こんなこともあろうかと
僕の妻は用意周到な女性だ。
何かあるたびに「こんなこともあろうかと」と言って欲しいものがすぐに出てくる。
この前なんか、二人で出かけたあとに大雨が降ってきて雨宿りを余儀なくされたが、
「こんなこともあろうかと傘を持ってきたわ」
と言って折りたたみ傘をバッグからふたつも取り出してくれた。
天気予報は晴れだったのに、本当に用意周到だ。
そんな僕らは、休日にハイキングに来ていた。
本格的な山ではなく、初心者用の山だ。
普段デスクワークばかりの僕の身体を心配して、妻が誘ってくれたのだ。
休みの日に運動? と思ったけど、いざ来てみると清々しかった。
たまにはこうして一日歩き続けるのもいいかもしれない。
季節は秋で景色もいいし。
と思っていたのだが、やはり日頃の運動不足がたたったのか、息切れしてきた。
初心者用の山とはいえ、やはりキツい。
「ああ、杖を持ってくるんだったな」
そう言うと妻は待ってましたとばかりにバッグから折りたたみの杖を取り出した。
「こんなこともあろうかと杖を持ってきたわ」
「おお、助かる」
杖をついて歩くと幾分かツラさが和らいだ。
「ふう、ふう、ふう……」
さらに歩き続けること一時間。
いくら秋とはいえ、若干暑くなってきた。
額に汗が噴き出る。
「ああ、タオル忘れた」
そう言うと妻はバッグからタオルを出してきた。
「こんなこともあろうかとタオル持ってきてるわ」
「助かるよ」
妻からタオルを受け取って額を拭う。
さすが完璧妻。
僕が欲しがってるものをすぐに出してくれる。
やがて頂上につくと、見晴らしのいい景色が広がっていた。
紅葉がとても綺麗だ。
と同時にグウとお腹が鳴った。
「お腹すいたね」
「こんなこともあろうかとお弁当持ってきてるわ」
そう言ってバッグからお弁当を取り出す。
大きめで重そうなバッグなのに、まさかお弁当まで持ってきてくれてたとは。
僕は妻とベンチに座ってお弁当を食べた。
唐揚げにハンバーグ、それにウィンナーと僕の大好物ばかり入っている。
「今日は肉まみれ弁当にしてみたの」
「すごいよ。最高だよ」
妻の作ったお弁当を頬張りながら、水筒に入れたお茶を飲む。
大自然の空の下で食べるお弁当は格別だった。
「ごちそうさま」
食べ終わる頃にはすっかり身体も冷え、さすがに寒くなってきた。
初心者用の山とはいえ、標高はそこそこある。
「ちょっと冷えてきたね」
そう言うと妻は
「こんなこともあろうかとダウンジャケットを持ってきたわ」
と言って大きなダウンジャケットを差し出してきた。
まさかバッグの中にダウンジャケットまで入ってたとは。
「ありがとう」
そう言って羽織ると、ものすごくぽかぽかして温かかった。
「そろそろいきましょうか」
「うん、そうだね」
下山を開始した僕らは、急斜面に注意しながらゆっくりと山を下りていった。
しかし途中で僕の靴の先端がパカッと開いてしまった。
登山靴ではなく安いスポーツシューズだったのが災いした。
まさかここにきて靴が使い物にならなくなるとは。
「ヤバ、靴が壊れた」
しかし妻はバッグから一足のスポーツシューズを取り出した。
「こんなこともあろうかともう一足持ってきてるわ」
用意周到すぎない?
でもありがたい。
僕は妻からスポーツシューズを受け取って履き替えた。
「よかった、これで下りられる」
さらに下山を進めていく僕ら。
ふいに妻が「こっちの道は危険かも」と言い始めた。
「え? なんで?」
「なんか獣のうなり声が聞こえた気がするの」
「ほんと?」
まずい。
もしかしたら熊かもしれない。
一応、熊鈴はつけてきたけど、避けられるのなら避けた方がいい。
「じゃあこっちの道にいこう」
僕はそう言って中級者コースの道を歩き出した。
中級者コースは初心者用とは違い、急斜面が多くて歩くのがさらにキツかった。
崖も多く、一歩足を踏み外せば地面に真っ逆さまだ。
「気をつけて歩けよ」
「ええ、あなたもね」
多少怖い箇所もあったけど、獣に出会うよりはマシだ。
ゆっくりと慎重に進んでいくと、ふいに何かに背中を押された。
「え?」
気づけば目の前がぐるぐる回転している。
何だ?
何があったんだ?
全身に激痛が走る。
気づけば僕は、崖の下に倒れ込んでいた。
そしてそんな僕を妻は笑いながら見つめている。
「な……なに……を……」
声が出ない。
妻は瀕死の僕に言った。
「心配しないで。こんなこともあろうかと事前に救急隊を呼んでおいたから」
事前に?
僕はそのままゆっくりと目をつむったのだった。
※
気づくと僕はベッドの上にいた。
いや、違う。
ベッドの上で眠る僕を見下ろしている。
なんだこれは?
どういうことだ?
やがて、ベッドの上で眠る僕のところに白衣を着た人たちが慌ててやってきた。
医者だろうか、すぐに心臓マッサージを始めた。
しかし僕の身体はウンともスンとも言わない。
それからいろいろ試してくれたが、医者はあきらめたように首を振った。
「すいません、手は尽くしましたが……」
その言葉の先には妻がいた。
泣き崩れるようにベッドの上で眠る僕を見ている。
「このあとの手続きがありますので……」
「もう少し夫と一緒にいさせてください」
「では気持ちの整理がつきましたら、私どもに声をかけてください」
そう言って医者たちが帰っていく。
すると泣いていた妻は無表情に戻って立ち上がった。
そして宙に浮かんでる僕が見えているかのようにこちらに顔を向けた。
なんだ? と思っていると、彼女の口から恐ろしい言葉が発せられた。
「ふふ、こんなこともあろうかと死亡保険の受取人を私にしておいてよかったわ」
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
初投稿日が2016年7月2日。
そして10年後の今日、25作品目を投稿して完結設定をさせていただきました。
まさに10年越しの完結。
実は10年前に投稿したのを知ったのは本当に偶然でして。
2026年7月2日に「これ、最初はいつ投稿したっけ?」と見たら10年前の2016年7月2日で。
こりゃもう完結させるしかない! ちょうど25作品目だし!
ということで急遽、本来は短編で出す予定だったこのお話を投稿させていただきました。
それぞれ独立して賞レースに応募し、中には短編賞をいただいたりとありがたい経験をさせていただいたお話もございました。
本当に思い入れのあるホラーミステリー短編集となりました。
皆様の心に少しでもゾクッと思えるお話があればいいなと思います。
最後までありがとうございました。
2026年7月2日




