2.『私が生まれた日/あなたが失われた日』
真っ白な空間が徐々に溶けていく。
(天井……見たこともない、天井)
朧げに見て来たのは、古びた木の天井。古木に灰色の筋が並んでいる。
(ここは、どこだろう――)
そう考える間もなく、変化は訪れる。
「ああ……」
誰か――女性の安堵の声が聞こえてくると、少女の肩に皺だらけの手が触れる。
驚き、振り向くと、涙でくしゃくしゃの顔をした、老齢の女性の顔があった。
「よかった……本当に、よかった」
そのまま優しくだけ寄せられると、抱きしめられる。
少女は驚くが、どうしてもその手を引き離すことが出来なかった。
(あったかい……)
困惑していると言うのに、どこか安心している。
涙を流して、優しく抱きとめてくれる女性。まったく知らない筈なのに、ずっと昔から知っているかのような、安心感があった。
「ああよかった、目を覚ましてくれたのね、『アルス』」
「アル……ス?」
そう呼ばれ、思わず問い返す。
聞いたこともない、馴染のない言葉であった。
その言葉の無機質さに気が付いたのか、女性は困った顔をする。
「そう……まだ意識が曖昧なのね。そうよね、一度死んだのだから、無理もないわ」
心配げに顔を覗き込まれる。そこで、少女は居心地の悪さを感じた。
「え、うん……そう、なのかな」
誤魔化すように笑おうとしたが、顔が動かない。
女性は口を開くと、困惑したようにあたりを見回す。
「まっていて、今、温かいミルクを持ってくるから。それを飲んだら、少しは落ち着くはずよ」
そう言うと、足早に部屋を出ていった。
(……えっと、これは……)
残された少女は、ただ困惑して周囲を見る。
(ここは……どこだろう)
改めて観察をする。
自分がいるのは、見たこともない部屋。木で出来た現代では珍しい造りの一室。天井には照明のようなものはなくて、代わりに壁にランプのようなものがある。
自分が寝ていたのは子供用のベッドで、敷かれているマットレスは真っ白でよく手入れされている。
(着ている服も、ちゃんとしてる)
さわっとした感触の寝間着は、今まで着ていたボロ着とは違って、汚れもない。
(本当に、ここはどこだろう……)
窓の外からは日差しが差し込む。
東京の冷たい夜空とは違う、温かい空気が流れていた。
――な、さい――
弛緩した空気の中、誰かの声が届いた。
『しっかりしなさい、『アルス』!』
それは、少女――『アルス』に向かって届いた。
「えっ、どういうこと?」
思わず返事をして周囲を見渡す。けれど、誰の姿も見えない。
(え、でも……確かに声は聞こえたし)
『もう、しっかりしなさい。アナタ自身の中から話しかけてるんだから!』
確かに、言葉は少女の内側から聞こえてきていた。
ただ、その言葉は耳に届くと言うよりは、脳に直接送り込まれているような感じだった。
少女は思わず自分の頬を叩く。とっくに忘れていた、痛いと言う感覚があった。
『ああもう、アタシ――じゃなかった、自分の顔を叩かないの』
内なる声は呆れたように言う。
「えっと、どういうことなの?」
『アタシが聞きたいわよ。なんでアタシの体で言葉を発しててるの? アナタはアタシで『アルス』なんだから、もう少ししっかりしなさい』
明るい少女の声だった。どことなく、気の強そうで、早口だった。
「アルス……それって、アタシの名前?」
『そうよ。ようやく気が付いたのね』
ふと、部屋の隅に置かれている鏡が目に入った。
よく目を凝らしてみると、そこには見知らぬ少女の姿があった。
ふわふわの金髪の、蒼い瞳の少女。都会の隅で泥とゴミにまみれた少女の姿はそこになく、異国の少女――『アルス』の姿がそこにある。
(これが……私?)
手をあげてみる。ちゃんと鏡の中の自分自身も動く。
自分自身の肉体であると認識する。
今、彼女はまったく違う肉体で、見たこともない場所にいる。
(一度死んで、気が付いたら別の肉体に……それ、どこかで聞いたことがある)
ふと、頭の中に一つの言葉が浮かぶ。
――『転生』――
何度も何度も聞いてきたような錯覚をアルスは覚えた。
「もしかして……私、あなたの存在に転生したのかも」
『転生? どういうことなの』
「一度死んだ人が、別の世界で生まれ変わるの」
物語の中である。無念を抱えて死んだ人間が、記憶をもったまま別の人生を生きる。
まさに、今のアルスが置かれている状況そのものだった。
『もしかして、その時に誰かの肉体を奪うとか?』
内なる声にそう聞かれた時、アルスは頭を殴られたような気がした。
(確かに、その通りだ……今、私は見知らぬ誰かの肉体を使ってる……それは――)
鏡にうつる背格好はまだ十歳くらいの小さな少女。
少なくない時間を生きてきた人間の肉体を奪って、今、喋っている。
「それは……」
どう取り繕っていいか分からず、少女は言葉に詰まる。
『ごめん、ハッキリ言い過ぎたかも』
それに、内なる声は申し訳なさそうに応える。
だが、すぐに、明るい口調で話し始めた。
『いい、アンタの事情はよ~く分からないけど、アタシの事情が分かるわ。
アタシも、死にかけた……いや、たぶん本当に死んだんだと思う。あの感覚は死んだとしか思えないもの』
アルスは思わず言葉を失う。だが、内なる声は言葉を気にもせずに続ける。
『でも、オーロラお婆様は諦めなかったの。錬金術の秘術を使って、魂を呼び戻そうとしたの』
「錬金術?」
聞きなれない言葉に問いかけると、少しの沈黙。
そして、たどたどしく解説が帰って来た。
『えっと、理を造り神秘を呼び起こす秘術……奥義は、命すら自由に操ることが出来るって聞いたわ。
その力を使って、アタシを蘇らそうとしたの』
そこまで聞いて、アルスの中に一つの疑問が浮かぶ。
「でもそれって、許されるの?」
『うっ……』
またしても沈黙。アルスはどうしていいか分からず困惑していると、バツの悪そうな声が聞こえてくる。
『分からない……でも、お婆様はやろうとしたの……』
「うん……わかった、私もそれ以上は何も聞かない」
『ありがとう』
こほん、とわざとらしい咳払いが聞こえた。
『だからその……あーもう、死んだのお互い様だから、気にしないで』
アルスは、その言葉を静かに受け取る。
(そんなこと言っても、なんであなたがそこまで譲歩するの……)
突然肉体を奪われたと言うのに、元の肉体の持ち主はそれを咎めようとしない。
アルスの心に、針で刺されたように痛みが生まれる。それが実際の痛み出ないことは分かっていても、止まることはなかった。
『それよりも、大切なのはオーロラお婆様。
アタシがちゃんと生き帰ってないって分かったら、オーロラお婆様が悲しむわ』
それでも、声の主はただ、自分を助けようとしてくれた人の心配だけをする。
『いい、少しでも悪いって思うのなら、全力で『アルス』をやりなさいっ!』
ただ真っすぐな要求。もっと攻撃的に伝えてもいいと言うのに、そこ言葉にはどこか優しさがある。
「……わ、わかった」
アルスは、頷く。
それと、扉が開かれたのはほぼ同時だった。
「アルスちゃん、ミルクを持って来たわよ。
落ち着いたら、ごはんも食べましょう。柔らかいものから、ゆっくりね」
心の底から心配をしてくれる女性――オーロラの顔を見る。
それを見ていると、失望させたくない、と言う言葉の意味が理解できた。