25話・『ディアラ・アルドネア』
視界に広がる青い空。そこに流れるのは、まるで生き物のような巨大な雲。緩やかな風に乗せられ、雄大な空を泳ぐ様を見ると、その視界だけで世界の巨大さを伺える。
何度ここを通ったことだろうか。
青海の引くリヤカーがもたらす重みが、どこか心地良く感じ始めたのはいつくらいだろう。
突如見ず知らずの異世界に、住んでいた商店街ごと飛ばされ。右も左もわからない状況に置かれ。
この世界に住まう人間との出会いを経て、なんとか身を置くことを納得して、許され。
商店街に通じる電気や水は、元の世界に住んでいた時と変わらず使用できることに奇妙さと疑問が残るものの、青海達は日々の生活に追われ、そこにまで考えを巡らせる余裕はなく。
だが、水だけで命が繋げられるわけでもないわけで。
商店街内はまだ食料はあるものの、これからのことを考えると、それだけに頼るのは得策ではない。
この世界の人間が食したことがないであろう、パン屋さんが作る商品だけが、この世界で生命を繋ぐお金を生む手段で。
この世界で出会った仲間の口添えもあり、商店街の外で田畑を耕し、作ったパンを売りに出したり、細々と、それでいて着実にこの世界に生活の根を刺していった。
当初はエルドルトの騎士を護衛と伴って引いていたリヤカーも、ひとりで往来できるようになったのは、この世界に慣れてきた証拠だろうか。
だが、口酸っぱく戒められているのは、危機を感じた時は荷物を放棄してすぐに逃げること。
腰に剣をぶら下げて、少しは戦う心得があったとしても、青海は素人の域を出ない剣士とも呼べないのだ。
今日も今日とて、出来立てのパンを幼馴染みである実野梨のバイト先である銀竜亭に卸した帰りだ。
エルドルト騎士団有するエルドルトから商店街までは、本来の街道から外れた場所にあるため、道の整備もままなっていない。
そこの交通の利便性を改善するにも金はかかる。もし、整備するのだとしても、複雑な規律や障害があるだろうし、こちらも金銭面で負担しなければならないだろう。今後のことを考えると、街道を商店街まで繋げ、安全性を担保しなければならない。
アロプスやドロテアと言った獣はちゃんとした設備が整って居れば、人里に攻め込むことはまずないらしい。
商店街が野生の獣に襲われた原因は、彼らのテリトリーに商店街が丸ごと鎮座してしまったことにある。生物の領域に青海達が迷い込み、住み着いてしまったに過ぎない。そう考えると心苦しくもあるが、こっちも生きるのに必死なのだ。
・・・その前に元の世界に帰れれば、それが一番良いのだが。
エルドルトを出て、青海は暫く道なりにリヤカーを引く。
先程まで喧騒に包まれた街も、城壁を隔てるだけでこうも遠い世界のことのように思える。
青海は、積んだパンと引き換えに、商店街のための生活用品を乗せ、商店街に帰宅の路だ。
吹き抜ける風を感じながら、持ち手を引き続ける。
こんなことをいつまで続けるのだろうか。
商店街の人は、子供である自分達に不安を与えないよう、一貫して努めて明るく振る舞っている。
目減りしていく備蓄の中でも、最優先に若い青海達に回してくれていたり。
それを改善しようと動く青海の焦りを知ってなお。
いや、敢えてそう振る舞っているのだろう。
実野梨もいつか言っていた。
焦らず。ゆっくりと。
だから、青海は自分のできることを確実に。
それしか、前に進む方法はないのだから。
そんな考えを空に流れる雲と同じ速度で見ていた時。自然にはない音が聞こえる。
それが、人の発する声だと気付いたのは間もなくで。
街道の向こうから、何者かが走ってくる影が見える。
青海に緊張感が走る。
大国エルドルトのお膝元。野党やならず者の話も聞いていない訳ではない。事実、エルドルトで実野梨が攫われかけたこともある。
そのシルエットが大きくなるに連れて、野党の線は薄れた。それは複数の影ではなく、ひとりの姿しか認められないからだ。だが、緊張は切らさない。
女性だ。
その女性は駆けながら、しきりに背後を気にしている。その奇妙な理由が青海にはすぐに分かった。
女性の背後、数10メートル。
二足歩行で駆ける巨体がその後を追っている。そのシルエットに、青海も覚えがある。
サイズとしては、大型犬を一回り大きくした程だろうか。元いた世界にも、これくらいのサイズはいただろうが、こうして直に目の前で見るのとでは、威圧感の質が違う。
茶褐色を起点にした斑がかる体毛。まさに大型犬と言われれば納得してしまうフォルム。どちらかというと狼に近い。
デゥルスと呼ばれる、肉食の獣だ。2、3頭の小さな群れで移動し、獲物を狩る。夜行性であるアロプスと対をなすかのように存在する、昼の世界での脅威だ。
幸いに、青海は何度か対峙したが、致命的な怪我も追うことなく退けられてきた。その行動原理は群れの仲間を守ることであり、こちらから仕掛けさえしなければ、交戦することはない。だが、デゥルスが狩りの最中ならば話は別だ。
今、女性が追われている理由が何にせよ、このまま見過ごす選択肢はない。
青海は背負う荷台をその場に置き、腰に下げた刀の感触を確かめつつ、草原の上を駆けだすのだった。
全身を覆うローブは女性の足を絡め、デゥルスを撒くほどの速度ではない。
逃げ切れないことを悟ったのか、女性は踵を返し、デゥルスに正面を切る。
速度を落としている原因はその服装だけでなく、手にする四角い重量のありそうなカバンの所為もあるだろう。
自分達の世界で言うトランクケースのような荷物を地面に置き、そこに差してある細長い杖のような物を手に取る。実際それは杖であるらしく、勇ましくも構える。
デゥルス相手に杖で立ち向かうのは、この世界の住人でなければ無謀に思えることだろう。
恐らく、その女性は操術師の類と思われる。かといって、安心できない状況であるのは確かだ。何しろ、数では分があるからだ。
何とかその光景を全景に治める程に近づき、駆ける。
ちょうど女性とデゥルスの間辺りに割り込み。女性に対して自分が敵意がないことを示すため、青海は彼女に背を向け、デゥルスと対峙する。
日の光に照らされ、銀色の刃は勇ましい輝きを放つ。だが、その威光が本能で動く生物に効くのか。
唸り声を上げるデゥルスからしてみれば、もしかしたら獲物が増えた、位にしか感じていないのかも知れない。
冷静に構えてはいるが、今でも柄を必要以上の力を持って握り込む癖が治らない。
あくまで牽制、威嚇。相手を斬り伏せて退けるのは、その先の話だ。未だそんな甘っちょろい考えを持っているのか、とクロノには叱られてはいるが。
何も全ての敵を斬って倒す必要はない。生きるために必要な、必要最低限の命だけ。それすらもエゴだというのは重々理解している。だけど、その躊躇いが元の世界へ帰る時間を遠ざけているのだとしても、青海は剣を振るう覚悟をやめない。
6つの目が青海を捉える。ぐるる、と威嚇を込めた唸り声が恐怖を駆り立て。
ひゅっ、ひゅん。と剣を掠める。追い払うつもりで銀光を振る。だが、その牽制は、相手の野生を煽るもので。
一体のデゥルスの地面を噛む前足を踏みしめる。踏ん張るように、爪が草を押し付けた。
草を押し分け、地面を飛ぶ全長を読み切り、青海は身体を大きく反らせ。
弧を描いて飛びかかる茶毛の塊を視界の収め、思い切り刀を振るう!
刀の『峰』がすれ違い様にデゥルスの腹部に叩き込まれ。
「ギャウン!」と、悲痛な声が吐き出され、デゥルスはもんどり打って地面に転がった。
睨みを効かせながら起き上がったデゥルスは、残る仲間と凝視の威力を強めて青海に睨み返すも。その一太刀の威力は想像以上だったようで。仲間の一体がにべもなくやられたのを見て萎縮したのか、逆立つ毛は鳴りを潜め、同様に尾も地面に擦り付けるほどに垂れ下がり、警戒をより一層強めながら、ジリジリと間合いを離し始めた。やがては、遠目からでもシュンとするように身体を縮こませ、青海の前から去っていった。
可哀想だが、彼らのために青海が餌になるわけにもいかない。
「・・・ふぅ」
青海は完全にデゥルスが遠い地平の彼方に消えたのを確かめ、手にした刀を腰の鞘に収める。
そして。
振り返ると、そこには不安に顔を染めた女性が、突如現れた青海に警戒の色を滲ませている。手にした杖を胸に寄せ、いつでも逃げ出せるように、置いたトランクの元へにじり寄り。
「あ、すみません。怪しい者ではないんですけど」
完全に説得力とは掛け離れた言い訳だ。武器を携えた怪しい男が現れ、それが純粋に助けに来たと思うだろうか。
ここは素直に引いたほうが、女性も安心するだろう。
青海はリヤカーの方向へ向かおうと、背を向けたその瞬間。
「・・・もしかして、アオミ、さんですか?」
想像の上を行く声を聞き、青海は思わず振り返ったのだった。
「助けて頂いたのに、失礼な態度を・・・。申し訳ありません」
女性は、深々を腰を折って頭を垂れた。深い、亜麻色の髪がそれに従って追従する。
歳の頃なら、青海よりも一回り程は上だろうか。大人の魅力の漂う女性だ。当然のことながら、青海はその女性に見覚えはない。
女性は自分の名を『ディアラ・アルドネア』と名乗った。やはりその名にも覚えはない。街の何処かで顔合わせをしたのかとも思ったが、彼女はここより別の地から、エルドルトに向かう旅の途中なのだという。そこで、運悪く街道に近づいていたデゥルスと鉢合わせ、追われる運びとなったらしい。
「・・・姪が。姪の言っていた話と一致していたので」と、ディアラ。
姪。
つまり、ディアラの親族か誰かが青海のことを喋ったのか。姪ということは女子だよな。
どちらにせよ、この世界の女の子との接点など、たかが知れている。
「片刃の剣を携え、見慣れぬ衣服を身に纏い」
ディアラの澄んだ目が青海の顔を見つめ。
「そして、とても勇気ある若者だと」
・・・身体的特徴はともかく、最後の一文に関しては、途中でどこかの誰かと間違っているのでは、とすら思う。
なんとなく気恥ずかしさを感じ、青海はディアラから視線を外しながら。
「・・・行き先はエルドルトですよね」
そこがディアラの目的地ではあるらしい。
「もしよかったら、エルドルトまで護衛しましょうか」
これもまた、クロノからしてみれば生意気以外の何者でもないだろう。まだ、自分の身を守ることもままならないのに。だが、さっきみたいなことが起こらないとも限らない。
ディアラは、口元に指を添え、しばしの逡巡。ここからエルドルトは目と鼻の先だ。護衛するまでの距離でもないかも知れないが。
そして。
「・・・お願い出来ますでしょうか?」
先ほどとは違い、警戒心の解けた笑顔で青海に微笑み掛けたのだった。




