苺
手術の日から三日目、光一と明吉が見舞に来てくれた。彼らが病室に入ってきた途端にガサガサと乾いた紙の音がした。貴紘は否応なしに二人の持ち物を凝視してしまう。
そこには、色とりどりの千羽鶴があった。
「辻くん、元気?」「大丈夫か?」
二人は貴絋のうなずく顔を見ると、いくらか安心したような表情になる。明吉は運ぶのが大変そうな鶴を持ち上げて貴絋に見せた。
「これ、神森から千羽鶴」
貴紘は息を飲んだ。てっきり、クラスの皆が手分けして折ってくれたのだと思ったから。
「……あいつが一人で?」
「一晩で作ったって、今日青い顔して持ってきたぞ」
千羽を一人で一晩……、物理的に無理だろ。
しかもたかが盲腸だ。不治の病じゃあるまいし。
「今日、授業全部爆睡してたよね」
「愛されてんな~。オレからはこれ」
明吉は漫画雑誌をくれた。光一は知恵の輪セット。
「本当は辻くんの大好きなと苺とか持ってきたかったけど、母さんが『まだそんなに食べられないんじゃない?』って言うから……」
光一が申し訳なさそうに話す。
「いや俺苺嫌いだし」
実際徳重より、この小学生達の方がうんと気が利く。持つべきものは友達だ。
とにかく病室は退屈でたまらなかった。真織には頼みにくいし、正直このお見舞の品はとても魅力的にみえる。
「わざわざ悪かったな。サンキュ」
「お前、一人なの? 母ちゃんは? 松葉がお前の母ちゃん超美人だって言うから期待して来たんだけど」
明吉がおどけて言った。
「仕事あんだよ……人の母親をヤラシー目で見んな」
「冗談だろ! ……ホンキで軽蔑の眼差しを向けるな」
今日も有給を取るつもりだった彼女を無理矢理会社に行かせた。そうすれば徳重も喜ぶだろう。大体世話は看護師がしてくれるし、真織が居たって気まずいだけだ。結局あれから話はできていない。
「辻くんいつ退院できるの? 結構クラスのみんな、心配してるよ」
「明後日だな。お前らも盲腸には気を付けろよ」
「つうかお前さ、手、ケガしたり顔ケガしたり入院したり体育倉庫にとじこめられたり、ついてねーな。呪われてんじゃねーの?」
「じゃなくて……ツイてんだよ。最強に」
「はぁ!? どこがだよ!?」
それからは、学校での出来事を二人が話してくれた。教室で飼っていたメダカが脱走したとか、全体朝礼のとき隣のクラスの委員長が鼻血を出したとか、そんな話だ。ずっと退屈していたので、他愛のない会話でもとても楽しく思える。気が付けば、もうすぐ17時を迎えようとしていた。
「そろそろ帰るか。貴紘、なんか伝言ないの?」
明吉が満面の笑みを浮かべて言った。
「伝言って。誰に」
「決まってんじゃん! これ、お礼言わなきゃ」
明吉はおびただしい数の鶴を指差した。貴紘は改めてその綺麗な折り紙を見て、一時間前にも感じた不満を思わず述べる。
「なんであいつ、自分でもって来ねーんだよ……」
光一と明吉は、驚きと喜びの混じりあった表情で顔を見合わせた。
「来て、って言ったら、来てくれるんじゃない?」
光一が笑顔でそう言ったのを見て、貴紘は自分の放ったことばの意味を悟る。
「違う、ニヤニヤすんな! ……だってそうだろ、こんなもん……。ってかアイツ、俺のこと避けてんじゃん……そのくせこんなことしやがって……むかつく」
明吉はフフンと笑って貴絋に言い聞かせる。
「貴紘! 女ってのはな……複雑な心をもってんだよ! さっきはこれ食べたいって言ってたくせに、用意すればいらないとか言っちゃう生き物なんだぜ!」
「それ誰の事言ってるの?」と、光一。
「誰って……オレの妹の事だけど」
「お前の妹幼稚園児じゃん。それ女の特性じゃなくてガキの習性だろ」
「ちげーよ! チカちゃんだってデートの約束してもいつもドタキャンするもん!」
「あの女が最低なだけだ」
「でもな……そこがいいのさッ! たまんねーんだ、あのオレの事蔑んだ瞳がよ!」
「……近寄んな、特殊性癖が移る」
「なんだよ貴紘!」
「あんまり騒がないで槙くんここ病院だよ! もう帰ろうよ」
光一がやかましい槙明吉を取り押さえながら、病室を出ていった。彼らのいなくなった部屋はとても静かでがらんとしている。しばらくしてから貴紘は急に寂しさを感じた。そうすると一人っきりでこの部屋にいるのがイヤになり、そっとベッドから足を下ろす。手術して二日目くらいから歩くように言われていたのもあり、少し散歩でもしようと思った。
腰を上げて一歩踏み出そうとしたとき、何かの管につまずいてこける。点滴台も共に倒れ、激しい音が静かな部屋に響いた。
「痛ぇ……」
冷たくて硬い床に膝を強打してしまい、涙がにじむ。ジンジンと広がる痛みに、起き上がる気力も失せかけた。
『大丈夫? 私が代わりに散歩してきてあげようか?』
頭の奥から聞こえたララの声を、とても久しぶりだと感じた。
「慎んでお断りする」
直也と光一と遊んだ日にララが現れなかったのは、彼女なりの気遣いなのだと薄々感じていた。それでも入院中、自分が一人きりの時間は死ぬほどあったのに、出てこなかったララを少し薄情だと思ってしまった。何も食べられない自分の体には、どうせ用がないのだろう。
『え? なに、怒ってるの?』
「別に怒ってねーよ!」
『怒ってるじゃない。言いたいことあるならはっきり言ってくれない?』
だけど、そんなこと言えるわけがない。
いったい俺はこいつに何を求めているんだ。
貴紘は自分でもよくわからなかった。
やっと起き上がると、再びベッドに潜り込んだ。
『ちょっとちょっと! お散歩は? 歩いた方が回復早いんだよ』
「うるさい、お前にカンケーねーだろ」
病院のベッドの中は、独特の匂いがした。落ち着かない、安らぎのない匂いだ。早く家に帰りたい。自分の枕でゆっくり寝たい。ここの枕は固すぎる。
『……ママに、話さないの?』
眠たくもないのに眠ろうと頑張った瞬間、もう話しかけてこないと思っていたララの声がする。
その声に少しだけ遠慮が混じっていた事に気が付いた貴紘は、閉じていた目を開け、布団から顔を出した。
「……もう、いい」
『どうして?』
誰かと話をするとき、貴紘は目を合わせるのが苦手だった。光一なんかはためらいもなく見てくる。超見てくる。そうされると心の中を見透かされているような気がしてきて、うまく言葉が出てこなくなるのだ。
その点ララと話すのはいくらか気が楽だった。目を合わせるどころか、どんな顔をしてるのかも知らない、実体がない、自分以外は存在すら認識されていないのだから。それにずっと一緒にいるぶん、説明も楽だ。
「知ってるんだろ、母さんが、本当の親じゃないってこと」
ララはしばらく何も言わなかった。かまわず貴紘は続ける。
「俺の事産んだ人が今どこで何してるか知らねーけど、きっと俺、その人に捨てられたんだ。親父があんな自分勝手な奴だもん、それは仕方ない。でも、親父も俺を捨てた。母さんはスゲー優しい。きっと……俺の事、見捨てられなかったんだ。……でも本当は、嫌なんじゃないかって時々思ってた。徳重のオッサンと初めて会ったときもそう思ったし、あのババアに文句言われた時もスゲーそう思った……ってか、その時からずっと、……考えてる。あのババアの言葉が……頭から離れない」
真織の母親らしき女の冷たい表情を思い浮かべると、貴紘は寒気がした。あんな風に敵意をむき出しにされたのは初めての事で、すごく怖かった。
「……母さんは、確かにそこらの女より美人だし、まだ若い。徳重のオッサンにも好かれてるみたいだし……俺がいなかったら、やり直せるって、あのババアが言うのもわかる。……血も繋がらないお荷物抱えて生きてくこと、本当は、スゲー重荷に感じてるのかもしれない。……本当は嫌なのに、そんな気持ちで苦労しながら俺を育ててくれてるってことが、いつか捨てられるかもしれないってことより……、俺はずっと、……苦しい。それに、本当のこと、……まあ、母さんの気持ちを知るのは……すごく、……怖い」
そう思えば思うほど素直になれない。いっそ嫌われて捨てられた方がいいのかもしれない。すると、ますますいい子になれない。それでも完全に嫌われる事も恐ろしく、全てが中途半端だ。
貴紘の弱々しい言葉は、口にせずともララに届いた。彼が寂しい気持ちを押し込めるとき、不安や悲しみがララにも伝わる。
『あんた……ママの事が、大好きなんだね』
そう言ったララの声は明らかに震えていた。それを聞いて貴紘は動揺した。
「なんで、お前が泣くんだよ。カンケーねーじゃん……!」
『……ごめん、あんたが泣いてるから。あんたが悲しんでるのが……悲しくて』
「俺は泣いてない!」
女の前で泣くなんて恥ずかしい。それでもララの言った言葉が、貴紘の涙腺を緩ませる。
バカにしたりからかったりもせず、静かに自分の溜め込んだ想いを聞いてくれた。彼女をさっきまで薄情だと思っていたことを、貴紘はひどく後悔した。




