第1話 突然死にかけた(死んでない)
『汝、吾を成せ』
脳裏に声が過ぎった気がした。
首元から何かが抜けていく感覚 。
膝から力が抜けて体が崩れ、掌からコロリと音を立ててペンが床を転がっていく。
私は何をしただろう。最後は試し書きの紙に、買い替え予定のボールペンを走らせただけのはず。
あまりに突然のことで、私は何が起こったのかわからなかった。それこそ、絹を裂くような声が聞こえるまでは。
(何が、起こって?)
パクパクと口は動けど声出なかった。
視界にあるのは、清潔感の漂う白いショッピングモールの壁を染めていく、赤と黒の混ざり合った色。
禍々しいマーブリングのような景色に、客も店員も警備員もが怯え叫んで逃げ惑うのは、至極当然のことだろう。
顔の見えない誰かが尻もちをつく。その服装から男性だったようだが、彼は悲鳴を上げる間もなく、白い何かに包まれて動かなくなった。
彼だけに限らず、足音や声の多くが消えていく。多分、私と同じで、朧げな意識だけが残って。
(これが、死ぬってこと?)
自分から流れ出てゆく何かが血なのか、別の何かなのか。私にはわからない。
ただなんとなく、目を瞑ってしまえば二度と覚めないのだろうな、とは思った。
別に死を望んだ訳ではなく、怪我を求めてもいない。その癖不思議と、ただ運が悪かっただけだなんて、仄かな諦念が浮かんでくる。
(こんなにあっけなくても、残された人は悲しむの、でしょうね。父さん、母さん、ごめんなさい)
ゆっくり暗く、狭まっていく世界。何もかもが歪み、全てに対し鈍感になっていく様を感じながらも、私にはどうすることもできなかった。
「――先生、この人!」
どこで聞いた話だったやら。人は死ぬ前、最後まで残るのは音だと言うのは、嘘じゃなかったらしい。
どこかガラス越しのようにも聞こえた女性の声は、驚いた様子で誰かを呼んでいた。
「はぁいはい、今度はなんですかっと……おんやまぁ、こりゃあ何とも。全部吸いきられてないなんてねぇ。アレの食が細いのか、このお嬢やんの味が悪いのか、それとも……」
それに呼応したのは、これまた聞いたことのない男の声。
曖昧な視界に黒い何かが映ったが、もう考えるなんて私にはできなかった。
「呑気に考察してる場合じゃないでしょ! 先生ならまだ――」
「そォんなケンケン吠えんでも、わかってますって。相変わらず、ととはせっかちでいけねぇ」
コツン、と何かが鳴った気がする。
「とはいえ、外法に因って生き長らえるは、果たして幸か不幸か。怨嗟の的が必要なら、俺の勝手を恨んでくれても構いませんぜ、お嬢やん」
誰かが何かを言っていた。深い水の中で、水上の誰かから声をかけられるように。それは最早私にとって意味を成せるものではなく、微かに残った意識は、小さな気泡のようにパチリと弾けてどこかへ消えた。
■
キャスターの軋み。エレベーターの電子音。
白くなって黒くなって、また白くなって、身体に少し揺れを感じた。
――天井、動いてる。
白いライトがいくつもゆっくりと通り過ぎ、その向きがぐるりと変わって、二筋の黒い色の線が通り過ぎた所で、天井はようやく動きを止めた。
目を動かしてみる。見えたのは白に近い薄緑色をしたカーテン。
ゆっくりと息を吸って吐く。違和感があると思ったら、何かが口と鼻を覆っているらしい。
ズルリと背中が滑ったような感覚。天井も動かなくなる。
「ここ、は……?」
「あっ! 気がつかれましたぁ?」
視界に入ってきたのは見知らぬ若い女性の顔。その表情は心底安心したように見えた。
「安心してくださぁい、災害保護施設ですよぉ。すぐ先生を呼んできますからねぇ」
そう言い残すと、女性の顔はすぐに引っ込み、パタパタという靴音が遠のいていく。
――災害保護? 何故?
それらの言葉に2つ以上の意味はないだろう。少なくとも、私は知らない。
何がどうなって自分が保護されているのか。寝起き以上にフワフワしている頭を捻っていれば、じわりじわりと欠片のような記憶が浮いてくる。
「そうか。私、モールで、何かに襲われて――なのに、どうして」
思い出した途端、自分の身体が不思議に思えた。
痛みもなく、苦しさもなく、ボンヤリしながらも感覚は普通。むしろ、記憶の方が疑わしいくらいに。
腕を動かしてみる。点滴のチューブが繋がっていたが、少なくとも思った通りに動く。
その手を少し動かして、あの日何かを吸い出されていたような気がする首元に触れてみる。けれど、引っかかるような傷や穴や治療痕があるようには思えず、少しの痛みすら感じない。
「……まさか、白昼夢?」
「失礼、柚本瑞穂さん?」
「あ、はい」
低い声に返事をすれば、視界の片隅に白衣を纏い眼鏡をかけた男性が立っていた。少々いかつい顔だが、その見た目から医者先生なのだろう。
「私、担当医の郷原と言います。気分はどうです?」
「……特に、なにも。普段通り、だと思います」
触覚は着せられているガウンやシーツの肌触りを覚え、少し首を持ち上げれば清潔そうな個室の景色が広がり、郷原先生との会話が通じている以上、耳も声も問題なし。
それを一言で表した結果が、普段通り、だったのだが、どうしてか先生は驚いたように表情を硬くしたが、それも一瞬のこと。そうですか、と頬を緩めた。
「君は、本当に運がいい」
「運、ですか? それは――生きていたから?」
「混乱するのも当然でしょう。そうだね。まずは、東さんの身に起こった事から端的にお話ししましょう」
郷原先生はどこかわざとらしく真剣な表情を作り、その様子に私も少し緊張する。
「およそ2週間前。君は、禁域災害に巻き込まれました」
「……は?」
驚きのあまり変な声がしゃっくりのように出た。別に聞き覚えのない不可思議な言葉だったからではない。
禁域災害。近年、都市部を中心に多発しているそれは、テレビやSNSなんかで語られる曰く、原因不明の空間浸食現象だとか。
それが実際どういうことなのか、私はよく知らない。ただ、巻き込まれた人はほぼ助からないと言われ、学校でもその危険性については語られる。
「それなのに、生きている? 本当に生きているん、ですよね……何故?」
身体のあちこちを軽く叩いてみても、痛くも痒くもない。いや、実は少しだけ首筋が痒かったが、多分これは関係ないだろう。
最後に目をぱちくりと瞬かせれば、先生は困ったように首を振る。
「奇跡か偶然か運命か。保護した直後に色々と検査はさせてもらいましたが、体は至って健康。大きな外傷も見当たらず、強いて言えば首元に小さな痣ができていたくらいで、正直、君についてはわからないことばかりです」
「はぁ。他の人は、違うんですか?」
「そうだね……とりあえず、応えられる範囲でお話ししましょう」
郷原先生は、そう前振りを付けてから、今回の禁域災害について話してくれた。
災害はショッピングモールを中心として何の前兆もなく発生し、避難警報すら間に合わないような速度で、広いエリアが一気に浸食されたこと。
浸食範囲内には多くの客や従業員が居り、そのほとんどが死亡あるいは行方不明となっていること。
僅かな救助者は、ほぼ全員が重症を負って意識不明。稀に意識を回復した者も、重篤な精神異常をきたしており、会話すらままならないような状況で、社会復帰は絶望的であること。
にも関わらず、同じ条件で救助された私だけが、肉体的に一切の損傷が見られず、かつ平然と意識を取り戻していること。成程、やや強面の彼が驚いた顔をするはずである。
「本当に奇跡、なのかしら」
「とはいえ、より高度な検査を複数行う必要はあるから、暫くは施設内で過ごしてもらうことになります。申し訳ないが、そういう決まりでね」
郷原先生の言葉に、初めて僅かな怖さを覚える。
「暫くって、どれくらいですか? 学校や、家族への連絡は……?」
本音を言えば、早く元通りの生活に戻らせてほしい。学生寮に戻って普段通りに高校へ通う、何のことない日常に。何せ、今の自分は意識もハッキリしていて、体もちゃんと動くのだから。
しかし、それは主観でしかない。自分の体は自分が一番わかっている、なんてそんなはずがないのだ。
だからこそ、もしかしてこのまま帰れないのでは、などと言う恐怖が脳裏を過るのも当然だろう。
ただ、郷原先生や看護師であろう女性は、こちらの不安を読み取ってか、優し気な笑みを浮かべた。
「ご心配なく。全ての検査を終えて異常が見つからなければ、すぐにでも出られますよ」
「連絡の方も安心してくださいね。規則上、面会とか直接の連絡はできないけど、あなたの無事については、こちらから伝えておきますから」
「そう、ですか」
どれくらいの検査があるのか、私には想像もつかない。けれど、主観では何も変わったところがなく、先生も現状の数値は健康と言っていた以上、いきなり異常な数値が出て緊急手術とか、何かわけのわからない物が見つかって隔離、なんて話になることはないだろう。
緊張で張り詰めていたからだが、風船から空気が抜けるようにゆっくりと弛緩する。
そんなこちらの様子を安心と見たのか、はたまた伝えるべきことがなくなったのか。郷原先生は、それではまた次の回診で、とだけ言い残し、スリッパをぺたぺた鳴らしながら去っていく。
一方、看護師らしき女性は先生の背中を見送ってから、小さく息を吐いて私の方へ向き直った。
「大丈夫? いきなり色々言われて混乱しなかった?」
「混乱――は、多分大丈夫。それより、あなたは?」
「あっ、ごめんね名乗りもしないで。私、柚本さんのケア担当を務める古甲です。ここに居る間、困ったことがあったら何でも言ってねぇ」
古甲と名乗った彼女は、こちらに視線を合わせて笑いかけてくる。
白いスクラブが眩しく、ポニーテールに纏められた黒髪は艶があって綺麗。背が高くスタイルも良く、顔立ちもナチュラルメイクが映える、美人と呼んで差し支えない大人の女性。
おかげで少々話しづらそうにも思えたのだが、なんでも言って、と間延びした口調で念押しされたのだから、敢えて遠慮する必要もないかと開き直った。
「じゃあ、ここって買い物できるところとか、ありますか?」
「売店なら1階にあるよぉ。コンビニくらいの規模だけど」
「……流石に教科書とか、売ってないですよね?」
少なくとも今のところは健康。ならば、最大の心配事は、帰ってからのことになる。
高校1年の春終わりから、災害とはいえいきなりの長期欠席。出席日数はどうしようもないとしても、何もせず学校の勉強についていけなくなってしまうのは困る。
だが、そう伝えれば、古甲さんは驚いたように目を丸くした。
「柚本さん、真面目だねぇ。私なら、言い訳の必要もないお休み貰えたラッキー、って感じで、ぐーたらしちゃうけどなぁ」
「張り詰めて生きたい訳じゃないけれど、怠けた結果困るのは自分だもの」
「うはぁ、セーロンだぁ……耳が痛ぁい」
苦笑しながら、わわわ、と耳を叩く仕草をする古甲。正直、初対面から馴れ馴れしい人だな、と思う。ついでに歳下未成年の高校生相手だからか、少々子ども扱いされている気がしてならなかった。
だからといって、別にそれが不愉快とまでは思わない。ただ、自分のように人と関わることは面倒で、できるだけ1人で過ごしたいと思っているタイプとは、真逆の人間であろうことは理解出来たが。
「それで、どうなの? 教科書」
「大丈夫、売店にない物は取り寄せできるから。とりあえず、高校1年の教科書類、それから文房具も一緒に、でいいかな?」
「お願いします。それとお金は――」
「あぁ、そこは気にしないでいいよ。施設で保護されてる人が、生活に必要とする物品に関しては、国がお金出してくれるから。もちろん、売店もね」
「……成程」
店とは名ばかり、というところらしい。財布が何処にあるかもわからない身には、正直にありがたい話である。
せっかくだし見に行ってみるか、とベッドから体を起こせば、何を思ったのか古甲がポンと手を叩いた。
「そーだ! せっかくだし、保護施設の中、案内しようかぁ?」
「いえ、大丈夫です」
「そんなこと言わずにぃ! ほら、お姉さんに任せて! ね? 迷ったら困るでしょぉ?」
「大丈夫だから、気にしないで。放っておいて」
誰かと居るのは疲れる。特に見知らぬ環境で、あまり相性の良くなさそうな相手だとなおさら。
とりあえず、古甲が面倒見のいい人なのはわかった。愛想もいいし優しそうに思える。ただ、お節介かつわざとらしくベタベタしたがる感じはマイナス。
一緒に行こうよぉ、と縋る彼女を、1人にして、と一蹴して追い払い、私はスリッパをぺたぺた鳴らし部屋を出た。
施設としては新しいのか、病院のような廊下は全体的に清潔で綺麗。
部屋の前から少し歩けば、すぐに2基の大きなエレベーターがあり、横には非常階段と書かれた分厚い扉。病院と違ってナースステーションのような物はないようで、見舞客や入院患者が使うようなベンチも見当たらない。
(やっぱり、私みたいなのは珍しいんだろうな)
保護されている人がどれくらい居るのかはわからない。ただ、自分以外に出歩く者の影がないことを思うと、少し不気味な気もしていた。
とはいえ、静かなのはいいことだと思考を切り替える。短い期間であろうとも、余計な騒音にイライラさせられることがないのはありがたい。
エレベーターを呼び出せば、女性の機械音声が、4階です、と告げる。
覚えておかねば、と思ったが、いざエレベーターに乗り込んでみれば、ボタンは1から12まであるものの、1と4以外を押しても、この階には止まりませんと言って反応しない。
古甲さんを連れてこなくて正解だった。これでは迷いようもないじゃないか。
1階に降りてみても、その感想は変わらない。エレベーターホールの真正面は売店と出入口になっていて、自動ドア越しには中庭らしき外の景色も見える。
上の階と違い、外にはベンチも置かれていた。職員らしき人の姿もあり、自動ドアへ近づいてみれば普通に開いたため、少なくとも外に出られないということはないらしい。
「ふむ」
一旦自動ドアから離れて売店へ。商品棚を物色し、何処でも見かけるレモンティとチョコレートの棒菓子を1つずつ攫い、一応は自動レジに通してみる。
表示された商品の値段は全くの定価。けれど、支払方法の画面が出て間もなく、私が何をすることもない内から、決済完了の文字が浮かび上がり、ついでレシートが吐き出された。
「ちょっと不安なのだけれど……」
事前に言われていなければ、店員呼び出しボタンを躊躇いなく押したであろう状況である。
言われていてもなお、お金を払わず商品を持ち去る後ろめたさは残り、私はレモンティとチョコ菓子を抱えると、そそくさと中庭へ出た。
施設の建物は円形らしく、それらに周りを囲まれている中庭からは、狭い空の他に外の風景はうかがえない。
ただ、数本植えられて葉陰を落とす庭木と、ペチュニアが咲く花壇は中々雰囲気も悪くなく、私はその一角に置かれたベンチに腰を下ろした。
レモンティにストローを刺す。ただ、口を付けようとしたら、吹き込んできた風が、長い髪の毛を躍らせた。
(ヘアゴムもお願いしないと。いや、それくらいなら売店にあるかも)
今更ながら、いつもと違って下ろしたままの髪は邪魔で、慣れない甚平型の患者衣は胸元が少しスースーしてくすぐったい。
その辺りも、改善できるなら早めにと考え、改めてストローでレモンティを啜り、一息。
その時、どこかでチリンと鈴がなった気がした。
「あ……猫?」
ぐるり見回してみれば、茂みの影から、こちらを見つめる緑と黄色の間みたいな瞳が2つ。
その子は私と目が合うや、驚いたのか怖がったのか、ガサッと生垣を鳴らして逃げてしまった。
野良か施設の飼い猫か。建物に囲まれて隙間のなさそうに見える場所でも、動物が入ってきたりするんだなぁ、とぼんやり思う。煮干しでもあげれば懐いてくれるだろうか。あのモフモフが居てくれるなら、癒しに困ることはないなぁ。
そんなことを考えながら1箱分のチョコ菓子を齧り終えた私は、菓子の箱とレモンティのパックを売店前のゴミ箱に捨てて、のそのそと与えられた個室へ戻ったのだった。
エレベーターに乗り際、ふと背中に感じた視線は、さっきの猫が戻ってきたものであって欲しい。でなければ、多分気のせいだろう。




