖父の帳面を取り出し、机の上に置いた。
「村の記録には、書かれていないことがあります」
彼女は、ページを開いた。手が、わずかに震えていた。
「これは、私の祖父が遺した帳面です。六十余年前、あの裁きの場に、祖父もいました」
ヨーナは、声を絞り出しながら、読み上げ始めた。
『女は、こう聞き返した。あなたは、自分が魔女ではないことを、どうやって証明するのですか、と。』
『広場が静まり返った。誰も、答えられなかった。』
部屋の中が、しんと静まった。
『私は、間違っていないと思った。だが、声にはしなかった。隣にいた男に、黙れと言われた。私は、黙った。』
ヨーナは、最後の一文まで、読み切った。
『あの日、黙ったことだけは、今も覚えている。』
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、書記の男が、低い声で言った。
「それは、一個人の記録だろう。感想に過ぎない」
「公式の記録と、どちらを信じろと言うんだ」
羊飼いの男も、続けた。
ヨーナは、負けじと言い返した。
「公式の記録には、結果しか残っていません。この帳面には、その結果に至るまでの、人の言葉が残っています」
「それに、エレナとミラは、別人だ」誰かが言った。「今回は、今回のことだ」
その通りだった。ヨーナにも、それを完全に否定する材料はなかった。
だが、ヨーナは、なおも続けた。
「今回のことだと、私も思います。ミラが本当のところ、何者なのかも、私には分かりません。魔女でないと、証明することもできません」
部屋の中の何人かが、顔を見合わせた。
「ただ、一つだけ言えることがあります。六十余年前、この村は、証明できないことを理由に、一人の女性を裁きました。そのことを、この記録は、私たちに教えてくれています」
誰も、すぐには答えなかった。
議論が、それで終わったわけではなかった。羊飼いの男は、なおも「調査は続けるべきだ」と主張した。書記の男も、公式記録の重みを、簡単には手放さなかった。
だが、部屋の空気は、それまでとは、確かに違っていた。
何人かの表情に、迷いが浮かんでいた。
六十余年前、あの広場には、「今の……間違ってはいないよな」という声があった。だが、その声は、隣にいた男に、たった一言で黙らされた。
今、この部屋にも、反対する声があった。
だが今度は、その声は、消されなかった。
まだ、村は変わっていない。何一つ、決まってはいない。
それでも――六十余年前には、たった一言で消された声が、今度は、この部屋に残っていた。
第10話 完




