【第一巻】 第十四章「銃声のカノン」
「──なぜ、撃たない」
鏡夜の声が薄暗い倉庫に響いた。
凛はP226を握ったまま──銃口を床に向けていた。鏡夜との距離は二メートル。鏡夜は武器を持っていない。VSSは遠くの床に転がり、拳銃は弾切れで足元に落ちている。凛が銃口を上げれば、この距離なら外すはずがない。八発残っている。一発で十分だ。
でも凛は撃たなかった。
「──なぜ」鏡夜がもう一度訊いた。声が掠れていた。「私は沙耶を殺した。あなたの親友を。あなたが一年間追いかけてきた──真実の、その先にいる人間を」
「知ってる」
「じゃあなぜ──」
「沙耶なら、こうした」
鏡夜が言葉を失った。
凛は息を吐いた。左腕から血が滲んでいた。頬に擦り傷。身体のあちこちが痛む。格闘戦で打たれた肋骨が、呼吸のたびに軋んだ。でも意識は明瞭だった。これまでの一年間のどの瞬間よりも、今の凛は自分の言葉を理解していた。
「沙耶は──あの手帳に書いてた。『それでも、守りたいものがある』って。最初は意味がわからなかった。沙耶は何を守りたかったんだと思って──一年間ずっと考えてた」
鏡夜は凛を見つめていた。動かなかった。
「管理局のサーバーに侵入して真実を知った沙耶が、それでも銃を手放さなかった理由。告発しようとして殺されると分かっていても、止めなかった理由。──私はずっとそれを『正義感』だと思ってた。沙耶は正しいことをしようとしたんだって」
凛は首を横に振った。
「違った。沙耶は──お前を見ていたんだ」
「──私?」
「沙耶がサーバーで見つけたのは、データだけじゃない。月詠の内部資料──『影』の構成員リスト。年齢、経歴、入隊時期。そこに──三歳で入隊した記録があった。お前の記録だ、鏡夜」
鏡夜の目が見開かれた。
「沙耶の手帳の最後のページに書いてあった。『月詠に、三歳から銃を持たされている子がいる。この子を、助けたい』」
凛は沙耶の手帳を胸ポケットから取り出した。最後のページを開き、鏡夜に見せた。沙耶の丸い字。乱れのない、穏やかな筆跡。
鏡夜がそのページを見つめた。手が伸びかけて──止まった。触れることを躊躇うように。
「──沙耶は、私のことを知っていた?」
「知っていた。名前も。顔も。お前が三歳の時の写真が、管理局の資料にあったそうだ。沙耶はそれを見て──泣いたと思う。沙耶は、そういう奴だ。会ったこともない誰かのために泣ける人間だった」
「私を──助けようとしていた? 私が殺す相手が──私を?」
「ああ」
鏡夜の肩が、微かに震えた。
凛はP226のデコッキングレバーを操作した。ハンマーが安全位置に落ちる。セーフティ。凛はP226をホルスターに戻した。
鏡夜の目が見開かれた。
「──銃を仕舞ったの? 私の前で?」
「お前は丸腰だ。丸腰の相手に銃を向けるのは──沙耶が一番嫌いなことだった」
鏡夜が一歩下がった。壁に背中がぶつかった。逃げるように──ではない。受け止められなくて、身体が勝手に退いたのだ。
「……わからない」鏡夜が呟いた。「あなたが──わからない。沙耶が──わからない。私は沙耶を殺した。スコープ越しに心臓を撃った。九×三九ミリ、二五九グレインの重弾。着弾まで〇・四秒。沙耶は最初、何が起きたかわかっていなかった。それから──笑った。倒れながら、笑った。なぜ──なぜ笑ったの」
鏡夜の声が震えていた。感情が希薄だったはずの声に、亀裂が入っていた。
「あの時から──ずっと考えている。なぜ沙耶は笑ったのか。撃たれて、死にかけて、なぜ──」
「沙耶はいつも笑ってた」凛は静かに言った。「辛い時も、悲しい時も。あいつは周りの人間を安心させるために笑う奴だった。──あの時も、きっと。私を見て、私が怖がらないように──笑ったんだ」
鏡夜の膝が折れた。壁に背中を預けたまま、ずるずると座り込んだ。VSSのストラップが肩から外れ、タクティカルベストの留め金が小さな音を立てた。
「──私は」
鏡夜の頬を、何かが伝った。
涙だった。
烏丸鏡夜が──泣いていた。声は出さなかった。表情もほとんど変わらなかった。ただ、灰色の目から透明な液体が、一筋、二筋と流れた。
「──私は、一度も泣いたことがなかった。沙耶を殺した時も。他の六人を殺した時も。何も感じなかった。──はずだった」
鏡夜が自分の頬に手を当てた。指先が濡れている。それを不思議そうに見つめた。自分の身体から出た涙を、まるで初めて見るように。
「沙耶を殺してから──おかしくなった。任務の後、自分の手を見るようになった。食事の味がわかるようになった。夜、眠れなくなった。──月詠の教官は、それを『劣化』と呼んだ。兵器としての機能低下だと」
「劣化じゃない」
「──え?」
「それは人間に戻ってるんだ。お前は壊れたんじゃない。──治り始めてる」
鏡夜が凛を見上げた。床に座った鏡夜と、立っている凛。その視線の高さの差が──今の二人の関係そのものだった。
凛はゆっくりとしゃがみ、鏡夜と目線を合わせた。
「鏡夜。──お前に聞きたいことがある」
「何?」
「お前は──これからどうしたい。月詠に戻りたいか?」
「戻れない。任務を放棄した。単独で行動した。戻れば──処分される」
「なら、お前はもう月詠の兵器じゃない。──お前自身の意志で、何がしたい?」
鏡夜は長い沈黙の後、口を開いた。
「私には──何も、ない。銃を撃つこと以外に、何もできない。料理もできない。友達の作り方も知らない。好きなものも嫌いなものも──わからない。三歳から月詠にいて、教わったのは人の殺し方だけ。──何がしたいか、訊かれても」
「じゃあ、一つだけ」凛が言った。「今、お前は死にたいか?」
鏡夜が目を見開いた。
「……撃たれた方が楽だと──さっきまで思っていた」
「今は?」
鏡夜は自分の手を見た。さっきまで凛と殴り合った手。凛の手を握り返した手。
「──今は。少しだけ。──あなたが見ている世界を、見てみたい」
「なら十分だ」凛は立ち上がった。「──死にたくないなら、生きろ。生きて、お前の言葉で──沙耶が殺された理由を、世界に話せ」
「──御崎凛」
「凛でいい」
「……凛。──私を、どうするの。管理局に突き出す? もう逃げない。逃げる場所もない。月詠に戻れば処分される。任務を放棄して、単独で行動した。──もう居場所がない」
凛は鏡夜の前にしゃがんだ。目線を合わせた。
「お前を管理局には渡さない。管理局は発注者だ。お前を消すだけだ」
「じゃあ──」
「外に出す。お前の証言を、鳴神区の外に。メディアに。司法に。──沙耶がやろうとしたことを、今度は私たちがやる」
「私の証言に──意味があると思う?」
「ある。お前は実行者だ。命令系統を知っている。誰が発注し、誰が承認し、誰が金を出したか。お前の証言がなければ、管理局の上層部に手が届かない」
鏡夜は長い間、凛を見つめていた。涙はもう止まっていた。頬に涙の跡が残っている。
「──沙耶も、こうやって人を口説いたの?」
「沙耶はもっと上手かった。笑顔一つで人を動かせた」
「あなたは不器用ね」
「よく言われる」
鏡夜が──笑った。
ほんの微かに。口角がわずかに上がっただけ。笑い方を忘れた人間が、思い出そうとしている──そんな不器用な笑み。でもその笑みは、凛がこの一年間で見た、どんな笑顔よりも重かった。
「──わかった。あなたについていく。私にはもう、銃以外の生き方がわからない。でも──あなたが道を示すなら」
「道なんか示せない。私も手探りだ。──でも、一緒に探すことはできる」
凛は手を差し出した。鏡夜はその手を見つめた。──凛の手は傷だらけだった。P226のグリップで擦れた掌。格闘戦で切れた指の関節。それでも真っ直ぐに差し出された手。
鏡夜がその手を──握った。冷たい手だった。でも、握り返す力は確かだった。
凛が鏡夜を引き上げた。二人は向かい合って立った。同じくらいの身長。同じくらいの年齢。同じ特区で、同じように銃を持たされた少女。
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凛は通信機の電源を入れた。
「──結月、聞こえるか」
ノイズの後、結月の声が飛び込んできた。
『凛隊長! ずっと通信を待っていました! 無事ですか──!?』
「生きてる。──鏡夜を確保した。投降だ」
通信の向こうで、息を呑む音が聞こえた。複数の声。千歳の声。瑠衣の声。楓の声。
「結月。──データの送信準備はできているか」
『はい。証拠データ一式、暗号化済みです。送信先は三か所──聖樹館上層部、暁嶺理事会、そして外部のジャーナリスト。凛隊長の承認があれば即座に送信できます』
「送れ」
『──了解。送信します』
端末の操作音。数秒の沈黙。
『──送信完了。三か所全て。受信確認を待ちます』
「ありがとう、結月」
凛は通信を切らなかった。
「千歳」
『──ここにいるよ、凛ちゃん』千歳の声が少し震えていた。泣いているのかもしれない。『──おかえり』
「ただいま。──迎えに来てくれるか」
『もう出てる。瑠衣ちゃんが車を調達した。五分で着く』
「相変わらず早いな」
『だって凛ちゃん、通信切ってから四十分も音沙汰なかったんだよ!? あたしたち生きた心地しなかったんだからね!?』
「──すまん」
鏡夜が凛を見ていた。通信のやり取りを聞いていた。
「──仲間、というのは、こういうものなの」
「ああ」
「──知らなかった」
鏡夜の声は平坦だったが、目は──少し潤んでいた。
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五分後、倉庫の前にライトが差した。暁嶺の校用車。瑠衣が運転席にいた。
千歳が助手席から飛び出してきた。凛を見て──抱きついた。
「──馬鹿凛ちゃん。一人で行くなって言ったのに」
「言ってない。お前は『勝って』と言っただけだ」
「同じことだよ──」
千歳は凛の肩に顔を埋めた。制服の肩が濡れた。千歳はやっぱり泣いていた。
楓が車の後部から降りてきた。M700を背負っている。──ついてきていた。万が一の狙撃支援のために、おそらくどこかの高所で待機していたのだろう。
「楓。お前──」
「ついてきていません。──たまたま近くにいただけです」
「……そうか」
結月も車にいた。端末を抱えて、凛に向かって大きく手を振った。
「凛隊長! データ受信確認できました! 三か所全て、受信成功です! ジャーナリストの方から返信が──『取材に入る。安全を確保されたし』と!」
凛は頷いた。──動き始めた。外の世界が、ようやく動き始めた。
瑠衣が運転席の窓から顔を出した。
「それで──そいつが鏡夜か」
鏡夜は倉庫の入口に立っていた。ベストもVSSも外していた。制服だけの姿。──少女にしか見えなかった。
「ああ」
「沙耶を殺した奴」
「ああ」
瑠衣は鏡夜を見つめた。長い沈黙。鏡夜も瑠衣を見つめ返した。視線が交差する。
「──乗れ」瑠衣が言った。「後部座席が空いてる」
瑠衣の声は素っ気なかった。でも凛は知っていた。瑠衣がこの声色を使う時は、感情を押し殺している時だ。蒼風時代の仲間──涼花が月詠に脅されていたこと。月詠という組織がどういうものか、瑠衣は身近で知っている。その月詠が生んだ暗殺者を、車に乗せようとしている。──瑠衣なりの、覚悟だった。
鏡夜が凛を見た。凛は頷いた。
鏡夜が車に向かって歩き出した。千歳が凛から離れ、鏡夜の顔を見た。──何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
全員が車に乗り込んだ。凛と鏡夜は後部座席の両端。その間に結月。楓は一番後ろの荷台席。千歳が助手席に戻り、瑠衣がエンジンをかけた。
車が走り出した。旧工業団地の暗い道を抜け、鳴神区の市街地に向かう。街灯の光が車内を断続的に照らした。
鏡夜が窓の外を見ていた。流れる街灯の光を目で追っている。
「──街の灯りを、こうやって見るのは初めて」
「月詠からは出なかったのか」
「任務でしか外に出なかった。──任務の時は、灯りは消すものだった。今は──きれい」
結月が鏡夜をちらりと見た。怯えと好奇心が半々の表情。──それでも結月は、自分の端末のケースに挟んであった飴を一つ、鏡夜に差し出した。
「──あの。よかったら」
鏡夜は飴を見つめた。──受け取った。
「……ありがとう」
結月が少し微笑んだ。小さな──でも確かな一歩だった。
凛は窓の外を見た。夜の鳴神区。街灯の光が連なっている。
銃声のカノン。──その言葉が不意に浮かんだ。カノンは音楽の形式だ。同じ旋律が追いかけるように重なっていく。沙耶が始めた旋律を、凛が追いかけた。そして今、鏡夜も──同じ旋律の中に入った。
銃声は破壊の音だ。人を傷つけ、命を奪う音。──でも、銃声が終わった後に残るものがある。それは沈黙ではない。その後に続く、生きている人間の声だ。息の音だ。心臓の音だ。
凛は沙耶の手帳を胸ポケットの上から押さえた。
──沙耶。聞こえているか。
お前の銃声は、一年前に止まった。でも、お前が守りたかったものの旋律は──まだ続いている。私が引き継いだ。千歳が、楓が、瑠衣が、結月が、紫苑が──みんなが追いかけている。
そして今日から、鏡夜も。
銃声のカノン。一つの銃声が次の銃声を呼び、やがてその連鎖が止まる日が来る。止めるために、私たちは戦った。──これからも、戦う。銃ではなく。真実と、言葉で。
車が暁嶺学院の正門に近づいた。門灯が見えた。
「──着いたぞ」瑠衣が言った。
凛は車を降りた。夜風が頬を撫でた。左腕の傷が痛む。身体のあちこちが痛む。──でも、不思議と足は軽かった。
鏡夜が車を降りた。暁嶺学院の門灯に照らされた校舎を見上げた。
「──ここが、あなたの学校」
「ああ」
「沙耶がいた場所」
「ああ」
鏡夜は校舎を見上げたまま、しばらく黙っていた。
「──居場所を失った私に、一つだけ訊いていい?」
「何だ」
「ここは──暖かい?」
凛は少し考えた。仲間がいる場所。千歳がいて、楓がいて、瑠衣がいて、結月がいる。沙耶がいた場所。沙耶の手帳がある場所。コーヒーの匂いがする作戦室。制圧弾の乾いた音が響く射撃場。──完璧な場所じゃない。ここも特区の一部だ。銃を手放せない場所だ。でも──。
「ああ。暖かい」
鏡夜が頷いた。小さく。──でも確かに。
校舎の灯りが、少女たちを照らしていた。その灯りの中に、影が並んでいた。六つの影。凛と、千歳と、楓と、瑠衣と、結月と、鏡夜。
──いや、七つ。凛にだけ見えた気がした。六つの影の隣に、もう一つ。沙耶の影が、微笑んでいるような。
──気のせいだろう。でも凛はそう信じることにした。沙耶は笑っている。自分が始めた旋律が、こうして誰かに受け継がれたことを。
凛はP226のホルスターに触れた。銃の重みは変わらない。これからも変わらないだろう。──でも、その重みの意味は変わった。
殺すための重みではない。守るための重み。
──弾は、嘘をつかない。
凛はそう呟いて、校舎の中に入った。鏡夜が隣を歩いていた。その足取りはまだ不安定だったけれど──止まってはいなかった。
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