第3話 ユニークアイテム〈バッジ〉(2)
エリンは今、人生最大のピンチを迎えていた。
目の前には、エリンを追いかけるように転移門をくぐり抜けて来たロア。
改めて、二人向き合えば、呪われし身長の持ち主であるエリンと比べても、彼女の方がわずかに背が低かった。年の頃で云えば、彼女は十歳ぐらいに見える(NPCとしての公式な設定は十二歳だが、ロアの外見は年齢よりもやや幼いデザインとなっている)。
学童の制服はよく似合っている。
ランドセルも見た目に相応のアイテムだったが――異世界生まれのエリンにはそもそもランドセル文化は馴染みがないものだ。変わった形の革鞄を背負っている、という程度の印象しかない。
何はともあれ、NPCのロアは見た目だけならば、かなりの子供。
十七歳男子ながら、それ以下にしか見られたことのないエリンは、年齢に関する話題にかなり敏感である。ただし、そんなコンプレックスの持ち主であるが故に、自分よりきっちり年下に見える相手には好感を覚えやすい。
本来であれば、エリンはロアの見た目を好意的に捉えたはずだ。
だが、この瞬間だけは事情が異なる。
「も、もうしわけごじゃい、ません、でじたぁぁ!」
ロアは泣いている。
大泣き。
瞳は真っ赤で、目元も頬も、涙でぐちゃぐちゃ。
なんだったら鼻水まで垂れている。
その上で、エリンに対して土下座していた。
「わ、わたしのぜいで、プレイヤー様に多大なご迷惑をおがけじましたぁ! どのように、お、お詫び申し上げれば! す、すびません! 泣いて済むような問題じゃありませんが、お見苦しい所ばかり、お見せして、ほ、本当に、本当に……」
途中から言葉にならず、ヒィーヒィーと息を吸い続ける。
チュートリアルで二人が出会ってからのあれこれ。
ロアは精神的に追い詰められることばかり続いた。
まずは、ロールプレイ。
異世界の住人であるエリンのことをロールプレイヤーと誤解して、それに応えようと自身もロールプレイに必死になった。さらに誤解に誤解が重なって、パートナーNPCの申し込みにも至った。
ロアはどちらにも満足な対応ができなかったと思っているし、案内人のNPCとしてはこれだけで失格だと思っている。
だが、その後に続いた失態に比較すれば、まだマシかも知れない。
それだけ、プロトコル〈転移門〉の不適切な使用は大問題だ。
初心者プレイヤーを巻き込んでしまった上に、CROSSで最大級の人気コンテンツ〈ミリオンレイド〉に混乱を引き起こした。〈七廃人〉は一様に気分を害しており、簡単には許されない空気があのエリアには立ち込めていた。
ミリオンレイドは仮想世界で一番注目されるイベントのため、ロアの失敗――引いては、運営である優楽堂のNPCの失敗は、プレイヤーたちの興味を引くだろうことは間違いない。これから事情が明るみになれば、世間がブーイングの炎で燃え盛る可能性もあり得た。
ロアはここまでを踏まえ、涙の海ができそうなぐらい泣いている。
この時点で、彼女の限界は近い(というか、たぶん限界を超えている)。
だが、彼女は知らなかった。
爆弾はさらに特大のものが、もうひとつ残っている。
エリンの胸元で〈バッジ〉がキラリと輝いた。
「か、顔を上げてください」
さて、エリンはピンチである。
念のために云えば、二人の誤解はまだ何も解けていない。
すなわち、エリンは、ロアが異世界の神さまだと今も思い込んでいる。
神さまを泣かせている。
神さまに土下座させている。
これはちょっと、意味がわからない。
エリンは無能力者であるから、これまでの人生で神に接触したことはない。神々が一般的にどんな御姿をしているのか知らないし、どんな風に人間と触れ合うのか、まったく知識がないのだ。
こんなもの、なのだろうか――?
神、すごくフランク。
神というか、普通の人間みたいである。
本当に見た目通りの女の子でしかない。
しかし、それがまた問題だった。
客観的に眺めれば、これは異様な光景となってしまう。
十七歳男子(ただし、年齢が五つぐらい下に見られるのがデフォルト)に対して、十歳ぐらいの女の子が号泣しながら土下座を続けているのだから。
相手が神さまだとか、そんな事情は一旦脇に置いておいて――。
エリンはとにかく、彼女に泣き止んでもらおうと必死になっていた。
「とりあえず、泣かないでください」
エリンには妹がいる。
正確には、妹たちがいる。
優しく声をかけたり、背中をさすってやったり、ギャーギャーと姉妹喧嘩してうるさく泣きわめく妹たちを、昔はこんな風にいつも慰めてやったものだ。
昔取った杵柄で、しばらく経つとロアが落ち着きはじめる。
「す、すみません……」
「いえいえ」
「わたしの方が、しっかりしないといけないのに……」
「いえいえ」
「小さな子の前で泣きわめいて、本当に情けなく、みっともなく……」
「……ん? んん?」
ロアの頭をポンポンと撫でていたエリンは、思わず手の動きを止める。
さて、仮想世界における身体について。
七廃人の一人である〈愚者〉ゴリラが一番わかりやすいサンプルだが、彼はゴリラである。ゴリラは、ゴリラである。リアルの彼は間違いなく人間であるだろうし、ゲームをスタートしたばかりの頃はゴリラも人間の身体を持っていたはずだ。
仮想世界の身体はカスタマイズの自由度が高い。
望むならば、〈愚者〉ゴリラのようにゴリラにもなれる。人間を辞めるような身体には操作性でリスクはあるものの、熱烈な愛好者たちが存在したりと一部の界隈で人気が高い。
それだけ見た目は自由なものであるから、性別や年齢、第一印象そのままに相手を判断することは仮想世界では愚かである。
美しい女性に見えたので優しくしたら、実はおっさんだった。ゴリゴリの半裸マッチョの中身は深窓の令嬢。ロリババアはただのリアルババア――何はともあれ、身体とリアルの不一致による悲劇はVRMMOには付き物である。
仮想世界で本気の恋がしたいプレイヤーには、初心者プレイヤーが狙われやすい。
身体は自由なカスタマイズが可能とは云え、最初から無制限になんでもできるわけではなかった。大抵のプレイヤーはゲームをコツコツ攻略する中で、徐々に身体を理想の姿に近づけていくものだ。
そのため、初心者プレイヤーの身体は、現実の姿を色濃く残したものであることが多い。仮想世界で出会いを求める場合、初心者プレイヤーならば見た目に騙される確率はグッと低くなるわけだ。
エリンに至っては、チュートリアルを終えてもいない。
仮想世界の身体は、異世界のエリンの姿そのままである。
仮想世界に初めてログインする際に、初期の身体はプレイヤー自身の記憶や認識に基づく形で作成される。
もちろん、チュートリアルの案内人であるロアにはそのことがわかっている。
エリンというプレイヤーはその中身も身体と同じであるわけで、見たままを信じれば良い。性別も年齢も、ロアは身体から自然な予想をしていた。
見たままの年齢である。
たぶん、十歳か、十一歳か……。
公式設定で十二歳の精神年齢を持つロア。
十七歳の男子エリンを、その見た目から年下と思い込んでいた。
「ふんぬっ!」
エリンはロアの脳天にチョップを喰らわせた。
「ぎゃあ!」
「俺は十七歳だ! 子供じゃない!」
神であろうと何であろうと、絶対に譲れない一線は存在する。
しかし、反射的にチョップしてしまったものの、エリンからすればロアは神さまである。すぐに青ざめて、「ごめんなさい!」と叫ぶものの、ロアは額にチョップされたことがさすがに予想外だったのか、目を丸くしている。
ショック療法と云うべきか、それでさらに一段階、正気に戻ったようだ。
「……えっと、エリンさん」
正気と狂気の狭間、ロアはぽつりと確認する。
「実を云うと、最初に生体認証が読み込めませんでした。案内人はチュートリアルを円滑に進めるために、プレイヤーの現実側の情報を一部知ることができるのですが、エリンさんに関しては何もわからなかったのです。それで、その……」
ロアはじっと、エリンの顔を見つめている。
「……嘘でしょう? 十七歳には見えませんよ?」
エリンはもう一度チョップの構えを見せるが、小さな悲鳴と共にガードするロアに追撃を加えることはしなかった。
常人よりもちょっとばかり低い身長、やや幼く見える顔付き――それらをバカにして来る者には命を賭して戦いを挑んで来たが、他意がない者にまで本気で怒っていては大人気ない。
ちょっとばかり低いだけ――。
本当に、ほんの少し子供に見られるだけ――。
エリンは心の中で、己に必死に云い聞かせていた。怒りを吐き出すように、肩を大きく上下させながら深呼吸を繰り返していく。
「ちょっと怖いです」
ロアが素直な心情を吐露する。
「怖くないよ。全然怖くない。俺は十七歳で、子供じゃないから自制も効いている。怒らない怒らない、ほら笑っている」
エリンはにっこりと笑顔を見せて大人振るものの、ロアはその瞳の奥に滲んだコンプレックスのドス黒い闇に気づいてぶるぶると震えた。彼女は十二歳という精神年齢ながら利発であったため、エリンの外見や年齢に関する話題はタブーとしてきっちり認識するのだった。
「何はともあれ……」
互いに心に傷を追ったものの、小休止。
今度は、エリンがロアの顔をじっと見つめた。
「落ち着いたみたいだな」
「……え、あ。はい、そうですね」
ロアの涙は止まっていた。
チョップされた額のヒリヒリする所を摩りながら、彼女はぎこちなく笑む。
「なんだか結果オーライな感じではありますが……はい、ありがとうございます」
お礼を云われて、エリンはうなずく。
泣き止んでくれて良かった。
どうしても泣き止まない時は、笑顔を引き出すために一発ギャグでも披露しなければいけないと考えていた。妹たちの世話をしていた経験上、手っ取り早く涙を止めてやるには、他のことに興味を移してやれば良い。
実はこっそり内心で、ネタを練っていたエリンである。
溺れ死ぬ半魚人のモノマネ――きりもみ回転しながら白目を剥いて痙攣したポーズを披露すれば、たぶんイケる。しかし、代わりになにか大事なものを失いそうな気がしていたので、やっぱり泣き止んでくれて良かった。
「ああ、子供は笑っている方が良いからね」
「んー。わたしも、あまり子供扱いされたくはないですが」
ロアが困ったように笑った。
やっぱり妹たちで扱いに慣れているせいか、これぐらいの年頃の女の子とは付き合いやすい――エリンはそんな風に思うものの、冷静に思い返せば相手は神さまだ。
エリンは少しずつ、ロアを普通の女の子として扱い始めていることに気づいた。
「落ち着いた所で、これからのことですが……」
ロアが真面目な話を切り出そうとする。
チュートリアルは中途半端な所で、プロトコル〈転移門〉の暴発で中断している。基礎ステータス・基本スキルを設定するキャラメイクは仮決定のままであるし、アバターの初期カスタマイズ等々、やるべきことはまだまだたくさんあった。
普通に考えれば、チュートリアルの続きをやるべきかも知れない。
だが、現状はもはや普通の状況にはないのだ。
ミリオンレイドに不適切に介入してしまった時点で、大事。
何事もなかったように元の流れに戻るのは難しいと思われた。ロアは案内人としてではなく、優楽堂の管理下にあるNPCの一人として、エリンという初心者プレイヤーにどのような形で責任を取れば良いのか考えていた。
「ゲームのスタートが遅れてしまうので大変恐縮なのですが、まずはわたしの上司……いえ、優楽堂の管理運営局に適切な対処方法を伺いたいと思います。そのために、ここから移動を――」
現在地、〈新宿:東京都庁(1991)〉。
ここは戦闘エリア、常に全域が戦闘領域に設定されている危険地帯だった。
仮想世界の全土に戦闘エリアは点在しているが、新宿エリアは特に高難易度として知られる。トッププレイヤーの狩場でもあり、初心者プレイヤーはもちろん、それなりの経験を踏んだプレイヤーでも足を踏み入れるのを躊躇するレベルだ。
そのため、〈新宿魔界〉という呼び名を持つ。
エリンとロアが今居るビルの屋上は安全圏であるものの、地上に降りればモンスターとすぐにエンカウントするだろう。初心者プレイヤーのエリンと戦闘能力を持たない案内人のロアでは太刀打ちできるはずもなく、こんな所はさっさと立ち去るべきだった。
「今から、転移門を出します。それで移動を――」
ロアが準備を始めようとした瞬間だった。
話し込んでいた二人の背後で、パチンと指を鳴らす音が響いた。
「私たちの方から来ましたので、転移門は必要ありませんよ」
先程まで、この屋上にはエリンとロアの二人以外には誰もいなかった。
突然、誰かの声が響いたことに、二人は驚きながら振り返った。
「あっ……!」
相手が何者か、ロアはひと目見て気付く。
ブラックスーツを着た三人組。
それぞれ、顔を隠すように真っ白なお面を付けており、その面の一部には柳、菖蒲、藤と三人別々の草花が描かれている。
柳の面を付けた男がリーダー格なのか、他の二人を従える形で一歩前に出ていた。
「いきなり声をかけてすみません。驚かせてしまいましたか? 少々急いでいたもので、こんな面白くない登場の仕方で申し訳ありませんね」
風流な白面で顔を隠し、仕立ての良いブラックスーツを着込み、何気ない風を装いながら三人揃って隙がない。明らかにただ者ではなく、風格はたっぷり感じられるが、その物腰は意外に柔らかい。
というか、腰も低い。
柳の男は随分な猫背である。
その上で、エリンに向けて、心底申し訳なさそうに頭を下げながら話しかけるのだ。エリンは相手が何者かわからず、ギャップに戸惑っていたが、ロアの方は反応が早かった。
彼ら三人に対し、深々と頭を下げる。
「お疲れ様です!」
会社の上司や先輩にするような挨拶。
というか、まさにそれだった。
「エリンさん、あの方々はエージェントですよ」
エージェント。
優楽堂の管理下にあるNPCの中で最高位の役職。
普通のNPCの業務系統とはまったく異なる立場にあり、彼らはVRMOO〈CROSS〉の最高責任者であるGMに直接付き従っている。
「でも、どうしてエージェントがここに……?」
ロアは疑問に首を傾げる。
柳の男がその独り言に反応して、簡潔に答える。
「もちろん、GMからの命令ですよ」
柳の男がそう云った瞬間、後ろに控えていた菖蒲と藤の二人が動いた。
速い。
それは〈七廃人〉には及ばないものの、トッププレイヤーに匹敵する動き。事実として、エージェントというNPCで最高の立ち位置にいる彼らの基礎ステータスは、トッププレイヤーの平均に等しいものが与えられている。
「えっ……!」
ロアが、戸惑いの声を上げる。
菖蒲と藤の仮面を付けたエージェントたちは、突風のように迫り来ると、有無を云わさずロアを拘束していた。それぞれがロアの右手と左手を後ろ手に取りながら、地面に叩きつけて抑え込む。
そしてさらに、二人は紫色の毒々しい輝きを持ったナイフを手に取る。
「や、やめてください。どうして……?」
抑え込まれながら、ロアが弱々しくつぶやく。
柳の男が説明する。
「私たちとしても、転移門でこれ以上逃げられると面倒ですので……。ええ、ご安心ください。一時間前からの行動記録は既に確認済みで、あなたの言動には概ね、エラーは認められませんでした」
ロアの表情が青ざめる。
ロア自身はこれまで、業務上のミスを連発してしまったことを悔やみ、嘆いていた。初心者プレイヤーをトラブルに巻き込んだ上に、ミリオンレイドを台無しにするという結果は、優楽堂という会社に少なくない損害を与えるかも知れない。
だが、あくまでミスである。
わざとではない。
その点は疑われるようなものではないと思っていたが、しかし――。
「別に、あなたが優楽堂に不満があって裏切ったとか、他所の企業からスパイウィルスを仕込まれたとか、本気で疑っているわけではないのですよ。ただ、まあ、記録を確認した中でちょっと気になる所もありました。何よりもあなたは最新型のNPC……例の人工脳のプロトタイプでもありますからね。念には念を入れて、ええ、これは念の為の処置ということになります。私、ちょっと心配性なNPCなので、申し訳ありませんね」
菖蒲と藤のエージェントが振り上げたナイフ。
その武器には、特定のNPCに使用許可を与えられた特殊スキル〈プロトコル〉を封じ込める能力が付与されていた。プレイヤーやNPCのスキルと似て非なるもので、装備品には付与能力という別枠のシステムが備わっているのだ。
「痛い! お願い、や、やめて!」
男二人に地面に叩きつけられ、体重を乗せて抑え込まれているだけでも、子供の体躯のロアにはかなりのダメージが入っていた。さらにナイフを突き立てられれば、プロトコルを封じられるだけでは済まず、ライフが尽きて死亡する可能性も――。
「耐えられずに死んでしまうならば、まあ、それはそれで――」
柳の男は何でもないことのように云う。
「私たちの目的はそれでも達成されます」
ロアが悲鳴を上げた。
そして、この一連の流れをエリンは呆然と見守っていた。
ロアは彼らをエージェントと説明したが、エリンにはその一言では何も理解できない。VRMMOの知識を欠いているエリンには、わからない事だらけだ。
しかし、ロアの雰囲気から察して、少なくとも敵対する者たちではないのだろうと最初思っていた。エリンはそれで気を抜いたものの、そこからの怒涛の展開はまったく予想を裏切るものだ。
ロアは拘束されている。
さらに、ナイフが今にも振り下ろされようとしている。
敵か、味方かを判断するならば――。
考えるまでもない。
「待て」
考えるよりも先に、言葉が出た。
さらに考える前から、一歩前に出た。
「やめろ」
剣を抜こうとして、エリンはハッとする。
ミリオンレイドの戦闘領域で空高くから落ちる危機の中、オメガの砲塔に取り付こうとして剣を打ち込んだ。圧倒的なステータスの差で弾き飛ばされてしまったため、剣はその時に失ってしまっていた。
エリンに武器はない。
しかし、躊躇している時間もない。
目にも止まらない動きを見せたエージェントたち。その動きからして、剣があったとしてエリンの敵う相手ではなさそうだ。
敵わない相手に挑むことに意味はあるのか――。
内心で、己に問う。
「関係ない」
エリンは笑った。
ここで何もしない、逃げ出すような人間ならば死んだ方が良い。
エリンは生まれてから今まで、ずっと無能力者だった。弱さを理由に何かを諦めるならば、エリンはたぶん何も手にすることができなかった。
決心も覚悟も完了している。
祈り、誓い、心を捧げて――。
己の神のため、あるいは、己を信じて。
ロアを取り押さえるために、菖蒲と藤のエージェント二人はエリンには背中を向けている。無防備に見えるその背中に向けて、エリンは足を踏み出し、手を伸ばそうとした。
だが、気がつけば目の前には柳の男が立っている。
「失礼、動かないでいただけますか?」
一瞬の移動で、エリンの目の前に立ちふさがったらしい。
柳の男が左右に手を伸ばした。
それぞれの手が光の渦に吸い込まれる。
インベントリの光である。
空間の穴から引き抜かれると、彼の両手にはナイフが収まっていた。
「あなた様には手荒な真似はいたしません。むしろ、お詫び申し上げます。問題を起こしたのは、あくまで弊社のNPCですから。ただし、私どもに手を出されるならば、最低限の抵抗ぐらいはさせていただきますよ」
言葉と裏腹に、先制するように切っ先を向けられる。
殺意と敵意がたっぷり叩きつけられた。
実際は、ただの威嚇なのだろうか。
それでも十分、エリンには脅威に感じられた。
「だから、関係ない」
殺意と敵意に、エリンは笑みを返した。
さらに一歩踏み出せば、柳の男はナイフを本格的に構える。
もう後戻りはできない。
まばたきの合間にも、攻撃が来るだろう。
自分にできることは何か。無能力者のような弱者にも、できることは何か。命を投げ捨てる覚悟ならば、この窮地から一人の女の子を助け出すぐらいはできるだろうか。それとも、覚悟や決意には何の価値もなく、エリンは無駄に命を投げ出すだけに終わるのだろうか。
自問自答も、一瞬――。
言い訳はやはり必要ない。
悔いなく、恥じることなく、笑って前に出る。
「良い覚悟です。あなたはきっと素晴らしいプレイヤーになる」
柳の男が褒めた。
そして、攻撃が来る。
――創造主に対する敵対行動を感知しました。
無機質な声。
システム音声の響きに似ているが、それ以上に人間味の失せた声。
耳で拾った音ではなく、それはエリンの頭の中に響いてきた。
理由はわからない。
だが、エリンは声の出処を瞬時に察した。
攻撃がまさに襲い来る。
その瞬間に、油断も隙もあったものではない。
後から思い返せば滑稽だったが、エリンは反射的に胸元を見ていた。
ユニークアイテム〈バッジ〉は、その視線に応えるように強い光を放った。
――戦闘モードを起動します。




