【第一巻】 第七章「敵の言葉」
裁定戦の翌日。
暁嶺学院は勝利の余韻に包まれていた。朝の校舎で、すれ違う生徒たちが凛に声をかけてくる。「裁定戦、お疲れさま」「聖樹館に勝ったんだってね、すごい」「凛先輩、かっこよかった」──風紀部隊の戦果は学院全体の評判に直結する。特に聖樹館を相手に全員無傷で勝利したという事実は、暁嶺の士気を大きく押し上げていた。
凛は曖昧に頷きながら廊下を歩いた。注目されるのは苦手だった。
「凛ちゃん凛ちゃん、人気者じゃん」
千歳が横に並んで、にやにやしながら言った。
「うるさい」
「ほらまた仏頂面。せっかく勝ったんだから、もうちょっと笑いなよ」
「笑う理由がない」
「あるでしょ。みんな元気で帰ってきたじゃん。それだけで十分笑えるでしょ」
凛は千歳を見た。千歳はいつものように笑っている。だが昨日のバスの中で見せた「嘘のない顔」を、凛は忘れていなかった。
「──ああ。そうだな」
教室に入ると、瑠衣が窓際の席で足を組んで座っていた。
「おう、英雄様のお出ましだ」
「やめろ」
「昨日のあと、氷室総隊長から連絡があった。裁定戦の結果報告と、管轄エリアの境界調整の打ち合わせが今週中にあるらしい。凛も出席しろって」
凛は席に着いた。管轄エリアの調整──裁定戦の勝者が敗者の領域の一部を獲得する。暁嶺の朝凪エリアが少し広がることになる。
だが凛の頭にあるのは、そんなことではなかった。
「結月からの連絡は」
「通信ログの解析、まだ進行中だと。今日の放課後に中間報告するって」
通信ログ。裁定戦中に検出された第三者の通信。聖樹館の暗号体系とは異なる、正体不明の信号。
そして──紫苑の言葉。
「裁定戦が終わったら、話しましょう」
凛はスマートフォンを取り出した。連絡先の一覧をスクロールする。当然だが、白百合紫苑の連絡先など持っていない。敵校の精鋭部隊の隊長と個人的に連絡を取る手段は──
「凛ちゃん、もしかして紫苑に連絡取ろうとしてる?」
千歳が凛の手元を覗き込んだ。凛はスマートフォンを伏せた。
「……別に」
「嘘。顔に書いてある」千歳が笑った。「大丈夫。あたしが手配するよ」
「手配?」
「聖樹館にもあたしの知り合いがいるの。去年の合同演習で一緒になった子。その子経由で紫苑に連絡つけられると思う」
凛は千歳を見た。
「──助かる」
「えへへ。秘書的なことは得意だからね、あたし」
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その日の夕方。
鳴神区中央、常磐エリアと朝凪エリアの境界に近いカフェ。学園自治特区とはいえ、境界付近には一般市民も利用する商業施設がある。武装した生徒が戦う街の中に、普通の喫茶店が普通に営業している──その奇妙な日常が、鳴神区という街の本質だった。
凛は店の奥のテーブルに座り、ブラックコーヒーを前にして待っていた。私服。制服で来れば目立つ。武装はP226だけ──腰の後ろ、ジャケットの下に隠している。
千歳が段取りをつけてくれた。紫苑との「非公式の会談」。場所はこの中立地帯のカフェ。護衛なし。武器は最小限。
凛は時計を見た。午後六時三十分。約束の時刻ちょうどに、カフェのドアが開いた。
白百合紫苑。
私服姿は初めて見た。白いブラウスに紺のカーディガン、黒いスカート。右腕に包帯が巻かれている。昨日の千歳の一撃──制圧弾でも至近距離で受ければ打撲は残る。
紫苑は凛を見つけ、迷いなくまっすぐ歩いてきた。向かいの席に座る。
「──来てくれたんだな」
「約束した。私は約束を破らない」
ウェイターが近づいてきた。紫苑はメニューを見ずに「アールグレイを」と注文した。
二人の間に、奇妙な沈黙が落ちた。昨日は銃を向け合っていた相手と、カフェで向かい合ってお茶を飲んでいる。制圧弾が掠めた凛の前髪は、不揃いに短くなった部分がまだそのままだった。
カフェの中は穏やかだった。BGMのジャズピアノ。カウンターでコーヒーを淹れる音。窓の外を犬を連れた主婦が通り過ぎていく。鳴神区の中でも、この境界付近だけは妙に平和な空気が流れている。武装した少女たちが命を懸けて戦う街の一角に、こんな場所がある。その落差が、この街の歪みそのものだと凛は思った。
「──単刀直入に訊く」
凛がコーヒーカップを置いた。
「一年前の裁定戦──暁嶺対蒼風の試合中に、うちの前隊長、橘沙耶が死んだ。公式には事故とされている。だが実際には──」
「実弾で撃たれた」
紫苑が凛の言葉を引き取った。凛の目が鋭くなる。
「知っているのか」
「知っている。──というより、私たち聖樹館も、同じようなことを経験しているから」
紫苑のアールグレイが運ばれてきた。紫苑はカップを両手で包み、湯気を見つめながら続けた。
「一年半前。聖樹館と黒羽工科の裁定戦。うちの先輩が一人、試合中に狙撃された。制圧弾じゃなかった──消音狙撃銃による実弾。即死だった」
凛の手が握りしめられた。
「……聞いたことがない」
「当然よ。揉み消されたから。聖樹館上層部は事故として処理した。政府も追及しなかった。──いいえ、政府が揉み消すよう指示したの」
「なぜ」
「学園自治特区制度の『成功例』に傷がつくから。裁定戦で生徒が暗殺されたなんて事実が外に漏れれば、制度への批判が噴出する。政府にとって、この制度は重要な実験プロジェクト。軍需企業からの資金、少年犯罪率の低下というデータ──すべてがこの制度の存続にかかっている」
紫苑はアールグレイを一口飲んだ。
「だから、死んだ生徒の一人や二人は『事故』で片付ける。それが、この街のルールよ」
凛は黙っていた。知っていた──頭では、わかっていた。沙耶の死の直後から、凛はずっと疑っていた。公式発表の不自然さ。政府の調査報告の薄さ。誰もがそれ以上踏み込もうとしなかった、あの空気。
だが紫苑の口から、具体的な事例として聞かされると、怒りが別の形で湧き上がる。漠然とした疑惑が、明確な輪郭を持って目の前に立ち現れた。
「──殺された先輩というのは」
「名前は伏せる。ただ、彼女は聖樹館の中でも有望な指揮官だった。──あなたの橘沙耶と同じように」
有望な指揮官。パワーバランスを揺るがす存在。だからこそ排除される。そういう仕組み。
「……ふざけてる」
「ええ。ふざけている」紫苑の声は冷静だったが、カップを持つ指の力が強くなっていた。「でも、これが現実よ」
「──沙耶を撃ったのは、誰だ」
「私たち聖樹館じゃない」
紫苑は真っ直ぐ凛の目を見て言った。
その一言が、凛の胸に突き刺さった。
「あなたの友人を殺したのは、私たちじゃない」
紫苑の紫色の瞳に揺らぎはなかった。嘘を言う目ではない──凛にはそれがわかった。記録庫で通信データを調べた時に感じた違和感。沙耶が撃たれた角度の不自然さ。聖樹館の部隊配置との矛盾。すべてが紫苑の言葉と符合する。
「沙耶を殺したのは──誰なんだ」
紫苑はカップをソーサーに置いた。かちり、と小さな音。
「月詠女子学園。あなたも聞いたことがあるでしょう。鳴神区西部の黄昏エリアを管轄する、閉鎖的な学園」
「月詠──」
名前は知っている。鳴神区の五つの学園のうち、最も情報が少ない学園。推定生徒数百名程度。外部との接触を極端に避ける。実態を知る者がほとんどいない──暁嶺学院の情報部門でさえ、月詠の詳細を把握できていないと聞いたことがある。
「正確には、月詠の中にある暗殺専門部隊。彼女たちは自分たちを『影』と呼んでいる」
影。
凛の脳裏に、沙耶の手帳の文字が蘇った。「月が見ている」──あの言葉は、月詠のことだったのか。沙耶は死ぬ前に、何かを感じ取っていた。月詠の存在に、気づいていた。
沙耶、お前は一人でそこまで辿り着いていたのか。
「なぜ月詠が沙耶を」
「それは──複雑な話になる」
紫苑は言葉を選ぶように間を置いた。
「月詠の背後には、政府の中にある特定の勢力がいる。学園自治特区制度を推進し、維持し、拡大しようとしている勢力。彼らにとって、裁定戦は『管理された紛争』でなければならない。学園同士が適度に争い、適度に消耗し、しかし制度そのものは揺るがない──そういうバランスが必要なの」
「管理された紛争……」
凛はその言葉を繰り返した。裁定戦──建前上は学園間の正当な紛争解決手段。だがその裏で、結果を「調整」する者がいる。最初から出来レースだったということか。
「勘違いしないで。すべての裁定戦が操作されているわけじゃない」紫苑は凛の表情を読んで付け加えた。「彼らが動くのは、パワーバランスが大きく崩れそうな時だけ。──普段の裁定戦は、本物の勝負よ。昨日の私たちの戦いも」
「つまり──」
「裁定戦で一方が圧倒的に強くなると、バランスが崩れる。だから『調整役』が必要になる。月詠の『影』は、その調整役。──裁定戦のバランスを保つために、必要であれば暗殺も行う」
凛の心臓が冷たくなっていくのを感じた。
沙耶は──バランスのために殺されたのか。誰かの都合で。制度を維持するための数字として。
「あの日、暁嶺と蒼風の裁定戦で、暁嶺が圧倒的に勝ちすぎていた。橘沙耶の指揮能力が予想を超えていた。彼女が生きていれば暁嶺は急速に勢力を拡大し、鳴神区のパワーバランスが崩れる──少なくとも、そう判断した者がいた」
「だから殺した」
「ええ」
凛は息を吸った。吐いた。もう一度吸った。
怒りが腹の底で煮えていた。だが、ここで声を荒げても何も変わらない。紫苑に怒りをぶつけても意味がない──彼女もまた、同じ構造の被害者なのだから。
凛はテーブルの下で拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛みが頭を冷やす。ここで感情に溺れるわけにはいかない。
「『影』の実行犯は──特定されているのか」
「断定はできない。でも、私の調査では一人の名前が浮上している」紫苑は声を低くした。「烏丸鏡夜。月詠の学年不明の生徒。──VSS Vintorezという消音狙撃銃を使う」
「消音狙撃銃……」
沙耶が撃たれた時、銃声は聞こえなかった。凛のすぐ近くにいた沙耶が、音もなく崩れ落ちた。消音狙撃銃ならば、あの状況の説明がつく。
「烏丸鏡夜は『影』の中でも特に危険な存在だと言われている。感情が希薄で、任務を淡々と遂行する──いわば、完成された殺し手」
凛は紫苑の言葉を噛み締めた。烏丸鏡夜。名前を知った。顔はまだわからない。だが──沙耶を奪った相手の輪郭が、初めて見えた。
「──証拠はあるのか」
「直接的な証拠は持っていない。でも、状況証拠ならいくつかある。私が一年半前に調べたことと、あなたが調べたことを合わせれば──より確かなものが見えてくるかもしれない」
紫苑はカーディガンのポケットから小さなUSBメモリを取り出し、テーブルの上に置いた。
「聖樹館の先輩が殺された時の、私の調査記録。通信傍受のログ、弾道解析の非公式データ、政府との連絡記録の断片。──全部入っている」
凛はUSBメモリを見つめた。それから、紫苑の目を見た。
「なぜ、これを私に」
「理由は二つ」紫苑は指を立てた。「一つは、あなたが信用できるから。昨日の戦いで──あなたの分隊を見て確信した。あなたは仲間を守るために戦う人間。権力に迎合する人間じゃない」
「もう一つは」
「私一人では、月詠に手が届かないから」
紫苑の声が、わずかに震えた。初めて見せた感情の揺れ。
「聖樹館は大組織よ。でもだからこそ、組織の中で動こうとすると潰される。上層部は政府との関係を優先する。先輩の死を追及しようとした時、私は上から止められた。『聖樹館のために黙れ』と」
「──白百合」
「紫苑でいい」
凛は一瞬戸惑い、それから頷いた。
「紫苑。──一つだけ確認させてくれ。昨日の裁定戦中に、結月が第三者の通信を検知した。あれは月詠か」
「おそらく。裁定戦は彼女たちにとって絶好の監視機会でもある。両校の戦力を観察し、次の『調整』に備える──そういうことをしているはず」
凛はUSBメモリを手に取った。小さな金属の塊。だがその中には、沙耶の死に繋がる情報が入っている。
「これを分析する。結月の技術なら、通信ログの照合ができるはずだ。──そのうえで、どう動くかを決める」
「協力は惜しまない。ただし」紫苑は真剣な目で凛を見た。「月詠の『影』は本物の殺し手よ。裁定戦のような制圧弾の世界じゃない。あの子たちは──最初から実弾で撃ってくる」
「知っている」
凛の声に、感情はなかった。だが目には確かな炎が灯っていた。
紫苑はその目を見て、小さく息を吐いた。
「──やっぱり。あなた、沙耶に似ている」
「何?」
「前に一度だけ、橘沙耶と話したことがあるの。去年の合同演習で。──あの時と同じ目をしているわ。覚悟を決めた時の、迷いのない目」
凛は何も言わなかった。沙耶に似ていると言われることが、嬉しいのか苦しいのかわからなかった。
紫苑が立ち上がった。
「今日はここまでにしましょう。長居は目立つ」
「──ああ」
紫苑はカーディガンを整え、右腕をかばうように動いた。ドアに向かいかけて、一度だけ振り返った。
「御崎凛。──次に銃を向け合う時は、裁定戦じゃなくて、同じ方向を向いている時がいいわね」
凛は紫苑の背中を見送った。白いブラウスの背中が、カフェのドアの向こうに消えていく。
敵だった人間と手を組む。それが正しいことなのかはわからない。だが──少なくとも紫苑は、凛と同じ痛みを知っている。同じ構造に、同じ怒りを抱えている。
それだけで十分だ。今は。
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凛は一人残されたテーブルで、冷めたコーヒーを飲み干した。
USBメモリを手の中で転がす。月詠。「影」。烏丸鏡夜。政府の暗部。沙耶を殺した仕組み。
一年間、ずっと探していた答えの輪郭が見えた。だが同時に、その答えが示すものの重さに、凛の肩が沈んだ。
これは学園間の争いではない。制度そのものに組み込まれた暴力だ。個人の力でどうにかなる範囲を超えている──そう思う自分と、それでも立ち上がらなければならないと叫ぶ自分が、胸の中でぶつかっていた。
スマートフォンが振動した。千歳からのメッセージ。
『どうだった? 大丈夫?』
凛は少し考えてから返信を打った。
『重要な情報を得た。明日、全員に共有する。──ありがとう、千歳。段取りのおかげだ』
すぐに既読がつき、返信が来た。
『えへへ。秘書として当然です! ちゃんとご飯食べて帰ってきてね。凛ちゃんすぐ食事抜くから』
もう一通。
『それと、楓ちゃんが射撃練習から帰ってきたんだけど、今日もめちゃくちゃ的中率良かったって。嬉しそうに報告してきたよ。珍しく笑ってた。裁定戦で自信ついたのかもね』
凛はスマートフォンの画面を見つめた。千歳の文字が、暗い思考に小さな穴を開ける。
凛はスマートフォンをポケットにしまい、カフェを出た。
夕暮れの鳴神区。オレンジ色の空の下を、学校帰りの生徒たちが歩いている。聖樹館の白い制服の生徒も、暁嶺の深紅の制服の生徒も、同じ道を歩いている。銃を腰に下げたまま、コンビニに寄り、アイスを買い、笑い合っている。
この街の日常。銃と隣り合わせの、歪んだ日常。
帰り道、凛は寄り道をした。暁嶺学院の裏手にある小さな公園。ベンチに座り、鞄から沙耶の手帳を取り出した。
もう何度も読んだページを開く。沙耶の丸い字。訓練の記録、作戦メモ、時々挟まるくだらない落書き──千歳の似顔絵、猫のイラスト、「今日のご飯はカレー!」という走り書き。
そして、最後のページに近い場所に書かれた言葉。
「月が見ている」
沙耶、お前は怖くなかったのか。この真実に気づいた時。
手帳をぱらぱらとめくる。その中に、凛が今まで見落としていた一文があった。最後のページの端、小さな字で。
「銃は嘘をつかない。でも、人は嘘をつく。この街は嘘でできている。──それでも、守りたいものがある」
凛は手帳を閉じた。
空を見上げた。薄い雲の向こうに、月がうっすらと浮かんでいた。まだ明るい空の中の、白い月。
──月が見ている。
沙耶。お前は、知っていたんだな。この街の裏側にあるものを。知っていて──それでも守ろうとしたんだな。
凛はジャケットの下のP226に手を触れた。冷たい鋼の感触。
月詠。影。烏丸鏡夜。──お前たちがなんであれ、沙耶の死を「事故」で終わらせるつもりはない。
凛は立ち上がり、歩き出した。暁嶺学院に向かって。仲間が待っている場所へ。
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