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「フン!」
アルミリアは勢いよく屋敷の扉を開けた。真っ直ぐには戻らず、デイジーの所に遊びに行き、夕食どきになったので帰宅した。家の手伝いなど知ったことではない。
エリザは居間にはおらず、屋敷から張り出したサンルームで夕食の準備をしていた。
大きなガラスが壁と天井に嵌め込まれており、暖炉とかまどがある。冬でも暖をとりながら外の景色を眺めることができるその場所は、自分がごく小さい頃に改装されたのだと聞いている。
「お帰りなさい」
エリザはいたって普通に振り向いた。いつも凪いでいる母のことを、アルミリアは時たま理解できない。一体、どのような人生を送ってきたらそうなるのか?
アルミリアは改めて、両親のことを何も知らないと思った。
「あの人は?」
「まだお仕事よ」
「遅れて帰ってきたと思ったら、またそれ?」
アルミリアはどかっと椅子に座り、クッションを引き寄せた。
「仕方ないでしょう。救助した人たちの面倒を見てあげなくてはいけないのだから」
島の王様も大変なのよ、とエリザは鍋の中を覗き込んだ。すでに刻まれた野菜が入っているが、主役の到着はまだである。
「一番に構って欲しいのはわかるけれど……」
「そんなんじゃないし!」
あたしは不誠実なあの人に対して怒っているのだ。知らない顔があるのは不誠実なのだ。決して、やきもちを焼いていて、気を引くために困らせようとしているのではない!
アルミリアは立ち上がり、台所からパンを持ってきてザクザクと切り、網の近くにおいて温める。次にやかんを持ってきて、茶を沸かす。
しゅうしゅうと湯気が立ち上るのを、アルミリアはじっと眺めていた。日はすっかり沈み、頼りないランプの橙色の灯がちろちろと揺れていた。
「ねえ」
「なあに?」
アルミリアは何とはなしに、エリザに問いかける。
「お姫様の生活って、どんな?」
「私はお姫様ではないわよ」
「でもひいおばあちゃんが女王様で、おばあちゃんが王女様なんでしょ。それで、公爵で、お妃様になる予定だったならもう姫でいいじゃん」
アルミリアは指折り、エリザの秘密を確認した。
「厳密には違うのよ」
「はあ。じゃあ、公爵の生活ってどんな?」
エリザは考えこんだ。
「大きな家に住んでいて、土地を……そうね、家畜と船を持っている。日替わりで違う服を着て……毎日お湯に入れて……好きなものを食べることができるの」
「それ今と変わんなくない?」
「確かにそうね」
エリザは熱した網の上に貝を乗せた。居間から兄と弟が遊んでいる音が微かに聞こえてくる。
「綺麗なドレスを着てパーティーに行くんでしょう?」
アルミリアはお城を見たことがなかった。デイジーが見せてくれる本の挿絵に描かれた建物は、ちょっと広すぎる気がした。
「準備に二時間ぐらいかかるけれどね。足と胴の骨が歪むまで、ぎゅうぎゅうに締め付けるの。とてもじゃないけれど走れないわね。苦しくて、食事は一口だけしか食べられない」
それはとても面白くなさそうだ──とアルミリアは思った。
「お姫様の生活をしたいのなら、止めるつもりはないけれど」
ひとこと『お姫様になりたい』と呟けばたちまちに本土からの船がやってきて、ブルー・ダイヤモンドの瞳を持つアルミリアをこぢんまりと、そしてピカピカに研磨しなおしてしまうだろう。
エリザにはそれは非常にもったいない事に思われるが、本人が望むのなら仕方がないとも思っている。
「……別にいいかな」
何もしなくても、もともと姫だしね──アルミリアはそう結論づけた。
「でも……でもだよ。もし、過去に戻れるとしたら、どうする?」
娘の問いに、エリザは首を振った。
「またここに来るわ」
アルミリアはその返答に満足した。たとえ世界がそっくり入れ替わったとしても、エリザはこの島にやってくると断言したのだから。
「早く春になってほしいの。船で遊びに行きたいわ。ちびちゃんの水浴着も買いたいし……そうだ、球根が来たから庭に植えなきゃいけないし、早いとこ子犬も引き取りに行かなきゃいけないのよ」
アルミリアは秘密の小さな入り江のことを思った。暖かい季節は家族で船に乗り、誰もいない、隠された砂浜でのんびり食事をするのだ。きっと、そこに犬が二匹もいたならばとびきり楽しいに違いない──。
そこまで考えて、きっと二人には自分が知らないだけで何らかの思い出があるのだろう、と気づいてしまったアルミリアは唇を尖らせる。
ぴくり、とフレディが物音に反応し、立ち上がって玄関へ向かった。
「帰ってきた!」
アルミリアは玄関まで様子を見に行く。まさしく、こざっぱりとした服装に戻ったアルフレドが立っていた。手には先ほどの『ヤドカリ』と本物の『蟹』を持っている。
「交換してもらった。今日はこのところで……」
「あっそう」
アルミリアは犬と一緒になってアルフレドの周りをぐるぐると周り、指で蟹の詰まった袋をつついた。
「別にこれでいいよ。結局のところ、タラバの方が大きくていっぱい食べられるんだよね」
「お前の性格、最悪だな……」
ひょいと顔を出し、憎まれ口を叩く兄の背中をアルミリアはばん! と張り飛ばした。
久しぶりに全員が揃った夕食が始まる。なんてうるさいんだろうと、アルミリアはほとほと困り果ててしまう。しかし、胸いっぱいに茹でた蟹の匂いを吸い込むと大体のことはどうでも良くなった。
──自分は、ただただ純粋に、空腹だったのでは?
アルミリアはそんなことを考えてしまう。一番どっしりとした羊毛のクッションにもたれかかり、小さな姫君は蟹剥き男を眺めていた。
「パパ、早く蟹むいて」
「パーパーーーー」
「ぱぁーー」
「はいはい、ちょっと待って、待ってくれ頼むから」
アルフレドはひたすらに茹でた蟹の身をほぐしている。その横ではマクシミリアンがほとんど同じ顔をして蟹を剥いている。
エリザは我関せず、と言った雰囲気で焼いた貝をつまんでいる。じゅう、とこぼれた汁が鉄板の上ではじけた。
「はい」
蟹の身をこんもりと盛った小皿がアルミリアの前に置かれた。
「あたしがいちばんでいいの?」
アルフレドの表情は『女の子はなにを考えているかわからない』とでも言いたげだった。
「……もちろん」
「女王さまじゃなくて?」
「女王さまは、今は網焼きとニッキ水にご執心だから」
ふうん、あたしは繰り上げなんだ──憎まれ口を叩こうとして、エリザがこちらを見て笑っているのに気がついた。
「いただきます!」
アルミリアはがっ、とフォークを差し込んだ。デイジーの御伽噺に出てくる、蟹のムースなんてオシャレなものはありゃしない。
「スープおかわりっ!」
「貝は?」
「あたしはカニしか食べないのっ!」
アルミリアはむしゃむしゃと、ヤドカリをほとんど食べ尽くしてしまった。
「よかったわね」
「……まあまあ、かな」
食後、アルミリアはふうっとため息をついた。食べすぎたせいで、デザートのパウンドケーキが全く入らなかった。
「明日は、商店街に行ってお菓子を食べるから」
アルミリアはぞんざいにアルフレドにそう告げた。まさか次の日からあたしを置いて仕事に行ったりしないでしょうね──とその瞳は語っている。
「もちろん、喜んでお供しますとも。姫のためでございますから」
アルフレドは胸に手を当て、うやうやしく返事をした。小さな怒れる姫君は、その言葉を聞いてすっかり満足した。
アルミリアは暖炉の前の寝椅子でうたた寝をしている。フレディが様子を見にやってきて、鼻を寄せてくる。
その湿っぽさがくすぐったいと思いながら、両親が何やら話し込んでいる様子に耳を傾けるが、どこか遠い世界の話のように感じられる。
アルミリアの意識はふわふわと室内を飛び回る。眠るのはもったいないと思っている。
──だって、あたしはまだ話し足りないのだから。
「アルミリア、こんなところで寝てはいけないよ」
肩を揺すられ、アルミリアは聞こえないふりをした。
狸寝入りを続けていると、アルフレドとエリザは何やら暖炉の前で作業をしていた。
そっと薄目をひらいて眺めると、アルフレドは何やら紙屑を暖炉に放りこみ、燃える様を眺めていた。エリザはそれを見て、満足げにぱちぱちと拍手をする。
──燃やすってことは、いらない手紙なのかな?
いらない手紙って何だろう、用事があるから送られてくるんじゃないのかな──そんなことを考えていると、いよいよ意識が消えそうになってくる。
「仕方ないのよ、何たってお姫さまですから」
「確かに、それは間違いない……」
抱き抱えられ、アルミリアは自室に運ばれた。冬のヒヤリとした空気が頬に触れたが、頑なに目を開くつもりはない。
羽毛布団の中には湯たんぽが入っていて、すでにほんのり温まっていた。震えながら眠りにつくことはなさそうだと、アルミリアは安心して寝台に体を沈み込ませた。
「まったく……」
アルフレドは娘の細い金髪をくしゃくしゃにした。
「もうしばらくは、うちだけのお姫様でいてもらおうかな」
アルミリアはまどろみの中、満足げに微笑んだ。しかし、暗闇の中ではそれは気取られなかっただろう。
足りなかった分の数日、明日から取り返すために何をして過ごそうか……アルミリアはそんなことを考えながら、眠りについた。
お読みいただき、ありがとうございました。このような感じで、キレ散らかしながらも楽しくやっているということで。このお話を最初に投稿してから色々なことがあり、明確なターニングポイントになった作品です。綺麗に完結している話を引っ張り出すのもどうかなと思ったのですが書きたい時に書くのが一番だなと。ありがとうございました。