3.『私/あなた』
アルスが暖かいミルクを口に含んだ時、久しぶりに舌と脳が美味しいと声をあげた。
幾年ぶりかの感触に、少女は目を大きく見開くと、それを満足気に老婆は眺めていた。
「ふふっ……」
僅かに漏れ出る声には喜びの色。だけどそれにどう返していいか分からず、アルスはコップから口を離せない。
『ほら、こういう時は、美味しい、とか、ありがとう、とか言うの』
内なる声は不満げに促す。
(そうだよね、ちゃんと言わないと、変に思われちゃうし)
「あり、ありしいです」
『混ざってる混ざってる』
上手く言葉が出ず、恥ずかしくて顔が熱くなった。その感覚も、彼女が久方ぶりに味わうものであった。
「いいのよ、魂を呼び戻したばかりなのだから、すぐには元には戻らないの。
でも大丈夫、アルスはアルスなのだから」
老婆は優しく微笑みかける。アルスはその視線から、思わず目を逸らしてしまった。
◆◆◆
暫くして、オーロラは部屋を出た。
――まだ目覚めたばかりで本調子ではないのだから、ゆっくりお休みなさい――
あとに残されたのはアルス――そして、内なる少女だけ。
アルスは云われたままにベッドの上で横になる。けれど、何処か落ち着かない。
(暖かい……こんな整えられた場所で寝るのって、いつぶりだろう)
肌に伝われるマットレスの柔らかい感覚も、部屋の中のハーブの香りも、整い過ぎて逆に居心地が悪かった。
『大丈夫? なんかずっとソワソワしてるけど』
「うん……大丈夫、なんだと思う」
『なによ、返事が曖昧ね』
指摘されてその通りだと納得すると、アルスは思わず苦笑いをしていた。
どこか落ち着かず、ベッドから降りるとあちこち歩き回る。
板張りの床は掃除が行き届いており、素足で歩いても違和感を覚えない。
ペタペタと部屋を一周して調度品を見て回る。
(古びた大時計……ランプに木のお皿……日本と言うよりは西洋の家屋だけど、なんだかゲームとか物語の中みたい)
死ぬ直前は文化的な生活とは程遠い状態であったが、アルスは義務教育を終えている。そのくらいの年齢までは、人並みの生活をしていた。
まだ幸せだったころに体験した物語。その中にある物とそっくりな景色だと感じた。
(外は、どうなってるんだろう)
太陽の光がさし込む窓を見る。うっすらと見える空の色は薄い水色で、都会の空よりも澄んでいる。
『ねえ、さっきからずっと黙ってないで何か言ってよ』
「え、考えてることは伝わってないの?」
『うん。さっきから無表情で部屋の中を歩きまわってる感じ』
歩き回りながら考えていたことは、アルスの中だけで完結をして、声の主には届いていないようだった。
「ねえ、あなたは今どういう状態なの? 見ている景色とか、音とかは?」
『なんて言っていいかな。アンタの姿を後ろから眺めてる感じ。ある程度は自分で視線を動かせるけど、距離は離れられない。
お婆様の本にあったけど、魂が肉体を基準として飛び回っている状態なんだと思う。
なんだったら、アンタの顔だってちゃんと見えるわよ。なんか無表情で、せっかくの可愛い顔がもったいない』
「で、でも、声は届かないよね」
『そうよね。届いてたら、お婆様も気が付いていた筈だし』
オーロラが居た時も、何度かアルスは内なる声を聞いていた。だが、それをオーロラにも聞こえていた様子はない。
「か、確認するけど、オーロラさんの声は聞こえてたんだよね」
『もちろん。だから、届けることだけが出来ないみたい。
もちろん、アンタの身体を好き勝手することだって無理だから』
「う、うん……」
アルスは手を開き、手のひらを見る。
小さな手の平には僅かな傷がある。それは生きているからこそついたものだ。
(この傷は私のものじゃない……この身体だってそうだ。
なのに、元の持ち主は自由に動かすこともできない……そんな状態に、私がしてしまったんだ……)
腕を前に出しても、足を前に出しても、どこか馴染まない。動くけれど、どこか違和感があった。
『ねえ、それよりさっきからどうしたの?
窓を見ててけど、外が気になるなら窓を開けたら』
「う、うん、そうする」
どこかぎこちない動きで歩き、窓の前に立つ。
キッチリと閉められた窓は子供の手には硬くて、何度か力を込めるとようやく開いた。
解放された瞬間、外の空気が一斉に流れ込む。
春の、若草の匂いだった。
「わ、あ……」
『どう、ヴァイダの春の風は、気持ちいいでしょ』
内なる声は得意気に言う。
「ヴァイダ?」
『目の前に広がる村の名前。
草原と森の境界線。牛の鳴き声と木々の騒めき、それと、風の囁きが広がる村の名前よ』
窓の外に広がっていたのは、春の草原と森。そして、石畳の道。
アルスが居たのは、村のはずれにある三階建ての屋敷の二階。窓を開いて広がっているのは、村の中央へと続いている道。
遥か先には、石と木で組み上げられた家々が並んでいる。
道を行く人々は西洋風の恰好をしている。
(ここも、物語の中みたいだ)
西洋風。物語で言えば、中世のまだ神秘の香りが残る世界そっくりの様子。ただ、現実の中世よりも発達、整った風景が広がっている。
「空気、綺麗だな」
『そう? アタシには当たり前みたいだけど』
「私が知っている都会の空気は、とっても重くて冷たかった……
それに慣れた頃は、嫌だって気持ちも感じなくなってたかな」
『アンタ……さらっと物騒なこと言うわね』
「そう……なのかな」
『そうよ……』
ため息交じりの返事が返ってきた。
◆◆◆
ヴァイダ村――
草原と森の狭間に存在する、大きな村であり、畜産と森からの恵みを産業としている。
周辺は穏やかな気候に恵まれ、村の端を流れる川からの豊富な水資源があり、めったに飢饉は訪れない。
草原からの穏やかな風は、四季の移り変わりを示し、風車はこの村の象徴である――
◆◆◆
『と、言うことよ、分かった』
景色を眺めながら、内なる声はアルスにざっとこの村について説明をしてくれた。
村の大まかな様子だけでなく、近所にどんな人がいるのか。そんなことを聞いていたら、いつの間にか太陽は傾いていた。
「うん、ありがとう」
『他に質問はある?』
得意気な声に、アルスは暫し考え込む。
「それじゃあ……」
そして、一つ問いかけた。
「オーロラさんって、どんな人なの?」
『ふふん、待ってました』
どことなく、声は今までで一番うれしそうだった。
『オーロラお婆様はね、老いてもなお美しい白亜の流れるような髪と、気高い顔立ちの素敵なお婆様なの。
もちろん、容姿だけじゃなくて内面もバッチリ。昔、都で学んだ作法は王族の前に出しても恥ずかしくない所作で、うっとりするくらい。
それだけじゃない、高名な『錬金術師』で、この村の人が金属を必要とするなら、真っ先に頼むのがお婆様なの』
マシンガンのような語り口は止むことはなく、夕暮れが近づいても止まることはない。
アルスは、それを止めずに聞いている。
『アタシが生まれてすぐにお父様とお母様は死んでしまったそうなの。
ずぅーっとオーロラお婆様に育てられてきたのよ』
「うん……」
『大丈夫、アンタだって、すぐにお婆様の素晴らしさが分かるから!』
楽し気な声は、月が昇るまで続いた。
その日、アルスは安らかに眠ることが出来た。じつに、数年ぶりの事だった。




