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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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9/9

9話 割れたガラス

 八月十二日、金曜日。

 美月は水族館に着くなり、空気が違うことに気づいた。

 正面入口の前にパトカーが停まっていた。二台。回転灯は消えているが、無線の音が漏れていた。入口のガラス扉の向こうに、制服の警察官が立っている。

 開館前の朝九時。普段なら、父がバックヤードで餌の調合をしている時間だ。美月は夏休みの間、毎朝九時半に水族館に来て、開館前の一時間を父の仕事を見ながら過ごしていた。

 今朝は、父の姿が見えなかった。

「——入れないよ」

 声をかけてきたのは佐藤だった。駐車場の脇、自販機の前に立っていた。缶コーヒーを持っているが、飲んでいない。開けてもいなかった。

「何があったの」

「搬入口のガラスが割れてた。バックヤードも荒れてる」

「お父さんは」

「中にいる。警察に説明してる」

 佐藤の顔から、いつもの軽さが消えていた。眉間に皺が寄っている。美月は佐藤のこんな顔を見たことがなかった。

「佐藤さん。何があったの」

「……人が倒れてた」

「え」

「バックヤードの奥。通路の突き当たりに、人が倒れてた。朝、主任——お前のお父さんが出勤して見つけた」

 美月の手から、リュックの肩紐がずり落ちた。

「死んだの」

「いや。意識はある。救急車で運ばれた。頭から血が出てたけど、命に別状はないって」

「誰」

 佐藤が一瞬だけ口ごもった。

「……知らない人間だ。少なくとも、うちの職員じゃない」


   *


 美月は佐藤に連れられて、職員用の通用口から館内に入った。警察は正面玄関と搬入口を封鎖していたが、通用口は開いていた。

 事務室に大野がいた。館長の顔は蒼白で、デスクに両手をついて立っていた。座ることもできないほど動揺している。

「美月ちゃん。今日は帰りなさい」

「お父さんに会いたい」

「お父さんは今、警察の人と話してるんだ。終わったら連絡する」

「何があったか教えてください」

 大野が佐藤を見た。佐藤が小さく頷いた。

 大野がゆっくりと説明した。

 今朝六時半。出勤した雄一が、裏手の搬入口のガラスが割れているのを発見した。内側から割れていた。外側に破片が散らばっている。

 バックヤードに入ると、通路の壁にぶつかった跡があった。コンクリートの壁に、金属製の台車がぶつかってできた擦り傷が二箇所。台車が横倒しになっていた。その横に保冷ボックスが二つ、蓋が開いたまま床に転がっていた。中身は空だった。ボックスの内側には水滴が残っていて、何かが入っていた形跡はあった。

 循環ポンプの弁が、通常とは逆の位置に開いていた。この弁は通常、飼育課長の雄一か、機材管理を担当する佐藤しか触らない。雄一はそれを見て、すぐに異常だと判断した。弁を戻し、水槽の水質を確認した。異常値は出なかったが、カルシウムイオン濃度がわずかに高かった。

 そして、通路の突き当たり——ポンプ室の手前で、男が倒れていた。頭部に裂傷。意識はあったが朦朧としていた。雄一が救急車と警察を呼んだ。六時四十五分。到着した警察に、雄一は状況を説明した。最後に退館したのは何時かと聞かれて、「二十二時十五分に施錠して帰りました」と答えた。美月と自転車で帰った後、水槽の夜間点検のために一人で館に戻り、二十二時十五分に正面玄関を施錠した。

「倒れてた人は、誰なんですか」

「名前は山田。海洋生物の仕入れ業者だそうだ。警察がそう言ってた。うちに出入りしたことはあるが、なぜ深夜のバックヤードにいたのかはわからない」

「保冷ボックスの中身は」

 大野が言葉を切った。佐藤が代わりに言った。

「空だった。搬入口の外にも何もなかった。中身がどこに行ったのかは、今のところわかっていない」

 美月はノートを取り出した。リュックの一番上、いつでも開ける位置に入れてある。昨日の記録。三十五日目。備考欄「特になし」。

 ——今日は三十六日目のはずだった。

 三十六日目の記録は、たぶん書けない。


   *


 十時過ぎに、父が事務室に戻ってきた。

 疲れた顔をしていた。作業着ではなく、出勤時の私服のまま。警察に呼ばれて、着替える暇もなかったのだろう。目の下に隈がある。いつもは朝五時に起きて体操をする人が、今朝は六時半の出勤時から走り続けている顔だった。

「美月。来てたのか」

「うん」

「……ごめん。今日は帰ってくれ。夜に迎えに行く」

「お父さん。循環弁が逆だったって」

 雄一が足を止めた。

「大野さんに聞いた」

「……ああ」

「弁が逆っていうのは、排水側が開いてたってこと?」

「美月」

「排水側が開いてたら、ポンプ室の配管から水槽に繋がるラインが露出する。そこから何かを水槽に入れられるってこと?」

 雄一が美月を見た。娘の目。ノートの上でデータを照合するときの目と同じだった。

「——帰りなさい」

「お父さん」

「帰れ」

 初めて聞く声だった。怒っているのではなかった。震えていた。

 美月はリュックを背負い直して、通用口から外に出た。夏の朝の日差しが眩しかった。パトカーはまだ停まっている。鑑識の車も一台増えていた。

 自転車に跨って、ペダルを踏んだ。

 走りながら、頭の中で情報を整理していた。搬入口のガラスは内側から割れた。つまり、中から外へ出ようとした人間がいる。台車と保冷ボックス。中身は空。仕入れ業者の山田が倒れていた。循環弁が逆位置。

 ——昨夜、何があった。

 美月の予測は当たっていた。昨日、父に言った。「明日の夜、バックヤードの音がするかもしれない」。音はした。音だけではなかった。

 自転車を漕ぐ足が重かった。夏の風が生温い。潮の匂いは昨夜と同じはずなのに、別の匂いに感じた。

 ノートを握りしめていた。リュックの中ではなく、いつの間にか手に持っていた。

 三十五日分の記録。お父さんが「一番正直なデータだ」と言ったノート。

 そのノートに、今日書くべきことは何か。

 美月はまだ、わかっていなかった。

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