第二話【声をかけなかった代償】(一)
他の方の作品ような派手な描写は少ないですが、神経をそれなりに使うようで一話書くことに精神がだいぶ削れるような感覚になります。
時間は午後三時を少し過ぎた頃。
中学三年生の教室には、帰りの支度をする生徒、部活の準備をする生徒、それぞれが思い思いの動きをしていた。
その中で、明日香は静かに一人、机に座って荷物をまとめていた。
最近になってロストの出現頻度は少しずつ上がってきているものの、実際には月に二体程度。
日常に深刻な影響が出るほどではなく、セイバーとしての活動と学業の両立は、今のところ問題なくこなせていた。
今日もまた、何もない一日だった。
あの異形と戦う日々を知っている者からすれば、ありふれた、平和な時間。
ロストやセイバーの存在は、未だに世間では都市伝説の域を出ない。
SNSや動画サイトの普及によって情報は拡散されやすくなっているはずなのに、不思議なことに決定的な証拠は一つとして出回らない。
それもそのはず、セイバーの顔は最新AIによって自動的にぼかされ、動画として投稿されても「映画の撮影」と片付けられてしまう。
目撃者がいても、現実離れした戦いを見た人々の殆どは、まるで夢でも見たかのように現実感を持たずに流してしまう。
公共に影響が出る事件の場合も、ダミーのニュースが瞬時に流される。
ガス爆発、地下の水道管破裂、交通事故。
情報の統制は完璧に近く、唯一真実を知るのは関係者と、ごく少数の協力者だけだ。
「ねえねえ、豊後町の交通事故見た? 玉突きで車がぺしゃんこになってたんだけど、マジでやばかったよ」
「えー、私聞いたのは地下水道が破裂して、その影響で車が横転したって話」
「それ、別のニュースじゃない?」
クラスのあちこちから飛び交う雑談が耳に入るが、明日香はそれに反応することなく、淡々と荷物をまとめ続けた。
ふと視線を前方の席に移すと、一人の女子生徒が俯いたままじっと座っているのが見えた。
――田中癒月。
確か、ダンス部に所属していたはず。派手なグループとも付き合いがあり、けれど根は物静かで、誰にでも優しく接するようなタイプの子だった。
普段は仲の良い友人と一緒に楽しそうに話している姿をよく見かけたが、今日は朝からずっと一人でいた気がする。
部活の時間はとっくに始まっている。他の部員たちはすでに体育館へ向かったはずだ。
けれど癒月は、荷物に手をつけることもなく、ただじっと机に座っている。
……何かあったのだろうか。
一瞬、明日香はそう思ったが、声をかけることはなかった。
田中癒月は、たまたま同じクラスになっただけの存在だ。友達ではない。
いきなり話しかけても相手を驚かせるだけだし、誰にだって言えない事情の一つや二つ、あるものだ。
沙夜の下校時間が近い。今日も一緒に夕飯の買い物をして帰る予定だ。
鞄を肩にかけ、教室の後ろの扉へと向かう。
その途中、再び癒月をちらりと横目に見た。俯いた彼女の表情は見えない。
けれど、声をかけることはやはりなかった。
教室の扉が開き、明日香はそのまま静かに立ち去った。
何事もない、普通の放課後――のはずだった。
放課後の陽射しの中、小学校の校門前でひとりの少女が小さな手で日差しをかざしていた。
黄色い通学帽に、ピンクのランドセル。周囲をきょろきょろと見回し、やがて目を輝かせて駆け出す。
「お姉ちゃん、ただいま! あと、おかえり!」
沙夜の元気な声に、明日香は思わず笑みをこぼす。
「ただいま、おかえり沙夜」
二人は自然に手をつなぎ、寄り添うように歩き出す。
「今日はね、体育でドッジボールしたの。沙夜、最後まで残ったんだよ!」
「えーすごいじゃん。勝てたの?」
「うん! 沙夜が頑張って避けて、外野の子が最後の相手に当てたの! 沙夜のチーム、勝ったんだよ!」
「じゃあ今日のごはんは、ハンバーグにしようかな」
「やったー! 沙夜、お姉ちゃんのハンバーグ大好き!」
明日香は笑いながら、妹の手を引いて商店街へと向かった。
この街には、まだ昔ながらの賑わいが残っている。
八百屋の活気、肉屋の威勢の良い声。スーパーではお菓子を少しだけ選び、あとは夕飯の材料を揃える。
買い物袋を片手に交差点に差し掛かろうとしたとき、ざわついた騒音が遠くから聞こえてきた。
人々のざわめき。悲鳴。足音。
「……お姉ちゃん、どうしたの?」
「わからない。事故……かも」
沙夜が不安げに明日香の手を強く握る。その時だった。
黒いバンが、急ブレーキをかけて二人の前に停まる。
スライドドアが勢いよく開き、制服姿の男が飛び出してきた。
「白崎さん、ロストが出ました! 妹さんはこちらで預かります。すぐに乗ってください!」
「わかりました。お願いします!」
明日香と沙夜は急いでバンに乗り込む。
市街地はすでに混乱状態にあり、警察官が手旗信号で交通を整備していた。
車で行ける所まで進むと、明日香はバンを飛び降りて走り出す。
耳に届く銃声を頼りに、戦闘の気配へと向かった。
人がいなくなった路地を走り抜け、少し開けた場所に出る。
そこでは、誠司が一体のロストと対峙していた。
人間の大人ほどの体躯。陶器のような皮膚はひび割れ、そこから黒い煙が漏れている。
巨大な腕で瓦礫や車を押しのけながら、異形の存在は唸りを上げていた。
「明日香!」
「ごめん誠司、遅くなった!」
誠司の元に向かいながら明日香はバンドの水晶に手をかざし、瞬時に弓へと変化させる。
狙いを定めて、矢を放つ。
誠司も銃を構えて牽制しながら距離を詰めるが、ロストは素早く、核となるニードルをなかなか露出しない。
次の瞬間、ロストが誠司の背後にある瓦礫に向かって、コンクリートの塊を投げつけた。
「きゃああああ!!」
二人の背後から甲高い悲鳴が響いた。
「……嘘だろ、まだ逃げてなかったのかよ!」
誠司が焦った声で後ろを振り返った。
「誠司、逃げてなかったって……?」
「このロスト、さっき女子の集団を襲ってた。確か、お前と同じ中学の制服だったと思う」
「えっ、じゃあ……うちの学校の子?」
「たぶんな。でも今は、とにかく避難させないと。庇いながらじゃ戦えない」
明日香は声のした方向へ走る。
瓦礫の影に震える少女の姿を見つけた。隣のクラスの、ダンス部の子だ。
「早く逃げて! あの怪物、貴女を狙ってるの!」
「な、なんで……? なんで私が……」
「いいから、あとで説明するから、早く!」
言い終える前に、またしても瓦礫が飛んできた。爆音が辺りに響く。
「……もう! 逃げ遅れた少女を確認、至急応援お願いします!」
『ピッ……了解。すぐ向かいます』
無線で連絡を取り終え、明日香は少女を残して戦場へと戻る。
「誠司、右に回って!」
「任せろ!」
その瞬間だった。ロストが跳躍し、明日香を狙って爪を突き出す──
だが、乾いた銃声がそれを阻んだ。
誠司の弾が、ロストの皮膚に埋まっていたニードルを正確に撃ち抜く。
ニードルを中心に巻き付いてた茨の蔓が吹き飛び、ロストが呻き声を上げて膝をついた。
霧のように立ち込めていた闇が晴れていく。
姿を現したのは──
「……まさかとは思ったけど、田中さんだったなんて……」
明日香の声が震える。倒れた少女の顔は、ほんの数時間前、教室で俯いていたあの同級生だった。




