第24話 【帰りたい】
六月の雨だった。
窓を叩く雨音。
春子はベッドの上で目を閉じていた。
以前より眠る時間が増えた。
起きている時間の方が少ない。
美月は静かに部屋へ入る。
「春子さん。」
ゆっくり目を開く。
「あら。」
「佐藤さん。」
かすれた声。
それでも笑っている。
昼過ぎ。
浩一が面会に来た。
平日だった。
会社を早退してきた。
理由はない。
ただ。
来なければいけない気がした。
部屋へ入る。
春子は起きていた。
窓の外を見ている。
「母さん。」
春子が振り向く。
「あら。」
「浩ちゃん。」
嬉しそうだった。
昔と変わらない顔。
それが余計につらい。
しばらく二人は話した。
孫の話。
天気の話。
近所の話。
どうでもいい話ばかり。
でも。
本当に大事なことだけは話さない。
お互いに。
沈黙。
雨音だけが聞こえる。
そして。
春子がぽつりと言った。
「家に帰りたいな。」
浩一の心臓が止まりそうになる。
「・・・。」
「昔の家。」
春子は窓の外を見る。
「庭に紫陽花あったでしょう。」
浩一は頷く。
覚えている。
母が大事にしていた。
毎年咲いていた。
「見たいな。」
小さな声だった。
浩一は答えられない。
もう家はない。
数年前に売った。
母が施設へ入る時に。
一人では暮らせなかったから。
「そうだね。」
それしか言えない。
春子は微笑んだ。
そして。
「嘘つき。」
浩一は固まる。
春子は笑っていた。
少しだけ。
昔の母親の顔だった。
「もうないんでしょ。」
「・・・。」
「知ってるよ。」
浩一の喉が詰まる。
認知症だから分からないと思っていた。
違った。
全部ではなくても。
分かっていた。
「ごめん。」
浩一が言う。
春子は首を振った。
「謝らなくていい。」
まただ。
最後までそう言う。
「浩ちゃん。」
「うん。」
「頑張ったね。」
その瞬間。
浩一の世界が止まった。
何を言われたのか理解できなかった。
「母さん・・・」
「仕事。」
「子育て。」
「大変だったでしょう。」
浩一の目が潤む。
違う。
違うんだ。
そんな話じゃない。
自分は謝りたいんだ。
もっと会えば良かった。
もっと来れば良かった。
もっと話せば良かった。
それを言いたいのに。
母は最後まで。
自分を労っている。
浩一は顔を伏せた。
涙が落ちる。
一滴。
二滴。
春子は何も言わない。
ただ手を握った。
昔。
自分が子供だった時と同じように。
帰り際。
浩一は部屋の前で立ち止まる。
振り返る。
春子は眠っていた。
いや。
眠っているように見えた。
浩一は扉を閉める。
そして。
誰もいない階段へ向かった。
非常階段。
薄暗い踊り場。
誰も来ない場所。
そこで初めて。
浩一は崩れた。
声を殺す。
肩が震える。
嗚咽が漏れる。
「母さん・・・」
「ごめん・・・」
「ごめん・・・」
何に対してなのか。
自分でも分からない。
ただ。
もう時間がないことだけは分かっていた。
同じ頃。
施設長室。
大森は母親のカルテコピーを見ていた。
かかりつけ医から送られてきた資料。
転倒。
食欲低下。
体重減少。
軽度認知症。
大森の背中に冷たいものが走る。
春子と同じだ。
いや。
違う。
春子じゃない。
自分の母だ。
その事実から。
大森はまだ目を逸らしていた。




