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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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19話 張り込み

 金曜日。二十時。

 美月は展示ホールのベンチではなく、バックヤードとの境界にある機材庫の影にいた。前回の張り込みから一週間。今日は、もっと近くで見る。

 ポケットにスマートフォン。カメラの準備はしてある。動画ではなく写真。暗い館内でフラッシュを焚けば一発で見つかる。無音シャッターにして、フラッシュをオフにして、感度を最大まで上げた。健太が昼休みに設定してくれた。「こういうのは俺の方が得意だろ」と言って。

 健太は外にいる。前回と同じ植え込みの陰。今回はスマートフォンのカメラも構えている。搬入口から出てくる人間を、外側から撮る。

 二十時十分。佐藤が展示ホールを通った。美月に気づかなかった。機材庫の影は暗くて、しゃがんでいれば見えない。佐藤は正面玄関から出ていった。

 二十時十五分。大野が二階から降りてきた。正面玄関の施錠を確認して、出ていった。駐車場で車のドアが閉まる音。

 二十時二十分。森川が事務室から出てきた。

 階段を降りる足音。革靴。前回と同じだ。展示ホールを横切る。前回は美月のベンチの前を通ったが、今日はベンチに誰もいない。森川は足を止めずに正面玄関へ向かった。

 玄関の鍵が開く音。閉まる音。車のエンジン。遠ざかる。


 健太からメッセージ。

 『スーツの人、車で出た。左に曲がった』


 左。水族館から左に出ると、海沿いの道に出る。住宅街の方向。帰宅ルート。

 美月は待った。二十時二十五分。二十六分。

 膝が痛くなってきた。機材庫の影でしゃがみ続けるのは、想像していたよりつらかった。床はコンクリートで、八月の夜でもひんやりしている。汗が背中を伝って、シャツの裾に溜まった。

 館内は静かだった。循環ポンプの音。空調。水の音。いつもの心臓の音。美月は自分の呼吸の音が大きく聞こえることに気づいて、口で息をするのをやめた。鼻で、ゆっくり。

 二十時二十七分。

 音が来た。

 バックヤードの奥から。断続的な機械音。水を動かしている音。前回と同じ音。同じ時刻。

 美月はスマートフォンのストップウォッチを押した。ボイスメモも起動した。音を録る。

 四分間。二十時三十一分に音が止まった。前回と同じ長さ。

 その直後、LUNA照明が自動点灯した。紫外線の青紫色が展示ホールを照らす。美月は機材庫の影から水槽を見た。クラゲが浮かんでいる。まだ光っていない。

 二十時三十三分。最初の一匹が光った。通常より早い。前回と同じパターン。

 美月はスマートフォンを握って待った。ここからが本番だ。


   *


 二十時三十八分。

 バックヤードのドアが開いた。

 美月は息を止めた。機材庫の影から、五メートル先のバックヤード入口が見える。暗い。展示ホールのLUNA照明の紫色が、かすかにドアの縁を照らしている。

 人影が出てきた。台車を押している。台車の上に、保冷ボックス。二つ。

 暗くて顔は見えない。作業着を着ている。背格好は——。

 美月はスマートフォンを構えた。無音シャッター。一枚。二枚。暗い。写っているかわからない。

 人影が台車を押して、展示ホールの奥——搬入口の方向に向かった。美月は機材庫の影から一歩出た。もう少し近づけば、LUNA照明の光で顔が見えるかもしれない。

 一歩。二歩。三歩。

 水槽の光がかすかに人影の横顔を照らした。

 森川だった。

 スーツではなかった。作業着。紺色の作業着。スーツで退館して、作業着に着替えて戻ってきた。車で左に出て、どこかで停めて、歩いて戻ってきた。通用口か、搬入口か。鍵を持っている人間にしかできないこと。

 美月はシャッターを切った。三枚目。四枚目。

 五枚目を撮ろうとしたとき、足元の配管カバーに靴が当たった。

 金属音。

 小さな音だった。でも、閉館後の水族館は水の音しかしない場所だ。

 森川が振り返った。

 二人の目が合った。

 LUNA照明の紫色の中で、森川の顔が見えた。穏やかな笑みはなかった。驚きがあった。それから、計算が走った。目の奥で何かが動いた。

「——美月ちゃん」

 声は穏やかだった。体が固まっているのに、声だけがいつもの森川だった。

「こんな時間にどうしたの」

「……記録してました」

「記録?」

「クラゲの。いつもの」

「いつもはベンチにいるよね。なんでこんな奥に」

 美月の心臓が打っていた。速い。でも、声は出た。

「森川さんこそ。帰ったはずですよね」

 森川が一瞬だけ黙った。台車のハンドルを握る手が白くなっていた。

「忘れ物を取りに来たんだ。事務室に——」

「保冷ボックスは忘れ物ですか」

 言ってしまった。言うつもりはなかった。でも、口が動いた。

 森川の表情が変わった。穏やかさが消えた。残ったのは、何かを諦めたような、疲れたような顔だった。

「美月ちゃん。そのスマートフォン——」

「写真を撮りました」

「消してくれないか」

「消しません」

 森川が台車を離して、一歩近づいた。

 美月は後ずさった。スマートフォンを両手で握った。背中が機材庫の壁に当たった。逃げ場がない。左は水槽。右は通路の行き止まり。前に森川。

 水槽の中で、クラゲが光っていた。LUNA照明の紫色と、クラゲ自身の緑色が混ざって、森川の顔を下から照らしている。影が上に伸びて、普段とは全く違う顔に見えた。

「嘘はすぐわかるよ」

 森川が言った。穏やかではなかった。低い声だった。

「お前のノートを見たとき、わかったんだ。この子はいずれ気づくって。バックヤードの音まで記録してる子が、いつまでも気づかないわけがない」

「じゃあ——ノートを借りたのは」

「何を知っているかを確認するためだ。お父さんの無実のためなんて嘘だ。悪いね」

 美月の背中が壁に押しつけられた。森川との距離は二メートル。

「副館長」

 声は後ろから来た。

 佐藤が立っていた。

 正面玄関ではなく、通用口から入ってきたのだろう。作業着のまま。帰ったはずの佐藤が、なぜここにいるのか。手にスマートフォンを持っていた。画面が光っている。録音中のアイコンが見えた。

 佐藤の顔から軽さが消えていた。目が座っている。缶コーヒーは持っていなかった。十年一緒に働いてきた上司の前に立つ顔ではなかった。覚悟を決めた人間の顔だった。

「副館長。お話があります」

 森川が佐藤を見た。佐藤を見て、それから美月を見て、それから台車の上の保冷ボックスを見た。三つの現実を順番に確認するように。

「佐藤くん。これは——」

「録音してます。最初から。美月ちゃんとの会話も全部入ってます」

 森川の肩が落ちた。小さく。ほんの少しだけ。でも、美月にはわかった。あの穏やかな笑みが、完全に消えた瞬間だった。

 水槽の中で、クラゲの光がゆっくりと弱まっていく。ピークを過ぎた。いつものように。いつもどおりに。

 いつもどおりではないことは、もう誰の目にも明らかだった。

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