第18話 【経過観察】
春子の酸素飽和度。
88%。
89%。
90%。
少しずつ。
少しずつ。
悪くなっていた。
しかし記録には。
【経過観察】
【様子観察】
【異常なし】
異常じゃないはずがない。
美月は過去三か月分を印刷した。
二十枚。
三十枚。
四十枚。
机に並べる。
そして気付く。
春子だけじゃない。
別の利用者。
また別の利用者。
同じだった。
食事量低下。
体重減少。
覚醒時間減少。
しかし。
記録は。
【経過観察】
【様子観察】
【異常なし】
まるで呪文だった。
その日の夕方。
美月は西田を訪ねた。
退職まで残り二週間。
荷物を整理していた。
「西田さん。」
「ん?」
「経過観察って何ですか。」
西田は少し笑った。
「便利な言葉だ。」
「・・・。」
「何もしなくていいから。」
美月は黙る。
西田は続けた。
「病院ならな。」
「酸素88なら医師報告。」
「検査。」
「治療。」
「原因検索。」
「そうなる。」
「でもここは施設だ。」
「・・・。」
「報告したらどうなる?」
美月は考える。
「受診・・・?」
「そう。」
「家族連絡。」
「送迎調整。」
「受診付き添い。」
「記録。」
「報告書。」
「場合によっては入院。」
西田はため息をつく。
「誰がやる?」
美月は答えられない。
「だから経過観察。」
静かな声だった。
「異常を異常として扱う余裕がないんだ。」
その夜。
春子は珍しく目を開いていた。
美月が訪室すると、
ゆっくりこちらを見る。
「春子さん。」
春子は小さく頷いた。
「苦しくないですか。」
しばらく沈黙。
そして。
「みんな・・・」
「・・・?」
「忙しいから・・・」
美月の動きが止まる。
春子は知っていた。
自分が後回しにされていることを。
「ごめんね・・・」
春子が言った。
「え?」
「迷惑・・・かけて・・・」
美月は言葉を失う。
違う。
逆だ。
迷惑をかけているのは、
春子じゃない。
助けられていない自分たちだ。
翌日。
榊は介護報酬の資料を見ていた。
要介護5。
医療依存度高い。
認知症重度。
受け入れるほど施設収入は増える。
しかし。
必要な職員数は、
それ以上に増える。
採算は悪化する。
なのに。
受け入れなければ空床になる。
経営が苦しくなる。
佐久間施設長の言葉を思い出す。
「施設を潰すわけにはいかない。」
榊は初めて理解する。
佐久間は保身だけじゃない。
本当に潰れる可能性があるのだ。
その日の会議。
事務長が資料を配る。
来月の収支予測。
赤字。
再来月。
赤字。
三か月後。
さらに赤字。
会議室が静まり返る。
そして事務長が言う。
「人件費削減が必要です。」
誰も声を出さない。
もう削る場所などない。
現場は知っている。
削るのは人件費ではない。
利用者に使う時間だ。
もうずっと前から。
会議後。
大森は一人で残っていた。
資料を見つめる。
赤字。
赤字。
赤字。
そして小さく呟く。
「山下は正しかったな・・・」
五年前。
記録改ざんを問題にした山下。
あの時は反発した。
現場を知らない理想論だと思った。
でも今は違う。
正しかった。
正しかったけど。
どうにもならなかった。
その時。
大森の近くで電話が鳴る。
着信。
春子の長男。
大森は出る。
「お世話になっています。」
電話の向こうの声。
「母なんですが。」
「最近少し痩せましたか?」
大森の表情が止まる。
ついに。
家族が気付き始めた。




