72話.【クオレス】⑦
どうやら無事彼女の精神に侵入する事が出来たようだ。
聖女の魔法が発動しそれが私に向かうまでのわずかな時間で私は無詠唱の魔法を展開した。
魔法を内に封じるための結界。その結界の中に聖女の魔法とジュノを閉じ込めることで私の企みはこうして成功した。
今の私の姿は人のそれに戻っている。ここが精神世界だからだろうか。彼女を堕とすにはこの姿の方が都合が良いだろう。
闇の中を進み彼女の姿を探す。
やがて見えてきたのは一つの扉だった。
扉の前では二人の使用人らしき影が声を潜める事も無く話をしている。
「旦那様、今日も例の方を探しに行かれたんですって」
「もうあれから何年も経つのに……なんて深い愛なのかしら」
「でも、もしも屋敷に連れ帰ってきて、ここで囲う……なんて事になったらどうなるかしらね。あの奥方」
「今更何もしないんじゃない? 自身の立場くらいは弁えているでしょうよ」
二つの嗤う影は闇に溶ける。
今の話はなんだったのだろうか。愛人を迎える話か?
障害が消えたところで私は扉に手をかけ、室内の様子を見た。
そこには私が知るよりも幼いジュノが――最初に出会ったあの頃よりも更に小さい頃のジュノの姿があった。
その幼いジュノは一人の女性を責め立てている。
「なんでなにも言わないの!? お母様はお父様の『奥様』なのでしょう!? ちゃんとおこって、もうそんなことしないでってやめさせるべきよ!」
「ごめんなさいね、ジュノ……だけど、私にはそんな資格なんて、無いから……」
あれがジュノの母君か。私がジュノと会った頃には既に亡くなっていたため、こうして顔を見るのは初めての事だった。
目尻の下がった顔つきは似ているものの、そこから醸し出される雰囲気は全くの別物だ。
「お母様の弱虫! そんなだから使用人からいやがらせされるのよ! 貴族ならもっとちゃんとしてよ! いっつも弱いだけのお母様なんてだいっきらい!」
ジュノは甲高い声でひとしきり叫んだ後部屋から出て行く。
泣き崩れながら闇に溶けていく夫人を尻目に、私は幼い日のジュノを追った。
そこから私は彼女の過去を覗き見た。
「私はお母様みたいにはなりたくない。身分をわきまえないやつらには負けない」
そう決意して強くあろうとする小さなジュノを。
「いや、お母様……! おねがい、目をあけて!」
けれども母親の事を決して嫌っているわけではなく、病に倒れた夫人を見て酷く動揺する姿を。
そして夫人が倒れて尚気に掛けない周囲に憎しみを募らせながらその小さな手で看病する姿を。
「おねがい、だれか、だれかお母様をたすけて……」
その悲痛な声は誰にも届かなかった。
最期まで苦しんでいた母親に何もしてやれなかった無力感に打ちのめされる背中は、そんな感情を背負うにはあまりにも小さすぎた。
「お前のせいで! お前たちのせいで! 私のお母様は死んだのよ!」
やがて彼女の感情の矛先は後にやってきた腹違いの妹に向けられる事となる。
ジュノはこの時になってようやく知ってしまったのだ。愛情というものを、最悪の形で。
ジュノと母君の間にそれが無かったわけでは無いのだろうが、実の娘に対してさえ怯えて申し訳なさそうにしてばかりの母親からそれを感じ取る事は難しかったのだろう。
初めて見る父親の優しい笑顔と同じく初めて聞くやわらかな声、たくさんの愛情を受けて育ってきたであろう妹の天真爛漫な笑顔、それを微笑ましく眺める周囲を見て、ジュノは知ってしまった。
いかに自分が愛を知らずに育ってきたか、それがどんなに惨めな事か。そして……愛情とは他者から奪われる物なのだと、ジュノは認識してしまった。
妹に向けて罵声を浴びせる度に彼女は更に孤立していく。しかし自棄になっている彼女には他にどうする事も出来なかった。
孤独感を恨みで埋めて紛らわせる事しかなかったのだった。
「これが君の過去なのか」
何も聞かされていなかった。いや、母親が病で亡くなった事も父親が庶子を迎えた事も婚約者として知ってはいたが、彼女自身からそれらを聞いた事は一度も無かったから。
その時の彼女がどのような状況に立たされていたのか知りもしなかった。想像以上の暗い過去に、私は……。
歓喜で口元の歪みが抑えられなかった。
君の弱く脆い部分をこうして知る事が出来たのだから。なんて深く暗い感情だろうか。私が今までに抱いてきたどの負の感情よりも余程激しいそれに憧れすら抱く。
彼女こそ、私の隣に立つに――新たな魔人になるにふさわしい心の持ち主だ。
しかしその心はある出会いを切っ掛けに一変する。
それこそが私との出会いだった。
「愛なんて一生知らないままでいいと思いながら、ずっと恋焦がれてきた。だけどその人の姿を見た瞬間にそんな葛藤は全て吹き飛んでしまったの。今までに見た事も無い美しい人。好きになるのにそれ以上の理屈なんていらなかった。その感情に溺れていたら嫌な気持ちなんて押し流されていくみたいに忘れる事が出来たの」
茶会の中で昔の私を前にしながら彼女は歌うように口にする。しかし実際にそんな言葉を聞いた事は無かったため、これは彼女の心の声なのだろう。
「クオレスへの想いそのものが私にとっては救いだった。想うだけで私は満たされる。だから、彼が誰からも奪われる事さえなければ……彼が誰も愛さないというのなら、それで良かった……」
「……君の想いにはそのような背景があったのか」
もしも知っていれば私はどう行動しただろうか。
……あまり大きくは変わらなかったかもしれない。魔人をこの心に封じる事は逃れられない使命なのだから。
しかし。
「……だけど、クオレスは私以外の人を愛してしまった」
そのような馬鹿な事だけは、どのような並行世界だろうと起こり得なかった筈だ。
「ジュノ。何も知らなくてすまなかった」
出会った頃の小さなジュノを抱きしめる。
「君はずっと寂しい想いをしてきたのだな……。これ程の苦労をしていたとは思いもしなかった。身近な愛を知らずに育った君にとっての唯一が私だったというのに……君を裏切る可能性があった事が自分でも憎くて仕方ない位だ」
腕の中のジュノは少しずつ成長していき、今と同じ姿へと戻っていく。
これで彼女はただの過去の幻影ではなくなった。
「だがここにいる私は決して君を裏切らないと誓おう。だから今度こそ信じてくれないか」
その瞳を真っ直ぐに見つめてやれば、ジュノもまたこちらを見つめ返してくる。その揺れる瞳からは確かな手応えを感じた。
私達の心は通じ合っている。その証拠に辺りが瘴気に満ち始めていた。
もう一押しだ。
「そしてこの世界以外の可能性など消してしまおう。私達二人で魔人になって、他の世界ごと私達が結ばれない可能性を消してしまうんだ」
この世界を積極的に滅ぼすつもりは無い。だがそれ以外の世界に関してははじめからそのつもりだった。
彼女を救えない、救おうともしない世界など認めてなるものか。ジュノを救わなかった私を世界ごと殺してやる。その為にもジュノには魔人になってもらう必要があった。
「私達二人なら……いや、君が隣にいてくれさえすれば私に不可能など無い。だからジュノ。私と――」
「――そんな口説き文句で私をおとせると思ったの?」
彼女の口から出てきたのはかつて無い程に冷え切った声だった。想定外の反応に思わず息を呑んでしまう。
「少し私の過去を見たくらいでなにもかも知った気にならないで。私にとってはこんな過去なんて全て終わった事なの。私の全てはあなたに出会ってからの軌跡。あなたに認められたい……その一心で私はなんだって頑張れたし、魔力が無くても魔法を使いこなしてみせようとしたのよ」
ジュノは私から離れる。周囲に広がっていた景色は消え去り、再び闇が私達を包み込んだ。
私には何故彼女が怒りを露わにしているのか理解出来なかった。全て終わった事? 私は君に理解を示しているというのに、何故そうも否定するんだ。
「世界を消す? なによその無駄に壮大な目標は。思いっきり魔人の影響を受けているじゃない。そんな受け売りの言葉で私が喜ぶと思わないで」
「そうではない! これは私の意志だ……!」
「存在するかしないかも確かめられない世界を壊して喜ぶなんて魔人の発想でしかないでしょう! 今のあなたはクオレスじゃない。あなたがクオレスだと言うのなら私の本質くらい理解してよ……!」
彼女の周囲に、より深い闇が集まっていく。
それを見た私は何故か悪寒を感じずにはいられなかった。今の私にとって負の感情は糧でしかないにもかかわらず。
「私の、ジュノの持つ感情はこんなものじゃない。それをわからせてあげる。……自滅する運命に散っていった全てのジュノよ……ジュノが味わった全ての恨み、悲しみ、絶望よ、魂の繋がりを通じて今こそここに集いたまえ!」
集められた闇が、怨念が爆発の渦を引き起こす。
それに呑まれた私は更なる深い闇へと落とされた。無数の魂と融合したジュノの闇へと。




