第三話【正しすぎる反応】(一)
癒月がロストとなった事件から、一週間が経った。
事件当時、現場はひどく混乱していた。だが、DSIによる記憶改ざんの処置が完了した今、その混乱の記憶は人々の中から徐々に霧消していた。事件は、少し規模の大きな交通事故──それも「もう過ぎたこと」として、誰も話題にしようとはしなくなっていた。
晴れ渡った朝。明日香は、変わらぬ足取りで登校し、教室へと向かっていた。
廊下の角を曲がった先、女子トイレの扉が開き、一人の女子生徒が姿を見せる。
あのときの、ダンス部の一人だ。事故の影響でしばらく休んでいたが、今日から登校したらしい。
「……あ、白崎さん……」
明日香はごく自然な声で応じた。
「おはよう。もう体調は大丈夫なの?」
彼女の問いに、女子生徒は何か言いたげに、じっと明日香を見つめ返した。
ロストに巻き込まれた人間の記憶は基本的に消される。だが、原因に深く関わった人物には、ごく一部の“夢のような”記憶が残されることがある。
彼女の中にも、ロストに襲われた記憶や、そこで出会った明日香の姿が、きっと朧げに残っているはずだった。
「……それはもう、大丈夫なんだけど……」
「それなら良かった。もうすぐチャイム鳴るし、教室戻ったほうがいいよ」
明日香はそれだけ言うと、女子生徒の視線を振り切るように教室へと入っていった。
すでに教室には癒月の姿もあった。ずっと欠席していた彼女も、今日から登校らしい。
明日香は内心、ほんの少しだけ安堵し、自席に腰を下ろした。
* * *
午前の授業が終わり、昼休みの予鈴が鳴る。
給食は機材トラブルの影響で一時中止となり、今日からしばらくは各自で弁当を持参することになっていた。
明日香も自宅で用意した弁当箱を取り出し、机に広げようとしたそのときだった。
ふいに、彼女の視界に誰かの影が差す。
「明日香ちゃん、一緒に食べよ?」
見上げると、癒月が弁当を抱えて立っていた。
その様子に教室のあちこちから、不思議そうな視線が突き刺す。
それも当然だ。
明日香は普段、同級生と親しく接するタイプではない。
挨拶や連絡程度のやりとりはするものの、雑談や共に行動することは滅多になかった。
癒月も、どちらかといえば明日香と距離を取っていた側だった。
「……えっと。うん。いいけど」
「やった! じゃあ中庭行こうよ。今日、天気いいし!」
癒月はぱっと笑顔を見せると、明日香の手を軽く引いて教室を後にした。
中庭は風が涼しく、雲が日差しをやわらげていた。
二人は壁際の空いているベンチに腰かけ、それぞれの弁当を広げた。
「明日香ちゃんのお弁当、おかずいっぱいだね」
「うん。……でも、ほとんど冷凍食品だけどね。田中さんのお弁当は……お母さんが?」
「そうそう。あー、またトマト入ってる。私トマト嫌いなのにー。明日香ちゃん食べてくれない?」
「それは駄目だよ。せっかくお母さんが作ってくれたんだから、自分で食べなきゃ」
「明日香ちゃん、真面目だなぁ。あ、私のこと“癒月”って呼んでいいよ」
笑いながら言う癒月を見て、明日香の胸に、ほんの小さな温かさが灯る。
──誰かと一緒にご飯を食べるのって、沙夜以外だと……ほんと、久しぶりかもしれない。
食事中、ふと明日香が尋ねた。
「なんで……今日、私に声をかけたの? 田中さんには、他にも一緒にいる友達がいるのに」
「今日、その子たち委員会で別だったから。一人で食べるくらいなら、明日香ちゃんと食べたいなって思っただけだよ」
「……でも。余計なお世話かもしれないけど、私と一緒にいたら、田中さんが変な目で見られるかも」
「いいの!」
癒月は少し強い声で遮った。
「私が明日香ちゃんとご飯食べたかったの。それとも……明日香ちゃんは嫌だった?」
「そうじゃない。ただ田中さ」
「癒月」
「……癒月が嫌な思いしないかなって、思っただけ」
明日香の言葉に、癒月はそっと卵焼きをフォークで刺し、彼女の口元に差し出す。
「え……なにこれ」
「卵焼き。良かったら食べて」
戸惑いつつも、明日香は差し出された一切れを口にする。
「……美味しい」
「でしょ? お母さんの卵焼きは世界一なんだから!」
癒月の笑顔に、明日香もまた、微かに微笑んだ。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、二人は教室へ戻る。
その瞬間、クラスの空気が張り詰めた。
癒月は何かを察して、明日香の隣に目を向ける。
明日香が、自分の机の前で立ち止まっていた。
机の表面には──黒のマジックで、悪意の言葉がいくつも書かれていた。
「……なにこれ。酷すぎる……」
呆然と呟く癒月の横で、明日香は静かにお弁当箱を机の端に掛けると、すっと踵を返して教室を出ようとする。
「明日香ちゃん、どこ行くの?」
「職員室。監視カメラで誰がやったか確認して、落書きした人に掃除させる」
淡々と話す明日香に、癒月は不審に思いながら聞き返す。
「……え?」
「私、こんなんじゃ授業に集中できないから。かといって、何もしてない私が掃除するのはおかしいでしょ?」
明日香の言葉は、怒りも悲しみも見せない。ただ事実を述べているだけだった。
癒月は何も返せない。
正しい。でも……何かが、決定的に違う。
動揺してる癒月を他所に明日香が教室を出ようとしたその時、教室の隅からひとりの男子生徒が声を上げた。
「待って……俺、見たんだ。あいつらが白崎の机に落書きしてるの」
指さした先にいたのは、ダンス部の女子生徒たちだった。
突如注目を集めた彼女たちは、露骨に動揺した。
「ちょっといきなり何なのよ! 変な嘘言わないで!」
「嘘じゃない! 本当に見たんだ。……怖かったんだよ」
「私も……見た……」
「私も……」
口々に真実がこぼれ始める。
明日香は無言で教室のロッカーからバケツと雑巾、クレンザーを取り出すと、それを女子生徒たちに差し出した。
「じゃあ、これ。責任持って消して。……早くしないと、先生来るよ?」
ただ、それだけを淡々と。
怒りも哀しみも込めず、感情を切り落としたように。
女子生徒たちは不気味さに顔をこわばらせながらも、無言でバケツを受け取ると、机に書かれた落書きを消し始めた。
誰も何も言わず、その場から動こうとはしなかった。
教室の空気は、まるで冬のように凍りついていた。
癒月もその場に立ち尽くし、何も言えなかった。
ただ、目の前で机を見つめる明日香の姿を、呆然と見つめていた。
まるで……感情という波が、まったく届かない場所にいるようだった。




