第40話 持てる乙女と持てない男
絶体絶命のトーマスに忍び寄る1つの影が廊下に潜り、凄まじいスピードで泳ぎ駆け抜ける。
『はむっ、あむっ。もぐもぐ……もぐもぐ──』
ずらしたマスクの隙間から頬張るバナナ。
漂う芳醇な香りが狭い空間を支配し、それを獰猛なサメのギザ歯が噛み千切る。
バナナが転がぬよう気を配り、水平姿勢で床を水中で移動するが如く、小麦肌のツヤめく小女が目標に接近していた。
『あっ──』
彼女は気にしない──。
まだ先端一口しか味わってない栄養源が、空気抵抗で半分以上持って行かれてしまったことなど────そんな些細なことなど…………多少は気にするお年頃かもしれない。
『はむあむっ、ごくん。──しゃあああああああああーくっ!! 踏めぇええええ!』
ラスト一口を食べ切り、小柄な体躯より放たれる、豊富な栄養素はまるでチェダーチーズだっ!
なんて、勿体ない──っ!
『──うわっ!?』
床に落とされた黄色の物体で、トーマスはすっ転び尻餅をつく。
ブンッ
鉄屑から繰り出される攻撃が、彼の頭上を通過した。
『いってぇ──ん? バナナの……皮? ──どぅあっ?!』
ブンッ
思考する余裕が与えられる間もなく、またたく間にトーマスは液状化した地面に引き摺り込まれ、彼女の地面に向けた一撃が空振りする。
次の瞬間──引き摺り込まれた者と引き摺り込んだ張本人が姿を現した。
『ミスター・トーマス、ご無事──ッ?!』
ツヤのある小麦肌の腕が彼の首根っこを摑んでいた。
『ジョーズ──ッ?!』
向けられるトーマスの視線を気にも留めることなく、液状化させた地面から飛び出すと、自身の体質を足場の固さに合わせて着地する褐色小女。
目の前で立て続けに起こった出来事に、トーマスの頭は処理が間に合っていないようだ。
そんな混乱する彼をジョーズはゆっくりと地べたに下ろした。
『いい歳してバナナの皮で転ぶの、みっともないわよ? 見事なまでの弾道落下計算には、自分でも惚れ惚れしちゃうわ』
『その物言い……まさか?! 皮剥いて投げたのはお前か──ッ!!』
『…………あらっ、何のこと?』
『おい。その間は何だ、その間はっ!』
『あたいには少しばかりか、全然分からないかも──?』
ザブンっ
ドンッ!
彼女たちのいた場所は、パンチによるクレーターで大きく凹んだ。
『小腹用にってミスター・スティーブンが携帯してた物を、すこ〜し拝借したの。あぁ心配しなくても、しっかり全部丸裸よっ』
『なるほどな……って、結局お前じゃないかっ!』
ザブンっ
ズドンッ!
『ぷはっ。潜水する時は言ってくれっ。心臓に悪い』
『あらごめんなさい。もしかして……チビッちゃった?』
彼女は自分の真横にドサリっとトーマスをぞんざいに置いた。
『イタ……ッ! もっと丁寧な下ろし方できないのか?!』
褐色小女に呆れた視線を送りつつ、彼は両手で全身をささえながら立ち上がる。
『ほんっと注文が多いわね。女の子を扱き使わせるんじゃないのっ。男が扱き使わされる料理人じゃないとっ。それに、乙女は筋肉量が少なくて重たいもの運べないのよっ。軽々とモテない男と比べて、乙女は丹精込めて料理に時間を充てるのよ?』
ジョーズはトーマスに向き直り、ガラス細工のように、繊細で、愛狂しく、幼気のあるひ弱な乙女の在り方と『その尻に敷かれるべきは、男だ……っ!』と、さも当たり前のように語った。
『乙女? ──ぶふっ!』
彼女の言葉に思わずトーマスは吹いてしまった。
『|Filter's broken, huh《フィルターのネジが飛んでったの?》? Looks like a restless error just |bounced your sense《シー」をたった今ド》 of decency |into the gutter《ったのかしらっ?》.』
鼓膜へ飛び込む言葉の圧がトーマスの感情メモリに侵食し、ストレージが恐怖で完全に支配されるまで、約5秒。
特殊な呪文を早口で唱え、ジョーズは彼を捲し立てた。
『……そういう所であたいの好感度が──下・が・ん・の・よ♡』
ベチン──ッ! と、スベスベ太しっぽがタイルを叩き鳴らし反響する。
『──ボス以外の男って、なんでこう、デリカシーもへったくれもないのかしらねっ』
満面の笑みと冷気を宿した鋭い眼光が、押し黙る白衣の男を離さない。
『おバカさん。そのお口、チャックしてなさい──』
『あ……ぐぇ──っ!?』
不意に彼の襟元の白衣を、不機嫌な彼女にぐいっと引き寄せられる。
『──言ったじゃない……静かにって。ちゃんとファスナー閉めてなきゃダメじゃないっ。あたいの口で襲われたくないでしょっ?』
そのすぐ真横を俺っ娘オルカの鉄拳が振り落とされたと、トーマスは遅れて理解した。
『とにもかくにも、作業のおジャマンボウなの。ほらほらっ、 潰れたくなきゃ呼吸止めて、とっとと下がって下がって……!』
シッシッと、小女の指先が空を切った。
『待て──作業ってどういうことだ?』
『あたいたちの計画には、不向きだったってことよ。命令が下ったの、上層部から。──始末しろ、ってね。そんじゃっ──』
ズドッ! ピュン──ッ
瞬間、タイルの破片と強風が舞い上がった。
受け取った情報を脳は最初に認知・処理を行い、次に判断し、最後に身体で反応を示す。
この過程を終えるまでに──ほんの僅かだけ。
意識が無によって途切れ、スキマが現れる。
そこへ強烈な印象でパンクさせれば、どうなるか……。
答えは至極簡単──キャパオーバーで情報が外へ吐き出され、一時的に頭はリセットされる。
だから──人間に到達不可能な領域身体速度を以てして、ジョーズは出来うる限りの力で地面を蹴り、あえて脳裏に五感衝撃──視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚を強烈な何かで麻痺させること──を与えることで、彼女は意図的にトーマスの引き出しを破裂させた。
そして、速度を維持したまま「獣人化──W2──」を展開し、ジョーズの身体全体をサメ肌が覆う。
床に潜水後、真正面から敵に突っ込んだ。




