2話 自由研究
停電の翌日から、美月のノートは変わった。
それまでの表は五列だった。日付、LUNA点灯時刻、発光開始時刻、ピーク時刻、終了時刻。十二日分のデータが整然と並ぶ、真面目な小学六年生の自由研究。
新しい表は六列になっていた。右端に追加された「備考」の列に、美月は観察中に気づいたことを何でも書き込んだ。
風が強かった。雨が降っていた。来館者が多かった。バックヤードから機械音が聞こえた。
何が発光のずれに関係しているのかわからない以上、すべてを記録するしかない。
十三日目。発光ピーク、二十時四十四分。予測値との差、マイナス一分。誤差の範囲。備考欄には「特になし」。
十四日目。二十時四十五分。差なし。備考「曇り。気温28度」。
十五日目。二十時四十六分。差プラス一分。備考「土曜で来館者多い」。
十六日目——。
二十時三十八分。
予測より七分早い。LUNA照明は二十時三十分に点灯している。わずか八分で発光がピークに達した。普段は十五分かかる。
美月は備考欄にこう書いた。
「20:25頃、バックヤード方面からポンプとは違う低い音。20:28に消えた」
十七日目から十九日目までは通常値に戻った。二十日目にまた四分早い。備考欄を遡ると、十六日目と同じ記述があった。バックヤードからの音。
ノートの余白に、美月は仮説を並べた。
仮説1:曜日が関係している? → 16日目は日曜、20日目は木曜。不一致
仮説2:天気が関係している? → 16日目は晴れ、20日目は曇り。不一致
仮説3:水温が変化している? → お父さんに確認。午前中の計測では異常なし
仮説4:来館者数が関係している? → 16日目は少なく、20日目は普通。不一致
四つの仮説がすべて潰れた。共通点はひとつだけ。バックヤードからの音。
でも、水族館のバックヤードでは毎日何かしらの作業をしている。機材の点検、餌の調合、水質の調整。音がすること自体は珍しくない。
美月はノートを閉じて、考えるのをやめた。データが足りない。もっと記録を増やすしかない。
*
夕食は焼きうどんだった。
雄一が台所に立つと、メニューは大体決まっている。焼きうどん、チャーハン、カレー、パスタ。野菜炒めが申し訳程度に添えられる日もある。
母がいなくなって四年が経つ。料理のレパートリーは増えなかったが、焼きうどんの味は確実に上がった。最初の頃は塩辛くて食べられなかったのを、美月は覚えている。
「お父さん」
「ん」
「クラゲの光って、水温以外で変わることある?」
雄一がフライパンの火を止めた。
「あるよ。塩分濃度、pH、溶存酸素量。あとは餌の量。セレンテラジンの摂取量が変われば発光強度も変わる」
「カルシウムは?」
「カルシウム?」
「授業で習った。イクオリンがカルシウムイオンと反応して光るって」
雄一が皿にうどんを盛りながら答えた。
「そのとおりだ。海水中のカルシウムイオン濃度が変われば、理屈の上では発光パターンに影響する。ただ、展示水槽の海水は人工海水で管理しているから、カルシウムが急に変わることは普通はない」
「普通は」
「ああ。普通は」
美月は焼きうどんを食べながら、「普通じゃないこと」について考えた。
「クラゲの光は嘘をつかないんだよね」
「つかないよ。環境が変われば、光も変わる。それだけだ。人間みたいに都合のいい嘘はつけない」
「じゃあ、光がずれてるのは、水槽の中の何かが変わってるってこと」
「理屈はそうだ」
「でもお父さんは毎日検査して、異常なしって言ってる」
「午前中の数値では異常がない。それは確かだ」
「午前中の」
雄一が箸を止めた。
「……夜は計ってないのか、って言いたいのか」
「言ってない。聞いただけ」
雄一は少し笑った。この子は自分に似ている。問い詰めるのではなく、事実を確認する。飼育員の習性だ。
「夜間の水質計測は、通常はやらない。朝と午後の二回が基準だ」
「ふうん」
美月はそれ以上聞かなかった。焼きうどんの最後の一本を箸でつまんで口に入れ、「ごちそうさま」と言って、自分の皿を流しに運んだ。
*
翌日、学校の昼休み。
「で、どうすんの」
健太が机に頬杖をついて聞いてきた。
健太とは四年生からの付き合いで、理科の実験でペアを組んで以来、何となく話すようになった。背が高くて声が大きくて、教室の隅で本を読んでいる美月とは正反対のタイプだ。ただ、理科だけは異常に好きで、夏休みの自由研究を七月の第一週から始めている人間は、学年で美月と健太の二人しかいない。
「どうするって、何が」
「クラゲだよ。光がずれてるやつ。原因わかったのか」
美月は首を横に振った。
「データが足りない。曜日も天気も水温も関係ない。共通点は、バックヤードから変な音がすることだけ」
「変な音?」
「ポンプとは違う低い音。ずれた日だけ聞こえる」
健太が身を乗り出した。
「それ、原因じゃんか」
「わからない。バックヤードでは毎日何かしてるから」
「じゃあ確かめればいい。ずれた日に何が違うのか、バックヤード側から見ればわかるだろ」
「バックヤードは関係者以外入れないよ」
「お前の親父、飼育員だろ。頼めよ」
美月は黙った。父に頼めば入れてもらえるかもしれない。でも、それは「自由研究」の範囲を超える気がした。自分で観察して、自分で記録して、自分で考える。それが自由研究だと思っていた。
「まだいい。もう少しデータを集める」
「何日分あればいいんだよ」
「わからない。でも、パターンが確定するまで」
健太が呆れた顔をした。
「お前、地味に頑固だよな」
「お父さんに似たの」
「知ってる」
チャイムが鳴った。美月は机の上のノートを閉じた。表紙には「クラゲの発光パターン観察」と書いてある。
その下に、小さく、新しい文字が加わっていた。
「——と、わからないことの記録」




