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【第一巻】 第六章「白薔薇」

 別館の入口は、暗い口を開けて三人を待っていた。


 凛はP226を構え、壁に背をつけて入口の横に立った。瑠衣がシールドを前面に、千歳がM4A1のストックを肩に当てて待機する。


「結月、敵の配置を推測できるか」


「通信パターンから──一階に三名。うち一名は入口のすぐ裏、残り二名は奥の廊下側と思われます。二階はまだ確認できません」


「楓が撃った二階の狙撃手は」


「動きなし。行動不能の可能性が高いです」


 四対四。いや、先ほどの遊撃手を凛が倒しているから、四対三。数の上ではこちらが有利だ。


 だが相手は聖樹館(せいじゅかん)の白薔薇──精鋭部隊だ。残り三人がどれだけの力を持っているかわからない。


 凛は息を吐いた。


「突入する。瑠衣が先頭。私が瑠衣の右側面。千歳は後方から制圧射撃。──入口裏の敵を最初の三秒で潰す」


「了解」


「任せとけ」


 凛は三本の指を立てた。二本。一本──


「行け」


 瑠衣がシールドを構えて入口に突入した。


 別館の一階は旧市庁舎の窓口フロアだった。カウンターが横一列に並び、その奥に廊下が伸びている。天井の蛍光灯は消えていて、窓から差し込む灰色の外光だけが空間を照らしていた。


 入口の裏──右側の壁際に敵がいた。聖樹館の白と金の制服。サブマシンガンを構えている。瑠衣の突入に反応してトリガーを引いたが、制圧弾(サプレスラウンド)はシールドに弾かれて飛散した。


 凛が瑠衣の右側から飛び出し、P226で二発──胴体に一発、肩に一発。センサーが鳴る。行動不能。


 三秒。予定通り。


「一名排除」


 だが安堵する暇はなかった。奥の廊下から連射音が響く。カウンター越しに制圧弾(サプレスラウンド)の嵐が飛んできた。


「伏せろ!」


 三人がカウンターの裏に身を隠した。制圧弾(サプレスラウンド)がカウンターの上面に当たり、パチパチと乾いた衝撃音が連続する。


「二人で撃ってきてる……!」千歳がカウンターに背をつけて叫んだ。


「廊下の奥と、右側の部屋からだ」凛が射撃音の方向を分析した。二方向からの挟撃──教科書通りのL字型伏撃陣形。


「結月、楓、状況は」


「結月です──敵の通信が変わりました。短い指示が二回。連携を取っています」


「楓です。五階から別館内部は見えません。窓からの射線も通りません」


 楓の狙撃支援は期待できない。四対二──だが、敵は建物を知り尽くしている。ここは聖樹館の裁定戦(アービトレーション)での定番戦場だ。


「千歳」凛は低い声で呼んだ。


「うん?」


「制圧射撃、できるか」


 千歳は一瞬黙り、それから口角を上げた。いつもの笑顔ではない。戦場の笑み。


「何秒?」


「五秒でいい。廊下の奥と右の部屋、交互に。敵の頭を上げさせるな」


「了解」


「瑠衣、私と一緒に右の部屋を迂回する。カウンターの端から回り込んで側面を取る」


「わかった」


 凛は深呼吸した。一つ、二つ。


「千歳──今だ」


 千歳がカウンターの端から身を乗り出し、M4A1を構えた。


 フルオートの連射音が別館の一階に響き渡った。


 千歳の射撃は正確だった。廊下の奥に向かって二秒、間髪入れず右の部屋の入口に向かって一秒、再び廊下に一秒。制圧弾(サプレスラウンド)が壁と床を叩き、粉塵が舞い上がる。


 連射の合間にも千歳は射線を動かし続けていた。制圧射撃の要諦は「敵に反撃の隙を与えないこと」だ。ただ弾をばら撒くのではない。敵がいる場所、敵が顔を出しそうな場所を予測し、そこに弾幕を張り続ける。


 千歳のM4A1は、まるで生きているかのように正確に射線を切り替えていく。


 敵の反撃が止まった。五秒。それだけの時間で千歳は二方向からの射撃を完全に封殺した。


 その五秒で、凛と瑠衣はカウンターの右端を回り込んでいた。壁沿いに低い姿勢で進み、右側の部屋──旧相談室と書かれたプレートの横まで来た。


 凛は手信号で瑠衣に指示した。瑠衣が頷く。


 凛がドアの横に立ち、蹴り開けた。


 瑠衣がシールドを構えて突入。部屋の中にいた聖樹館の生徒が振り向く──ライフルの銃口が瑠衣に向いた瞬間、シールドの裏からベネリM4の轟音が響いた。


 至近距離のショットガン。制圧弾(サプレスラウンド)とはいえ、衝撃は凄まじい。聖樹館の生徒が壁に叩きつけられ、センサーが反応した。


「もう一人は廊下の奥だ」


 凛がドアから廊下を覗いた。薄暗い通路の奥、突き当たりの柱の陰に人影。G36Cの銃口がこちらを向いている。


 ──白百合紫苑(しらゆり しおん)


 凛は本能的にそれを悟った。敵の残り一人は、隊長自身だ。


 紫苑はカービンを構えたまま、微動だにしなかった。薄暗い廊下越しでも、あの紫色の瞳が見えるような気がした。


「千歳、廊下の突き当たりに敵。おそらく白百合紫苑」


「──紫苑本人?」千歳の声に僅かな緊張が混じった。


「三方向から詰める。千歳は廊下の入口から正面。瑠衣は右の部屋から窓伝いに裏へ回れ。私は左側の部屋を抜けて挟む」


「凛ちゃん」千歳の声が落ち着いたものに変わった。「紫苑って、ただの一兵卒じゃないよ。白薔薇の隊長だよ」


「知ってる」


「──うん。まあ、あたしたちの隊長のほうが強いけどね」


 千歳が軽口を叩いた。凛は返答せず、左側の部屋に身を滑り込ませた。


---


 旧市庁舎別館の一階は、窓口フロアを中心に左右に小部屋が並ぶ構造だった。凛が入った部屋は旧文書保管室。金属製の書架が並び、埃の匂いが漂っている。


 奥のドアを静かに開けた。廊下の突き当たりに繋がる通路──紫苑がいる方向だ。


 インカムの音量を下げ、足音を殺して移動する。制圧弾(サプレスラウンド)仕様のP226を右手に、左手は壁に触れている。暗い。窓のない通路で、外光は届かない。


 前方に薄い光。突き当たりの廊下に出る手前だ。


 凛は壁に背をつけ、角を覗き込んだ。


 ──いない。


 紫苑がいた柱の陰に、人影がなかった。


「千歳、紫苑が移動した。柱の裏にいない」


「こっちからも見えない──」


 その言葉が終わる前に、凛の右側──書架の間から銃口が突き出された。


 反射的に体を沈めた。G36Cの制圧弾(サプレスラウンド)が頭上を通過し、壁に当たる。凛は身を翻して書架の影に飛び込んだ。


 紫苑は、別ルートで文書保管室に入っていた。


 凛が包囲するつもりだった相手に、逆に接近されていた。


 心臓が一拍、強く打った。


 距離は三メートル。書架を一つ挟んだ位置。互いの呼吸が聞こえるほどの近さ。


「──御崎凛(みさき りん)


 紫苑の声が、書架の向こうから聞こえた。冷たく、透明な声。


「あなたの分隊、悪くない。だけど」


 書架の隙間から紫苑の影が動いた。凛はP226を構え、隙間に銃口を向けたが──紫苑は隙間を通過せず、書架の端に回り込んできた。


 凛は咄嗟に反対方向に転がった。紫苑のG36Cが短く吠え、制圧弾(サプレスラウンド)が床を叩く。凛は転がりながらP226を撃った。二発。一発は書架に当たり、もう一発は紫苑の制服の袖を掠めた。


 センサーは反応しない。掠めただけでは有効打にならない。


 凛は書架の端に背をつけ、息を整えた。紫苑も反対側で同じことをしているはずだ。


「──桜庭千歳(さくらば ちとせ)の制圧射撃。見事だった」


 紫苑がまた声を出した。戦闘中に会話する余裕──挑発か、それとも本心か。


「あの密度と正確さ。聖樹館の制圧手でも、あそこまでできる者は少ない」


 凛は答えなかった。代わりにインカムに囁いた。


「千歳、文書保管室。書架の間にいる。紫苑と接触中。右側の入口から来い。──ゆっくり、音を立てずに」


「了解。二十秒で行く」


 二十秒。紫苑を二十秒足止めすればいい。


「白百合」凛は声を出した。「あんたの部隊も悪くなかった。最初の配置──遊撃手を外周に回す判断、正直裏をかかれた」


「褒め言葉として受け取っておく」


 書架の向こうで微かな衣擦れの音。紫苑が動いている。


 凛は書架の下──床と棚板の間のわずかな隙間を覗いた。紫苑のブーツが見える。書架の端から右に動いている。回り込もうとしている。


 凛は逆方向に動いた。書架を挟んで互いに反対方向に移動する──追いかけっこのような、しかし一瞬の判断ミスが勝敗を決する緊張の中で。


 十五秒。


「──一つ、訊きたいことがある」


 凛の言葉に、紫苑の足が止まった。


「一年前の裁定戦(アービトレーション)暁嶺(ぎょうれい)蒼風(そうふう)の試合で、第三者の介入があった。あんたは何か知っているか」


 沈黙。三秒ほどの沈黙。


「……今はその話をする場ではない」


 紫苑の声が、わずかに変わった。冷たさの中に、何かを抑え込むような硬さ。


 十秒。


「そうだな。今は戦場だ」


 凛は書架の端から飛び出した──と見せかけて上半身だけを出し、すぐに引っ込める。フェイント。紫苑がG36Cで反応し、短い一射。制圧弾(サプレスラウンド)が凛の前髪を掠めた。


 だがその射撃音に紛れて、部屋の入口側で別の気配が動いた。


 千歳。


 千歳は入口からM4A1を構え、書架の間を覗いていた。紫苑が凛に注意を向けた一瞬──千歳が引き金を引いた。


 三点射。正確な三発。


 紫苑は驚くべき反応速度で体を捻ったが、一発目が右腕に命中した。センサーが反応──右腕使用不可。


 紫苑はG36Cを左手だけで保持し、書架の陰に下がった。片腕でカービンを扱う──それでも紫苑の構えに乱れはなかった。


 だが、勝負は決した。


 凛が正面から、千歳が側面から。紫苑は書架の陰に追い込まれ、射線が二方向から交差する。


「──降参する気はないだろうな」凛が言った。


「当然」


 紫苑が書架の陰から左手だけのG36Cで応射しながら、凛の射線を横切るように移動した。左手だけとは思えない安定した射撃。だが、機動力は明らかに落ちている。


 千歳がM4A1でフルオート射撃。廊下での制圧射撃と同じ精密さで、紫苑の逃走経路を塞いでいく。書架にぶつかる制圧弾(サプレスラウンド)の音が部屋中に反響した。


 紫苑が一瞬──本当に一瞬だけ動きを止めた。書架と書架の間の隘路で、左右の射線が重なる場所。


 凛はその一瞬を逃さなかった。


 P226、二発。胴体。


 センサーが甲高い音を鳴らした。行動不能。


 紫苑は壁にもたれるように崩れ、静かに座り込んだ。G36Cが床に落ちた。


---


 薄暗い文書保管室に、硝煙の匂いが漂っていた。


 紫苑は壁に背をつけて座り、凛を見上げた。紫色の瞳には悔しさも怒りもなく、ただ静かな観察の色があった。


「──あなたの勝ちよ。御崎凛」


 凛はP226を下ろした。


「千歳の射撃がなければ、どうなっていたかわからない」


「謙遜?」


「事実だ」


 紫苑の唇が、かすかに弧を描いた。笑ったのか。


「良い分隊ね。──一年前のこと」


 凛の手が止まった。


裁定戦(アービトレーション)が終わったら、話しましょう。今の私はただの敗者だから──何もあなたに渡せないけれど」


 凛は紫苑の目を見た。嘘を言っている目ではなかった。


「──わかった」


 その時、インカムに結月の声が飛び込んできた。


「御崎先輩、緊急です。二階に残っていた敵狙撃手──行動不能ではありませんでした。今、動き出しています。本館方向に移動中です」


 凛の表情が変わった。


「楓は」


「楓先輩は五階にいます。敵の狙撃手が本館に入れば──」


 同じ建物内での狙撃手同士の遭遇。楓にとって不利な状況だ。M700は精密な長距離狙撃銃であり、室内戦には向かない。


「楓、聞こえるか。敵の狙撃手が本館に入った。注意しろ」


「──聞こえています。五階で待ちます。階段の音が聞こえたら対処できます」


 楓の声は落ち着いていた。だが凛は迷った。楓のところに向かうべきか。しかし残りの敵は──


「結月、残敵は」


「現在、行動不能でないのはこの狙撃手一名だけです。他の四名はすべてセンサー反応済みです」


 つまり残り一人。楓がいる本館に向かっている。


「千歳、瑠衣、本館に戻る。楓を支援する」


 凛たちは文書保管室を出て、中庭を駆け抜けた。本館のエントランスに飛び込み、階段を上る。


 二階、三階。足音が反響する。


「楓、敵の位置は」


「……まだ階段の音が聞こえません。三階か四階にいると思います」


「結月、敵の通信は」


「ありません。完全に無線封鎖しています。──慎重な相手です」


 四階に到達した。凛は廊下を見渡した。薄暗い廊下に並ぶドア。人影はない。


「千歳、四階を掃討する。瑠衣は五階に先行して楓と合流。楓を守れ」


「了解」瑠衣が頷き、階段を駆け上がっていった。


 凛と千歳は四階の廊下に足を踏み入れた。M4A1とP226。二人で並んで、ドアを一つずつ確認していく。


 旧会議室A──無人。旧会議室B──無人。給湯室──


 千歳が手を上げた。止まれの合図。


 千歳は耳を澄ましていた。凛も呼吸を止めて聞く。


 ──微かな金属音。弾倉を装填する音。


 給湯室の奥──その先の小部屋から。


 凛と千歳は目を合わせた。千歳が三本指を立て──二本、一本。


 千歳がドアを蹴り開け、M4A1を構えて突入した。


 小部屋の奥、窓際に聖樹館の生徒がいた。狙撃銃を抱え、窓の外──中庭を見ていた。振り向きざまにサイドアームの拳銃を引き抜く。


 千歳のM4A1が先に火を吹いた。三点射。胸に二発、肩に一発。


 センサーが反応。行動不能。


「最後の一人、排除」千歳が報告した。


 凛はインカムに向かって言った。


「全員に通達。敵チーム五名、全員行動不能を確認。──裁定戦(アービトレーション)、終了だ」


---


 旧市庁舎の広場に、ブザーの音が長く響いた。終了を告げる電子音。


裁定戦(アービトレーション)第十二号──暁嶺学院の勝利を宣言します」


 審判の声がスピーカーから流れた。政府視察団のテントから拍手が起きる。


 凛たちは広場に戻っていた。五人全員が無傷──いや、凛の前髪が少し焦げている程度。全員が帰ってきた。


 千歳がM4A1を肩にかけ、大きく息を吐いた。


「──勝った。勝ったよ、凛ちゃん」


「ああ」


「もっと喜びなよ。あたしたち、聖樹館に勝ったんだよ?」


「千歳のおかげだ。──あの制圧射撃がなかったら、別館の突入は失敗していた」


 千歳が目を丸くし、それからはにかんだように笑った。


「えへへ。凛ちゃんに褒められると、なんか照れるね」


 瑠衣が千歳の背中を叩いた。


「お前の制圧射撃、マジで化け物だったぞ。弾幕の密度がおかしい。いつの間にあんな精度出せるようになったんだ」


「日頃の訓練の成果、ってやつ?」千歳が肩をすくめた。


「楓も結月もよくやった」凛は二人に視線を向けた。「楓の狙撃で敵の展開を遅らせられた。結月の通信傍受で敵の動きを読めた。全員の仕事が噛み合った結果だ」


 楓が小さく頭を下げた。「──ありがとうございます」


 結月がバックパックを揺らしながら駆け寄ってきた。


「御崎先輩、裁定戦(アービトレーション)の記録データ、全部保存しました。それと──」


 結月の声が低くなった。


「さっきの第三者通信の記録も残してあります。後で解析しますか」


 凛は頷いた。「──ああ。必ず」


 楓は何も言わずにライフルのスコープキャップを閉じていた。その横顔に、かすかな安堵が見て取れた。凛は知っている──楓がいちばん怖かったのは、自分の狙撃が仲間を危険にさらすことだ。今日、楓の一撃は確実に戦況を動かした。それを楓自身が理解してくれていればいいと思った。


 結月はバックパックを地面に下ろし、小型のノートPCを開いて何かの画面を確認していた。裁定戦(アービトレーション)中のログを整理しているのだろう。一年生とは思えない手際の良さだ。


「結月、怪我はないか」


「はい、本館二階から一歩も出ていないので。──でも、心臓はずっとバクバクでした」


 結月は笑ったが、その手がわずかに震えていた。初めての実戦。通信支援という後方の役割でも、戦場にいることに変わりはない。


「よくやった。お前の通信傍受がなかったら、遊撃手の接近に気づけなかった。あの情報で命拾いした」


 結月が目を瞬いた。それから、少し泣きそうな顔で「ありがとうございます」と言った。


 瑠衣が楓の頭をくしゃりと撫でた。


「お前の一発目、綺麗に入ってたぞ。別館二階の狙撃手、あの距離で正確に当てるんだから大したもんだ」


「……行動不能にはできませんでした」


制圧弾(サプレスラウンド)で遠距離から狙撃手を仕留めるのは簡単じゃない。十分だ。あの一撃で敵の展開が五秒は遅れた。その五秒で、あたしたちは中庭を渡れたんだ」


 楓は黙って頷いた。瑠衣の手が頭の上にあるのを嫌がるふうでもなく、ただ静かに受け入れていた。


 広場の反対側で、聖樹館のチームがバスに向かっていた。紫苑は他の四人に囲まれて歩いている。右腕を庇うような動きをしていたが、足取りはしっかりしていた。


 紫苑が一度だけ振り返り、凛を見た。


 視線が交錯した。


 紫苑は何も言わなかった。ただ、かすかに──本当にかすかに頷いた。


 「裁定戦(アービトレーション)が終わったら、話しましょう」


 その約束が、凛の胸の中で静かに脈打っていた。


---


 バスの中。帰りの道。


 千歳が座席に深くもたれ、天井を見上げていた。


「ねえ、凛ちゃん」


「なに」


「あたしさ、正直、怖かったんだ」


 凛は千歳を見た。千歳は天井を見たまま続けた。


「別館で制圧射撃してる時。あの五秒間。凛ちゃんと瑠衣先輩が横を通り抜けていくのが見えて。──あたしが止まったら、二人が撃たれるって思ったら。指が震えそうだった」


「震えてなかった」


「うん。震えなかった。──震えたら凛ちゃんが死ぬって思ったから」


 千歳がこちらを向いた。いつもの明るい笑顔ではなく、少し疲れた、でも嘘のない顔。


「あたしの銃は、凛ちゃんを守るためにあるから。──沙耶先輩が、そうだったみたいに」


 凛は言葉を探した。何か返さなければいけないと思った。だが適切な言葉が見つからなかった。


「……ありがとう」


 それだけが、凛に言えるすべてだった。


 千歳が「えへへ」と笑った。いつもの、あの笑い方。


 窓の外を、鳴神区(なるかみく)の街並みが流れていく。薄曇りの空の下、日常が続いている。銃声を知らない人々の、穏やかな午後。


 凛はポケットの中で、沙耶の手帳に触れた。


 裁定戦(アービトレーション)には勝った。だが──第三者の通信。一年前と同じ影。月詠(つくよみ)の存在。


 戦いは終わっていない。むしろ、今日から始まる。


 凛は目を閉じた。バスの振動が体に伝わる。隣で千歳が寝息を立て始めた。


 後ろの席から、瑠衣と楓の声が聞こえた。


「楓。お前、最初の狙撃の時、手は震えなかったか」


「……少し、震えました」


「そうか」


「でも、中庭で瑠衣先輩が走っているのが見えて。──当てなきゃ、って思ったら、震えが止まりました」


「バカだな。あたしのために震え止めてどうすんだ」


「先輩が撃たれたら困りますから」


「……ったく」


 瑠衣の声が柔らかくなった。凛は目を閉じたまま、その会話を聞いていた。


 結月はノートPCを開いて、何かのデータを睨んでいた。画面の光が窓の反射と混ざり、結月の横顔を青白く照らしている。裁定戦(アービトレーション)中に記録した通信ログ。その中に紛れ込んだ、第三者の痕跡。


 ──全員が帰ってきた。


 それだけで十分だ。今は。


---

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