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第3話 【眠らせる理由】


田中義雄の診察は月に二回。


提携クリニックの訪問診療だった。


午後三時。


相談室。


施設長の佐久間。


主任介護士の大森。


訪問診療医の井上。


そして長男。


四人がテーブルを囲んでいた。


「最近どうですか?」


井上医師が尋ねる。


大森は苦笑した。


「夜間せん妄、BPSDが強くて。」


「徘徊。」


「暴言。」


「離床も頻回です。」


医師は頷いた。


「転倒は?」


「まだありません。」


まだ。


という言葉が重かった。


介護現場で転倒は事故ではない。


いつか起きるものだ。


皆そう思っている。


長男が口を開く。


「正直、父も辛いと思うんです。」


医師が視線を向ける。


「夜も眠れていないんですよね?」


「ええ。」


長男は少し俯いた。


「職員さんにも迷惑をかけているし。」


誰も否定しなかった。


「薬で落ち着かせることはできませんか。」


沈黙。


医師は慎重だった。


「できます。」


「ただし副作用があります。」


「転倒。」


「誤嚥。」


「日中の眠気。」


長男は迷わなかった。


「お願いします。」


会議終了後。


大森はホッとしていた。


もちろん口には出さない。


だが少しだけ肩の力が抜けた。


ここ数週間。


田中一人で職員の体力は限界だった。


夜勤中。


コール対応中に離床。


離床対応中に別利用者転倒。


転倒対応中に失禁。


失禁対応中に徘徊。


その繰り返し。


新人の美月は知らない。


大森も最初は美月だった。


十数年前。


理想を語っていた。


「利用者第一。」


「尊厳を守る。」


「寄り添う介護。」


今も間違いだとは思っていない。


ただ。


現実が理想を許してくれなかった。


その夜。


電子カルテへ新しい処方が反映された。


クエチアピン追加。


睡眠導入剤増量。


美月は画面を見つめる。


「増えてる・・・。」


隣で大森が言う。


「仕方ないよ。」


「でも・・・。」


「転倒したらもっと大変。」


「・・・。」


「家族も希望してる。」


美月は納得できなかった。


しかし反論もできなかった。


午後十時。


いつもの時間。


田中が立ち上がる。


「帰る!」


そう叫ぼうとして。


言葉が続かなかった。


ふらつく。


椅子へ座る。


そして数分後。


眠った。


静かだった。


驚くほど。


静かだった。


職員たちは顔を見合わせる。


「久しぶりだな。」


誰かが呟く。


「平和だ。」


誰かが笑う。


「今日は仕事進むぞ。」


夜勤開始から初めて。


コール対応が追いついた。


記録も書けた。


失禁対応も終わった。


休憩も取れた。


大森は缶コーヒーを飲んだ。


ここ数ヶ月で初めて。


ゆっくり。


座れた。


その頃。


榊は防犯カメラ映像を見ていた。


眠る田中。


静かなフロア。


笑顔の職員。


本来なら良い光景のはずだった。


だが。


榊には妙な違和感があった。


誰もが安心している。


まるで。


問題が解決したかのように。


しかし。


問題は消えていない。


薬で見えなくなっただけだ。


翌朝。


美月が食堂へ向かう。


田中は車椅子に座っていた。


朝食の時間。


しかし箸を持たない。


視線も合わない。


ぼんやりしている。


「田中さん?」


返事がない。


昨日までの勢いはどこにもなかった。


その姿を見て。


美月の胸に小さな不安が生まれる。


静かになった。


確かに静かになった。


だけど。


これは本当に良くなったと言えるのだろうか。


そしてその日の夕方。


田中は夕食中に初めてむせた。


小さな咳だった。


誰も気に留めなかった。


まだ。


誰も。


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