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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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7話 館長室の三人

 LUNA照明が手動運用に切り替わって、二週間が経っていた。

 結果は数字に出ていた。

 来館者数が前月比で百十二パーセントに回復した。森川がSNSに投稿した「20時30分のクラゲの光」という動画が三万回再生された。平日の閉館前一時間に若い客が増えた。スマートフォンを構えて水槽の前に立ち、発光の瞬間を待つ人たち。「映える水族館」。そんなコメントがSNSに並んでいた。

 森川の施策は、少なくとも短期的には成功していた。

 同時に、美月のノートの数字も変わっていた。

 LUNA手動操作の日は、発光ピークが平均六分遅れる。紫外線照射のタイミングが日によって異なるためだ。クラゲは照射されてからGFPが励起するまでに一定の時間がかかる。照射が遅ければ発光も遅い。単純な因果関係。

 だが、手動操作のない日にも、依然として「早い方向のずれ」が出ている。こちらは照明では説明がつかない。

 美月だけが、この二重のずれに気づいていた。


   *


 館長の大野が呼んだのは、森川と雄一だけだった。

 館長室は二階の奥にある。応接セットの上に緑茶が三つ並んでいる。大野が自分で淹れた茶で、いつも少しぬるい。

「来館者が増えたのは、正直ありがたい」

 大野がゆっくりと切り出した。白髪交じりの温厚な顔に、安堵が滲んでいる。

「森川くんの施策が当たったということだ。ご苦労さん」

「ありがとうございます。ただ、一過性のバズで終わる可能性はあります。定着させるには、次の手が要ります」

「うん。で、雄一くん」

 大野が雄一の方を見た。

「クラゲの状態はどうだ」

 雄一は手元の資料を開いた。A4一枚に、二週間分の水質データと発光記録がまとめてある。

「水質は正常範囲です。水温、塩分濃度、pH、溶存酸素量、すべて基準値内。ただし——」

「ただし」

「発光パターンにばらつきが出ています。手動操作の日は、発光ピークが平均六分遅延します。紫外線照射のタイミングが日によって変わるので、クラゲの発光サイクルが安定しない」

「それは生体への悪影響があるのか」

「短期的には問題ありません。ただ、長期的にストレスが蓄積するリスクは否定できません。発光強度にも微小な低下傾向が見られます」

 森川が口を開いた。

「微小な低下というのは、来館者にわかるレベルか」

「肉眼ではわからないと思います。計測値で0.3パーセント程度です」

「なら、当面は問題ない」

「0.3が0.5になり、1になり——」

「なった時に考えればいい」

 雄一が黙った。森川の論法はいつもこうだった。「今」問題がないなら「今」は動かない。予防的な措置には興味がない。数字が悪化してから対処する。経営者としては合理的だが、飼育員としては受け入れがたい。

 大野が両手を膝の上に置いた。

「——こうしよう。手動運用は継続する。ただし、週に三日は自動プログラムに戻す。月曜、火曜、木曜は自動。水曜、金曜、土曜は手動。日曜は来館者数を見て判断」

 妥協案だった。どちらにも完全ではないが、どちらも否定しない。大野のやり方だ。

 森川が頷いた。「わかりました」

 雄一も頷いた。「了解です」

 大野がぬるい緑茶を一口飲んで、「じゃあ、そういうことで」と言った。


   *


 館長室を出て、廊下を並んで歩いた。

 二階の廊下は狭い。すれ違うのがやっとの幅で、二人が並ぶと肩がぶつかりそうになる。

 森川が先に口を開いた。

「雄一くん」

「はい」

「0.3パーセントの話だけど」

「ええ」

「あれは、会議のためにわざと小さく言っただろう」

 雄一は足を止めなかった。歩調を変えずに答えた。

「小さくは言ってません。計測値は0.3です」

「計測値はな。でも、お前が本当に気にしてるのは数字じゃないだろう。クラゲの動き方が変わってるんじゃないか。拍動のリズムとか、遊泳パターンとか」

 雄一は少し驚いた。森川は経理の人間だと思っていた。生体のことまで見ているとは思わなかった。

「……気づいてましたか」

「俺だって十五年この仕事をしてる。数字だけ見てると思われるのは心外だ」

 森川が微かに笑った。穏やかな笑み。いつもの笑み。

「雄一くん。俺はこの水族館を潰したくない。お前だってそうだろう」

「そうです」

「なら、お互いの持ち場で最善を尽くそう。俺は金を回す。お前はクラゲを守る。役割分担だ」

「——はい」

 森川は軽く肩を叩いて、階段を降りていった。

 雄一は廊下に立ったまま、森川の背中を見送った。階段を降りていく足音。革靴の硬い音が、コンクリートの壁に反響して消えていく。

 信頼している。この人は本気で水族館を守ろうとしている。それは疑わない。

 ただ、一つだけ気になったことがある。

 森川が「クラゲの動き方」に言及したとき、一瞬だけ——本当に一瞬だけ、目が泳いだ。穏やかな笑みの奥で、何かを計算している目。それは、来館者数を伸ばすための計算とは違う種類のものに見えた。

 言語化できない違和感。飼育員が水槽を見て「何かおかしい」と感じるのと似ている。数値に出ないが、経験がアラートを鳴らす。

 気のせいかもしれない。気のせいだと思いたかった。

 雄一は階段を降りて、バックヤードに向かった。水槽の水温を確認しなければならない。データは午前と午後の二回。いつもどおりの仕事。いつもどおりのルーティン。

 ——夜は計っていない。

 美月の言葉が、ふいに蘇った。午前中の数値では異常がない。午前中の。

 雄一は足を止めた。バックヤードの扉の前で、一瞬だけ、夜間に計測することを考えた。

 ——いや。余計なことは考えるな。

 扉を開けて、いつもどおりの仕事に戻った。

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