3話:観察者の目
二十二日目。
美月は閉館後の展示ホールにいた。来館者がいなくなると、水槽の光だけが残る。循環ポンプの低い唸りと、どこかの排水管を水が落ちる音。この時間の水族館が、美月は一番好きだった。
ベンチにノートを広げ、スマートフォンのストップウォッチ機能を起動する。画面の時計が二十時二十九分を示している。
二十時三十分。天井のLUNA照明が紫外線ライトに切り替わった。青紫色の光が水槽の上面を照らす。水中のオワンクラゲが、まだ反応しない。十五分かけてGFPが紫外線を吸収し、蛍光に変換する。それが通常のパターンだ。
二十時三十三分。最初の一匹が光った。傘の縁が、淡い緑色の線を引く。
二十時三十五分。二匹目、三匹目。群れの中で光が伝播するように広がっていく。
二十時四十四分。ピーク。百五十匹の大半が発光し、水槽全体が緑色に満ちる。
美月はノートに記入した。
7/22(火) LUNA点灯 20:30 発光開始 20:33 ピーク 20:44 備考:通常値
二十二日分のデータが揃った。ノートの見開きページに、美月は手書きの折れ線グラフを作っていた。横軸が日付、縦軸が発光ピーク時刻。
グラフの線は、おおむね二十時四十三分から四十七分の範囲を上下している。その中に、明らかに低い——つまり早い——点が五つあった。
七月七日。十六日。二十日。
そして十一日と十四日にも、二分から三分の前倒しがある。大きなずれではないが、グラフに描くと肉眼でわかる。
五つの点に共通する法則。三日から四日おきという間隔は一見あるようで、完全な周期ではない。曜日はばらばら。天気も水温も無関係。
共通するのは、備考欄の記述だけだった。
7/7 「20:24頃、バックヤード方面から低い音」
7/11 「20:26頃、通気口からかすかに振動」
7/14 「特になし」
7/16 「20:25頃、バックヤード方面からポンプとは違う低い音。20:28に消えた」
7/20 「20:23頃、バックヤード方面から低い音。短い」
五つのうち四つで、バックヤードからの音を記録していた。十四日だけ「特になし」だが、この日は美月が展示ホールではなくトイレに行っていた時間帯があり、聞き逃した可能性がある。
「美月ちゃん、今日も遅くまで頑張ってるね」
声をかけてきたのは佐藤だった。中堅の飼育員で、雄一の五歳下。短く刈った髪に日焼けした肌。いつも作業着のまま館内を歩いている。雄一が「佐藤は俺の次にクラゲをわかってる」と言う、数少ない信頼できる同僚だ。
「佐藤さん、聞いていいですか」
「なに」
「バックヤードで、夜に作業することってありますか」
佐藤が少し考えた。
「あるよ。夜間搬入とか、繁殖水槽のチェックとか。頻度はそんなに多くないけど」
「三日から四日おきに、ということは?」
「んー、決まった周期はないな。必要があればやる、って感じ。なんで?」
「クラゲの光が早まる日と、バックヤードから音がする日が重なるんです」
佐藤がノートのグラフを覗き込んだ。眉が動いた。
「……きれいに出てるな、これ」
「関係あると思いますか」
「わからない。でも、面白いデータだ」
佐藤はグラフの上を指でなぞり、ずれの大きい五つの点を順に確認した。それからノートを美月に返し、少しだけ口を閉じた。何かを考えている顔だった。
「美月ちゃん。このノート、大事にしなよ」
「はい」
「記録ってのはな、書いた時には意味がわからなくても、あとから読み返すと見えるものがある。飼育日誌と同じだ」
佐藤はそう言ってから、声を少し落とした。
「バックヤードの音については、お父さんに聞いてみるといい。俺より詳しいから」
佐藤は軽く手を上げて、バックヤードの方に歩いていった。その背中を見ながら、美月は佐藤の言葉を反芻した。「大事にしなよ」。自由研究のノートに対して使う言葉としては、少しだけ重かった。
*
美月がノートをしまって帰り支度をしていると、廊下の向こうからバックヤードのドアが開く音がした。
出てきたのは森川だった。
副館長の森川は、いつもスーツにネクタイを締めている。飼育員たちが作業着で動き回る中で、森川だけが違う空気をまとっていた。五十代前半。細身で背が高く、銀縁の眼鏡の奥の目が穏やかに笑っている。職員の間では「副館長がいなかったらとっくに潰れてる」と言われるほど、経理と渉外を一手に引き受けている人だ。
笑っているのに、何を考えているのかわからない。美月はいつもそう思っていた。
「美月ちゃん。こんな時間までお疲れさま」
「自由研究の記録をしてました」
「クラゲの発光パターンだっけ。熱心だねえ」
森川が展示ホールの方を見た。水槽の光が廊下まで届いている。
「お父さんは?」
「バックヤードで餌の調合してます」
「そう。じゃあ気をつけて帰ってね」
森川は微笑んで、事務室の方へ歩いていった。
その背中を見送りながら、美月はひとつだけ気になった。
森川の右手にキーリングが握られていた。いくつもの鍵がぶら下がっている。その中の一本を、森川はバックヤードから出てきた直後にポケットにしまった。
ポンプ室の鍵だ、と美月は思った。
先週も、森川がポンプ室のドアを施錠するのを見ていた。副館長だから鍵を持っているのは当たり前だ。おかしなことは何もない。
——何もないはずなのに、備考欄に書きたくなった。
美月はノートを開き直し、今日の備考欄に一行書き足した。
「21:02 森川副館長、バックヤードから出てくる。ポンプ室の鍵」
何のために書いたのか、自分でもわからなかった。ただ、「わからないことは書く」と決めたのだ。
ノートを閉じて、バックヤードに父を迎えに行った。廊下の奥から、餌を計量する電子天秤の短い電子音が聞こえていた。




