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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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8話 最後の夜

 八月十日。水曜日。自動運用の日。

 美月はいつものベンチでノートを閉じた。三十五日目。発光ピーク、二十時四十五分。予測値との差なし。備考欄は「特になし」。

 何もない夜だった。バックヤードからの音もなく、クラゲは予定どおりに光り、予定どおりに消えた。美月はそれを少し物足りなく感じている自分に気づいて、首を振った。異常がないことは良いことだ。

「帰るか」

 父の声がバックヤードの方から聞こえた。作業着を脱いで、半袖のポロシャツに着替えている。夏の閉館後は、二人で自転車に乗って帰るのが日課だった。

 駐輪場は水族館の裏手にある。海沿いの道を五分走ると、住宅街に出る。坂を一つ越えれば、美月たちのアパートだ。

 並んで走る二台の自転車。父の方が少しだけ前。車道側を走るのが、いつの頃からか決まった位置だった。母がいた頃は三人で歩いて帰った。母がいなくなって自転車になった。二人分の夕食を買うために、帰り道にスーパーに寄るようになった。今日はもう買い物を済ませてある。冷蔵庫にひき肉がある。たぶんチャーハンだ。

「お父さん」

「ん」

「自動の日はずれない。手動の日は遅れる。それはもうわかった」

「ああ」

「でも、自動の日なのにずれる日がある。早い方に」

「前にも聞いた」

「うん。三十五日分になって、もっとはっきり見えてきた。自動の日の早いずれは、全部で七回あった。三日から五日の間隔で。全部、バックヤードの音と重なってる」

 自転車のライトが路面を照らしている。夜の海沿いの道は街灯が少ない。波の音が左手から聞こえる。

「お父さんは、バックヤードで夜に作業するとき、水槽に触る?」

「触らない。夜間作業は餌の調合と機材の点検がほとんどだ。展示水槽には手を出さない」

「じゃあ、誰かが水槽に触ってるってこと?」

「美月」

 父の声が少し硬くなった。

「お前のデータは面白い。科学的に見ても筋が通ってる。でも、『誰かがやってる』という結論に飛ぶのは早い。機械の誤作動かもしれないし、自然変動の範囲かもしれない」

「自然変動はランダムにばらつく。七回とも同じ方向にずれるのは、自然変動じゃない」

 父がペダルを漕ぐ足を緩めた。

「……そうだな」

「お父さんもそう思ってるでしょ」

「思ってる。思ってるが——」

 父は坂を越えるまで黙っていた。アパートの明かりが見えてきた頃、ようやく言った。

「まだ言うな。誰にも」

「なんで」

「証拠がないからだ。データのパターンはある。でも、それが何を意味しているのか、まだわかっていない。わかっていないうちに声を上げると、データそのものの信頼性を疑われる」

 美月はハンドルを握ったまま考えた。父の言うことはわかる。自由研究のコンクールでも、結論が飛躍していると審査員に指摘される。データは事実だが、解釈は事実ではない。

「わかった。もう少し記録する」

「ああ。お前のノートが一番正直なデータだ。正直なまま、続けろ」

 アパートの駐輪場に自転車を停めた。鍵をかける音が二つ重なった。

「お父さん」

「ん」

「明日の夜、バックヤードの音がするかもしれない。前回から四日目だから」

「予測してるのか」

「パターンがあるなら、予測できる」

 父が笑った。デスクライトの下で水質データを読む顔と同じ笑い方だった。

「飼育員に向いてるかもな」

「なりたくない。夏休みがなくなる」

 父がまた笑った。今度は声を出して。

 夜風が潮の匂いを運んできた。夏の終わりが近い匂い。美月は階段を上がりながら、明日の夜のことを考えていた。バックヤードの音が来れば、予測が当たったことになる。来なければ、パターンが崩れたことになる。どちらでもいい。データが増えるだけだ。

 この夜が最後の平穏だったと知るのは、もう少し後のことだ。


   *


 同じ頃。

 森川は事務室で電話をしていた。

「——明後日の金曜で問題ない。二十時以降なら館内は俺だけになる」

 電話の向こうの山田が、何か言った。

「数は前回と同じだ。保冷ボックス二つ。搬入口から入れて、ポンプ室の奥に一時保管する。土曜の早朝に引き取りに来てくれ」

 山田がまた何か言った。今度は声が低かった。

「——金の話は後でいい」

「後じゃ困るんですよ、森川さん。こっちも回すもんがあるんで」

「わかってる。金曜の夜に現金で渡す」

「頼みますよ。次がなかったら、俺も別のルートを探さないといけなくなる」

 森川は受話器を握る手に力がこもるのを感じた。別のルートを探す。それは脅しだった。森川が断れば、山田は他の水族館に話を持ちかける。他の水族館に持ちかけるということは、この密輸ルートの存在が広がるということだ。

「——金曜で。間違いない」

 電話が切れた。

 森川は受話器を置いて、天井を見上げた。事務室の蛍光灯が、白い光を放っている。展示ホールの水槽の光とは違う。冷たくて、平坦で、何も隠さない光。

 デスクの引き出しの奥に、翔太の写真がある。開けなかった。今は見たくなかった。

 水族館を守るために始めたことが、水族館を壊しかけている。わかっていた。わかっていて、止められなかった。山田のルートは金になった。その金で赤字を埋め、設備を直し、翔太の養育費を払った。どこで引き返せたのか。最初の電話に出なければよかったのか。最初の取引を断ればよかったのか。

 もう遅い。

 森川はパソコンの電源を落とし、事務室を出た。廊下の奥のポンプ室の前で足を止め、鍵を確認して、そのまま出口へ向かった。

 明後日の金曜日。搬入は二十時過ぎ。保冷ボックスの中身は、正規の流通には乗らない希少種の海洋生物。行き先は、研究機関を装った個人コレクター。

 それがいつもの手順だった。

 ——いつもどおりのはずだった。

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