第1話 ヴェノワの氷姫
ヴェノワの朝を、白い霧が包み込んでいた。
私は、井戸水で冷たくなった手で、粗末な木の扉を開ける。可愛い弟のアンジュが、一目散に私の元へ駆けて来た。
「姉様!! ごめんなさい、僕、何も姉様の役に立てなくて……!」
アンジュはそう言って、私に抱き着いた。私の背を掴む、小さな手。サラサラの菫色の髪。私は、彼の頭を撫でて笑った。
「いいのよ、アンジュ。それより、お腹が減ったでしょう。今、朝ご飯を用意するわね」
今年13歳になる私の大切な弟は、私と同じ菫色の瞳を潤ませながら、私を見上げた。
「姉様の体、氷みたいに冷たくなってる……ごめんなさい、姉様。僕がもっと大きかったら、姉様をこんな目に合わせたりはしないのに。僕が大人だったら、あんな、ミゲルみたいな悪い奴、簡単にやっつけてやるのに!!」
ミゲル・ド・ヴェノワ。名前を聞くだけで、吐き気がする。ミゲルは父の弟で、若い頃に悪行の限りを尽くしてこのヴェノワ伯爵家を廃嫡された、悪人だ。それが、数年前に、突然ヴェノワ家に舞い戻って来た。自身の兄で私の父でもある、マイユ・ド・ヴェノワ伯爵が肺病に倒れたことを知ったから。父の死に乗じて、ヴェノワ伯爵家の財産と領地、そして爵位を乗っ取ろうとやってきた、最低の人間。幼い頃に母を、そして2年前に立派な父を亡くした私と弟のアンジュは、ミゲルにあっという間に屋敷を追い出され、こんな荒れ放題の離れに追いやられていた。
「しっ! 駄目よ、アンジュ。どこで、誰が聞いているか分からないのだから」
アンジュは、慌てて両手で口を押さえる。その可愛い仕草に私は笑って、竈にかかった鍋から木の椀にスープを注いだ。スープの具は、塩漬けの豚肉が少しと、屋敷の裏庭で取れた野菜。私はミゲルに命じられて、屋敷の小さな菜園を毎日手入れしている……収穫の十分の一だけを報酬としてもらう、という約束で。
「お待たせ、アンジュ。昨夜の残りだけど。はい、どうぞ!」
アンジュは「ありがとう、姉様!」と元気に言って、私達は向かい合って座った。この離れはもう長い間使われていなかったから荒れていたし、そう広くもないが、アンジュと二人なら淋しくも辛くも無かった。
扉の外に、微かに、聞き慣れた靴音が聞こえた。ほどなく扉が静かにノックされる。
「おはようございます、マーサですよ。アイリスお嬢様、いらっしゃいますか? 食品をお届けに上がりました」
使用人のマーサだ。もう何十年もヴェノワ家に仕えてくれている、優しい老女。私はアンジュとほっと顔を見合わせ、扉を薄く開けて小声で言った。
「マーサ! おはよう。どう? 屋敷の様子に、変わりはない? 皆、ミゲルに酷いことをされていないかしら」
ミゲルは、父の使用人を大量に解雇し、自分の連れて来たガラの悪い使用人や愛人を、何人も屋敷に置いている。でも私は、元の使用人を全て解雇したら屋敷が回らなくなると主張して、元の使用人を何人か残してもらっていた。もちろん、いつかアンジュが爵位を継ぐ時のためだ。実際、古い使用人がいなくなれば困るから、ミゲルも彼らを邪険にはしない。マーサは囁いた。
「はい、なんとか。アイリスお嬢様に言いつけられた通り、私共は息を潜めるように、あの悪党に従っておりますから。さあ、早くこちらを! アンジュ坊ちゃんと一緒に召し上がって下さいまし」
マーサは周囲に目を配りながら、布巾のかかった籠を差し出した。私は「いつもありがとう!」と小声で言って受け取る。マーサは「滅相も無い」と鼻をすすり、エプロンを目頭に当てた。
「お嬢様、あたしらを、どうかお許し下さい。お二人のこんな苦境を、あたしらは、指をくわえて見ているだけなんて! 亡き旦那様にも奥様にも、顔向けが出来ません……!」
嗚咽するマーサに、私はクスクス笑って言った。
「マーサは、昔から泣き虫なんだから! いいのよ、私達は大丈夫。あなたたちに危害が無ければ、良かったわ。さあ、もう行って。くれぐれも、ミゲルには逆らわないように。あと半年の辛抱よ。アンジュが13歳になったら、あんな奴、追い出してやるから!」
私が国の貴族法では、爵位を相続出来るのは嫡男だけだ。嫡男は、満13歳になれば、父親の爵位と領地を相続出来る。だが、もしもその前に親が死亡した場合、それらはひとまず国王預かりになるのだ。だから今、一時的にヴェノワ伯爵は不在で、領地は国王直轄になっている。そこに、あの悪党ミゲルが目を付けた。
叔父のミゲルは廃嫡されているから、当然ヴェノワの相続権は無い。だが、爵位を継ぐ嫡男が13歳に達していない場合、親族の男子は後見人になれる。そこに、「廃嫡された親族は除く」という条文は無かった。つまりミゲルは、無理やりアンジュの後見人になって、ヴェノワ伯爵家を乗っ取るつもりなのだ。
マーサは鼻をすすりながら、足早に離れを去る。私もすぐに扉を閉めた。
「あっ! ねえ見て、姉様! シュガー・キャンディが入ってる! やったあ! 僕の大好物だ!」
テーブルに置いたマーサの籠を覗き込んでいたアンジュが、大喜びで飛び跳ねた。籠の中には、塩漬けの豚肉とバター、瓶入りピクルス、葡萄パン、それに、赤と白の縞模様の細長いキャンディが何本か入っていた。
「良かったわね、アンジュ! 早速、一つ……」
と言った時だった。荒々しい靴音がドアの外に響いた。アンジュが顔色をサッと変え、怯えた声を上げる。
「ミゲルだ! どうしよう、怖いよう、姉様!」
「こっちよ、早く!」
私は急いでアンジュを寝室へ向かわせる。すぐに、玄関扉が荒々しくノックされ、怒鳴り声が響いた。
「開けろ!! ガキはどこだ!! 出て来い、アンジュ!!」
アンジュが「ひっ!」と息を飲み、私にしがみついた。寝室にアンジュを避難させるより早く、ミゲルが玄関扉を開けて現れる。たるんだ体躯、黒い巻き毛に、神経質そうな青い目。ミゲルは、連日の深酒と煙草で潰れた声で怒鳴った。
「何をしている、小僧! 言っただろう。今朝は、お前に剣の稽古をつけてやる、と!」
アンジュは震えながら、「姉様、姉様!」と顔も上げず私の背にしがみついている。私は彼を背中にしっかり匿ったまま、冷淡な声で言った。
「稽古ですって? あんなもの、稽古でもなんでもないわ。ただの暴力でしょう。アンジュは、あなたには渡さない。今すぐ、ここから出て行って」
ミゲルは、稽古と称してはアンジュを連れ出し、ひどい暴行を加えようとする。暴力でアンジュを支配し、言いなりにさせるつもりだ。私はその度に、ミゲルの愛人達に密かに銀貨を握らせて、この男の関心をアンジュから逸らすようお願いしていた。
私の言葉に、ミゲルが野犬のように歯をむいて怒鳴った。
「口には気を付けろ、アイリス! 貴様なんぞ今すぐにでも奴隷として売っ払ってやりたいが、生憎『ヴェノワの氷姫』に手を出す奴などいない。『呪われた氷姫と関われば不幸になる』と、あちこちで噂されているからな!」




