第8話
レヴィブリール教授との奇跡的な邂逅から1週間程。私は実に有意義な時間を過ごしている。
きっと皆さん、余りにも私が文句ばかり垂れているから、異世界とは野蛮で未発達な文明社会だと勘違いなさってしまっているのではないでしょうか?
ですから弁明しますと、本日の予定は王宮に宛がわれた自室にて朝食を取った後、ソフボン大学へ赴き併設の図書館にて少々地理のお勉強。現在は分厚い図書と睨めっこして疲れた頭を癒すべく、王都内のカフェーにてチョコレートを添えた珈琲をいただいているところ。
ちなみにこのあと王宮にて、交流会という名の第1王子フィリップとのアフタヌーンティーを控えている。更に夜には王との晩餐会に参加予定だ。ほら、なんと優雅で文化的な生活かな。
ああ、王都内のひっそりとしたカフェーで優雅に休憩と洒落こんでいるが、勿論完全なるお忍びである。そりゃそうだ、偉大なる聖女様が下々の前に平然と現われでもしたら、それこそ辺りが大騒ぎになる。まあマリアあたりならやらかしそうで怖いけれど。ただ今あの子は聖都にて癒しの力の制御を司教の下特訓されているようだから、私の様に自由に動ける暇はないのだろう。それに教会府あたりが彼女の行動をきっちり押さえていそうだし。
…え、私は特訓しなくてもいいのかって?それはだね、聖都にいる間に魔術は大分習得してあるのだ。私は決して天才ではないが、理解力は平均程度にはある。そもそも試しとはいえ初っ端から自分で魔術を行使できたのだから、コツは掴んだも同然。その上でヴィザンティ軍団との合同訓練の際にきっちり術式を何個かぶち込んでやったから、私は既にある程度力量が認められている。はっはっは、これが年の功というものだよ、諸君。
ちなみに面倒くさがりの私が態々変装までしてこのカフェーにきているのは、単純にここの珈琲が美味しいからだ。王宮で出されるのは大体ティーであって、唯一珈琲として出されてくるやつはどうも薫りが薄い。元の世界ではイエメンの豆が好きだった。ローストもフレンチイタリアンあたりが好きだったのだが、どうも王宮では珈琲は主流ではないのか、煎りが浅いのだ。味も相当薄い。アメリカンのような水みたいなのでは、カフェインが全く仕事をしてくれないのだ。
とまあ単なる一個人の我儘でもってここに通っているのだが、規律ある中の自由というのは大切なもの。スモーキーな珈琲豆の薫りに、片手には新聞…といきたいところだがこの国にはタブロイド紙の下位互換のようなものしかないので、大学資料庫からかっぱらってきた複数術式についての文書の束。何時もの窓側角の席に陣取り、これで葉巻でもあったら更に最高なんだけれど…と高望みをしてみる。
中々この世界の文化水準というのは複雑だ。生活水準一般に関しては魔法が普及しているせいか、元の世界からみても割と近代化されていると感じる。しかし残念ながら、情報媒体や嗜好品などは微妙なものが多い。残念ながら私の好きな葉巻や、ブランデー・ウィスキー・ウォッカ・ラム等は一般的でないらしい。ワインやパイプなら上流階級の嗜好品や装飾品として一部流通しているようだけど。
ああちなみに私は、葉巻はやるが紙煙草は趣味ではない。ニコチンを肺に入れるのが好きなのではなく、葉巻のあの薫りを楽しむのが至福のひと時なのだ。一方アルコールに関しては中毒ではないものの、うわばみなのでそれなりの量は嗜む。どうも聖女と酒というのは組み合わせが宜しくないのか、まだそういった席に招待されたことがないのだが…。しかし接待といえば酒。恐らくワインの類くらいは出るだろうと期待して待っている。もう少し我儘をいえば、ウォッカあたりがあれば最高なのだが…あれは元々北方の酒だ、それこそ今回の北方民族討伐で勝利できたら、北方民族の物資集積地から探してかっぱらうというのも手かもしれない。
そんな物騒なことを考えていると、カランコロンと入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
ウェイターが丁寧に接客しているのが何となく耳の端で聞こえてくる。
すると一人分のゆったりとした足音がこちらへ近づいてきて、私の座る席の横で止まった。
「失礼、お嬢さん。もしよろしければ、相席させていただいても?」
カップをゆっくりソーサーへ戻し、視線を声のした方向へ向ける。声色で判断した通り、そこには全くの初見の人物が立っていた。
30そこそこくらいの、紳士然とした青年だ。ハットを脱いだ頭は灰青色のさらさらとした髪、その下から水色の瞳が印象的な、端正な顔が覗いている。珍しく眼鏡をかけているのが特徴的だった。鼻の高さが必要な、ハードブリッジタイプの鼻眼鏡だ。
身なりもとても整っている。髪と瞳の色に合わせた紺のスリーピースで、タイとポケットチーフは複雑な織なのか、光沢のあるクリーム色だ。鞄を持つ手に特別な装飾品はなく、ただ右腕に精巧そうな厳つい腕時計が嵌められている。
立地が裏通りにあることもあり、この店は基本的に客が少ない。しかもこの中途半端な時間にやってきている客は、私一人のみ。つまり、他に席はがら空きということだ。なのに相席を求めてくる?…ふむ、これは私が誰だか分かって秘密裡に接触を図ってきたな。しかしこの店には数日間しか通っていないというのに、随分熱心なお客様だ。その熱烈さに免じて、試しに話し相手にでもなるか。
「どうぞ、向かいでよければ空いておりますので」
青年は一礼すると向かいの席に着席し、ウェイターが運んできた珈琲を一瞥すると私の方を向いてくる。
「お嬢さんはよくこちらの店に?」
「ええ、ここは大通りの喧騒もありませんし、落ち着いて時間を過ごせるので気に入っているんです」
「そうですか、お若い女性でしたら表通り1番街のあそこ、何と言ったかな?マドレーヌが美味しいお店があったでしょう。店内も女性向けに洒落ているようだし、ああいったところを好むかと思いましたが」
「ああ、ラ・フルールでしょう、フィナンシェも美味しいですね。確かに王都の中でも随一の人気を誇るパティスリーですよ、あそこは」
「そうでしょう。よく行列が出来ている。…と、するとあれですか、もしかするとこの店にも何か特別な一品が?」
「おや、気づかれました?実はここ、王都内でも一品級の珈琲が味わえるのですよ。更に付いてくるチョコレートもなかなかのものです」
「なんと、貴女のようなうら若くて洗練された女性には珍しい!紅茶ではなく珈琲を嗜まれるとは」
「意外ですか?こんな小娘が苦い黒い液体を好むのは」
「いえいえそんな、私ととても趣味が合うと知って嬉しいですよ!何せここの珈琲は薫りが良い。私も濃厚な珈琲に飢えていたところでして」
一つこの男に関しての情報が増えた。この男は濃厚な珈琲の味を知っている。つまり、この国主流ではない文化を知っている可能性もある。
そもそもこの男、その出で立ちからして少しばかり留意点があるのだ。
整えられたスーツ姿とシルクハット、高級そうな革の鞄は、所謂この国の中流以上の階級紳士が街を歩くのによくある姿だ。
ただしその腕にはめられた腕時計。これはこの世界に来てからお目にかかったことのなかった一品である。もちろんこの国にも時計は存在するが、精々金のある貴族の持つ懐中時計しか見たことがない。
そしてよく見るとその襟元から、チョーカーのようなものが覗いている。中央には丸いロケットのような金属が三連になっていて、目を凝らすとその表面には繊細な彫金がなされているのが見えた。何らかの紋章だろうか?
少し試してやろうではないか。
「とても宜しい趣味をなさっていますね。これで葉巻の一本でもあれば更にいいのだけれど…」
「ああ、お嬢さんは葉巻もやるのですか」
ははあ、これは当たりだ。
この国では葉巻はほぼ存在を知られていない。一般市民に普及していないのではない、上流階級ですら、知らないはずなのである。
それを目の前の彼は「葉巻をやる」と表現した。明らかに葉巻を吸うことを習慣としている者の言い草である。
きっと彼は、こちらが聖女、ないし異世界からやってきた特殊な人間であるという事前情報をもっている。だから、私がこの国にあるはずのないものを話しても特にそこには突っ込まなかった。そしてなおかつ、彼はこの国の文化圏とは異なる土地から来ている可能性がある。思わず異世界人の感覚に合わせようとして出た言葉なのだろうが、それはつまり、この世界にこの国以外に彼の様な文化的水準の高い人間の住む地域ないし国家があるということだ。
なんとなんとこれは。楽しくなってきたじゃないか、と警戒心より好奇心が勝っていくのが感じられた。
「まあ、この国ではパイプが主流のようですけれどね?」
にこりと微笑んで珈琲をすする。私も貴方も手札を一枚見せ合った状態。さて、貴方は私に何を求めにきたのだい?
すると彼も笑顔をつくって次の話題を提供してきた。
「そういえば、お嬢さんは随分と難しそうなものをお読みになっていらっしゃるようだ」
彼の視線の先には、私が横にほっぽっていた複数術式についての文書たち。
「ええまあ、一身上の都合により色々と勉強をしなければならないものでして」
「“魔力誘導変数の書き換えによる術式の複数展開の可能性について”…成程、ソフボン大学はロベール王国の中でも優秀な学者たちが集まっていると聞きますからね。そういったテーマに関しても積極的なアプローチがなされているのでしょう」
そういう彼の様子を注意深く観察していたが、文書そのものに対する興味は大してないようだ。というより、いっそ軽視しているような目つきでもある。
もしかして、彼の周囲の環境ではより高度な魔法運用が既になされている?
だとしたら彼との接触は、私にとっても好機足り得る。これは是非とも彼の所属する団体が如何なるものかを明らかにせねば!
いや、それよりまずは彼が私の敵か味方かを判別しなければいけないのか。だがこうして接触してきたのを見る限り、彼は私の実状把握もしくは接触自体が目的なのではないだろうか。暗殺とかなら、この店の常連だと知れている時点でいくらでも刺客を放ったりなんなりできるはずだし。少なくとも向こうから姿を現したということは、彼は現段階においては敵たる者ではない。味方とも限らないが。一番あり得るのは、利用価値を見極めるために送り込まれてきた人員といったところだが、はてさて如何に。
「貴方はこういったテーマに対して特段興味がないようですね」
「いえいえそんな。まあどちらかというと、どのように研究がなされているのかといった方に興味はありますがね」
「成程。貴方は随分魔法についてお詳しくていらっしゃるようです」
「そこまで詳しいというわけではありませんよ。実際学術的なことはそこまで知見があるわけではありません」
「しかし、知ってはいらっしゃる」
そうして彼の眼鏡越しの瞳をじっと見つめた。
彼は学術的に魔法運用に関して知識が深いわけではない。しかし、更に高度な魔法運用ができるということを知っているのだ。そして彼は、それを隠すことなく私に示唆してきた。
さて、彼のこの会話においての思惑とは?
彼も眼鏡越しに水色の瞳をこちらに向けてくる。数秒間の見つめ合い。
すると先程よりも笑みを深くして、懐から何かを取り出すと差し出してきた。
「お嬢さん、貴女はなかなか見識が深そうに御見受けする。もしよろしければ、私どもがそのお手伝いをできるかもしれませんよ」
差し出されたのは一枚のメモ用紙。
思わずそれを受け取ると、彼は手元の腕時計を見て「そろそろ時間だ」と呟いた。
「さて、お嬢さん。貴女と少しばかりの間ですがお喋りができて大変楽しかったです。もし次の機会があれば、葉巻をくゆらせながらゆっくりとお話しができるといいですね」
そうして彼は、大変スマートにウェイターへ2人分の代金とチップを払うと、颯爽と店の外へ出ていった。
手元にあるメモに書かれているのは、王都の何処かであろう住所と日時、そして『ジャン・カルメル』という人名。
成程、カルメル氏はなかなか王都にお詳しいらしい。
これはレヴィブリール教授の件に続いてついているぞと内心にやりとしながら、私は奢られた珈琲とチョコレートを有難く頂戴したのだった。




