25 契約成立
カルディア救護院の特製契約書にサインを終えたキリアンは、昨日のトゲトゲしさが嘘のように、すっかり牙を抜かれて大人しくなっていた。
「……美味い、美味すぎる……。スープが、身体の隅々にまで染み渡るようだ……!」
新築された食堂の席で、彼はルリさん特製の素朴な野菜スープと、焼き立てのパンを涙目で咀嚼していた。
王都のエリート様が、辺境の庶民的なスープに感動している姿をお目にかかることができるなんて。客観的に見ると、なかなかシュールだ。
よっぽど王都の飯、仕事のストレスのせいで砂の味しかしてなかったんだな。
あまりのガツガツした食いっぷりに、料理を運んできたルナちゃんが、ちょっと引いた目で彼を見つめている。
「……ジン殿」
一滴残らずスープを飲み干したキリアンが、上品にリネンで口元を拭いながら、これまでにないほど真剣な面持ちで俺と目を合わせた。その瞳には、昨日までの傲慢さはなく、明確な『敬意』が宿っている。
「報告書には『カルディア救護院に違法な医療行為の事実は認められず、極めて人道的な生活改善指導を行う模範的施設である』と記載し、ギルド長へ提出しよう。王都からの特例予算の枠も、私が責任を持って他の部署から削り出す。……だから、その、毎月の薬草とマニュアルは、確実に私の元へ届けてほしい」
「いやぁ、話が分かる一等査察官様で助かります」
キリアンの前に、茶葉が入った袋と書類を滑らせた。
「あ、これ、今月の分の特製ハーブティーの茶葉と、姿勢調整マニュアルね。王都に帰っても、毎日ちゃんとやるんだよ? サボったら一発で元の生活に逆戻りだからね」
「あ、ああ……分かっている。家宝のように扱おう」
もはや、どっちの立場が上か分からない状態だ。
キリアンは、宝物のように書類と茶葉の入った袋を受け取った。
しかし、彼が王都の紋章が入った重厚な馬車に乗り込む直前、ふと足を止めて俺を振り返った。その表情には、エリート査察官としての「忠告」、あるいは純粋な「警告」の光が宿っていた。
「……最後に、一つだけ忠告だ。今回は私の独断で処理するが、中央医療ギルドの『利権への執念』を甘く見ない方がいい」
「ん? どういうこと?」
横でキリアンの荷物を馬車へ運んでいたガルが、犬耳をピクッと立てて、鋭い瞳でキリアンを睨みつける。
「今回の、痛風が完治した噂だが……実は、ギルド長に直接リークしたのは、このカルディア領の『バルトロ領主の側近』の誰かだ。領主が救護院に肩入れして、多額の予算を投じたことを面白く思っていない者が、お前たちを潰すためにギルドの権力を動かしたのだよ」
「……ふざけんなよ」
ガルが、忌々しそうに地面を蹴った。
なるほどね。ドラマや映画で見たことがある。
金持ちの社長に、ベッタリ引っ付いてるだけの無能なイエスマンが、社長が新しく見つけてきた才能のある若い奴を気に入った途端──自分のポジションを奪われると思って、裏でコソコソ足を引っ張り出すやつ。自分の実力じゃ勝てないからって、上の権力を使うの、マジでダサくてウケる。
「今回は私が『生活改善の範疇』として揉み消すが、これ以上噂が広がれば、次はギルド長直属の『特務査察官』や、お抱えの攻撃魔導師が直接動く可能性がある。……彼らは、私のように話が通じる相手ではない」
キリアンは、一瞬だけ目を伏せた。それだけで、いかに彼らが厄介なのかということが、少しだけ想像できる。
「ジン殿。もし、この場所を守りたいのなら、王都のギルド本部に、お前たちの存在を認めさせるだけの『決定的な大義名分』、あるいは王都の上層部に強固な後ろ盾を作っておくことだ」
キリアンは、それだけ言い残すと、今度こそすっきりとした、昨日より何歳も若返ったような顔で馬車に乗り込み、王都へと去っていった。
砂煙を上げて遠ざかる馬車を、俺とガルは並んで見送る。
「おい、ジン。せっかくあの眼鏡をハメたと思ったら、今度は領主の身内の裏切り者と、ギルドの最高権力者が敵に回るかもしれないってよ。……おい、聞いてるのか? 楽しそうな顔すんな」
ガルが俺の顔を覗き込み、呆れたようにため息をついた。
「いや、だって面白そうじゃん。敵が組織の力で攻めてくるなら、こっちもその組織ごとハメるだけだしさ。キリアン様の言う通り、王都に誰も文句が言えないレベルの『最強の後ろ盾』、作りに行っちゃおうか」
「はぁ!? お前、本当に王都に行く気かよ!? あそこはスラムもあって、医療ギルドの奴らがうじゃうじゃいて……!」
ガルが本気で心配そうな顔をして、俺の服の袖を掴んでくる。相棒、相変わらず心配性で可愛いな。
「いやいや、わざわざこっちからブラック企業の本拠地に乗り込むわけないでしょ。交通費もかかるし。そうじゃなくて、向こうから『お願いだからジン先生、来てください!』って土下座して、高級馬車で迎えに来るような……極上のケアプランをここで仕込むのさ」
「……また、その顔。次は、誰をターゲットにする気だ?」
ガルが引きつつも、どこかワクワクした目を向けてくる。
「ほら、この前ゴルドさんが酒のつまみに話してたじゃん。のすぐ隣の領地にさ、最近隠居してきた『前・国王の相談役』だかっていう超大物貴族が、病気の療養のために引っ越してきてるんだって」
「あ……ああ、確かそんな噂話をしてたな。それがどうしたんだよ?」
「そのおじいちゃん大物貴族をさ、俺のケアプランで劇的に健康にしちゃうわけ。そうすればさ、王都の医療ギルド長がどれだけ権力を振りかざそうが、前・国王の相談役っていう『最強の盾』の前にひれ伏すしかなくなるでしょ?」
俺の脳内では、すでに次のターゲットを釣るための、新しい計画書が猛スピードで書き始められていた。




