完全無欠のパーフェクトフード 3-1
ジーンを納得させるだけの理由を、僕は持ち合わせていない。
『美味しい』がある理由は、それこそたくさんあるけれど、今のジーンにとって意味を成す理由にはなりえない。――味覚を失ったジーンにとって、『美味しい』は無意味だ。
無意味を、有意味に。
変えなければならない――意味、という単語には奇しくも味の一文字が含まれている。偶然か必然かはわからないし、この世界には漢字はないけれど、漢字から発展・変化したであろう文字を操る一族には会ったことがある。
ナラム氏族だ。
ゾト・ナラムが笑うと、顔面右側、額から頬にかけて彫られた『巫』の一文字もつられて歪む。入れ墨こそ威圧感があるものの、本人は無邪気な笑みを顔じゅうに広げた、友好的な少女である。
「会いたかったぞ、わらわの運命のおかた……。わらわはこの日を一日千秋で待っておった」
「待っておったっていうか、追いかけてきたんだけどね、ゾト様のほうが」
「そう――つまり、わらわの愛が距離を超えた!」
「距離を超えたのは愛じゃなくてレイチェルの運送能力だね」
「愛がヒトの心をも動かしたということだな!」
「ああいえばこう言うなコイツ、相変わらず……!」
僕のとなりに座ったプリムが目を眇めながら「キャラ、濃……」と呟いた。プリムもたいがいだと思うけど、一人称「わらわ」はたしかに濃い。
「さあ、いまこそあの日できなかった――めおとの契りを!」
「しませんよ」
晩餐会最終日の翌日。場所はノックアウトバーガーの応接室。レイチェルとの約束通り、僕はゾト・ナラムと面会していた。僕とプリムがソファに座り、テーブルをはさんで反対側にゾト・ナラム、そして彼女の座るソファの横にレイチェルが立っている形だ。彼女に頼んで、急遽、この場を設けてもらった。
「以前も言いましたが、僕はあなたとは結婚しません」
プリムの手を握り、決然と言う。こういうのは、まっすぐに正面から言うべきだろう。プリムも同様に正面から――ではなく、下からえぐりこむようにゾトをにらみつけた。ガンを飛ばすな、ガンを。だけどゾトはそんなプリムを見て、にっこりと笑った。
「ほお。では、そなたがプリムか。いや、言わずともわかる。そのきれいな赤毛に気の強そうな瞳……聞いていた話にたがわぬ美人だこと。わらわ、そなたにも会いたかった」
好意的な態度に気勢を削がれた元ヤンが、やや調子を崩しつつ「は、はあ……」と生返事をする。
「智者マリウスは毎日のように言っておった――「プリムは世界でいちばんかわいい」と。なるほどたしかに、かわいい嫁だ」
「なっ――マリウス!? そんな恥ずかしいこといつも言ってたの!?」
「いや、言ってな――」
とっさに否定しようとしてから、僕はナラム地域での生活を思い返し、少し考え、一回頷いた。
「――いこともないね。どちらかというと毎日言ってたかもしれない」
「ばか!」
顔を真っ赤にして照れ怒るプリムも世界一かわいいので、世界かわいいものランキングはたぶんプリムで埋め尽くされている。全部同率一位でプリムが優勝だ。
「でもそういうことなんだ。ゾト様、僕の一番はプリムなんだ。だから、あなたとは結婚できない」
「おお、それを聞いてわらわも安心したぞ。これほど愛の深いおぬしなら、ふたりめ以降も大切に扱ってくれるだろう?」
「……え? ふたりめ?」
首をかしげると、うむ、とゾトが頷いた。
「わらわ、第二夫人でかまわぬ」
「僕がかまうわ!」
あと族長も構うと思うので、そんなことを気軽におっしゃらないで頂きたい。
「――? すでに第二は埋まっている、と? ならば、第三でどうじゃ」
「そういう話ではなくてですね!」
ゾトは「はっ、まさか!」となにかに気づいてレイチェルを仰ぎ見た。
「レイチェル、さてはおぬしが第二……!?」
「おぞましい想像をしないでくれ!」
僕がつい嫌な顔をしてしまうと、僕が嫌な顔をするのが大好きな性悪がにっこりと笑った。
「――わたくしは第六です」
「なんと!?」
「第六は第六でも天魔王とかのほうだろう、おまえは。話をややこしくするな」
そのとき、ドアをノックして美少年――美少女――か、ともかく見た目が五年前からぜんぜん変わっていないウィステリア・ダブルがティーカップの載ったトレイを持って入室してきた。
「ウィステリア、あなたは何番目がいいかしら。ちなみにわたくしは六ですの」
「では、七で。お嬢様のひとつ後ろを歩きたいので」
「まあ、嬉しいことを言ってくれますわね! ご褒美に今夜は添い寝してあげますの!」
「いざというときは盾にできますからね」
「まあ、嬉しいことを言ってくれますわね! 罰として今夜は抱き枕の刑ですの!」
「待て、やめろ、この流れで個別にいちゃいちゃするな。話を元に戻せ」
めちゃくちゃだ。プリムは紅茶のカップに口をつけて、ひとつ頷いたあと卓上の角砂糖を追加して、優雅に飲んだ。
「――これが一番の余裕ざます」
「プリム、妙な語尾をつけて張り合わなくていいから」
ともかく。
「ええと、ゾト様。帝国は一夫一妻制です。例外は王室だけ。ナラム地域のような一夫多妻制ではないのです」
愛人がいる貴族は多いけれども。話がややこしくなるので伏せておく。
「なので、僕はプリムとしか結婚できないし、プリム以外と結婚する気もありません。おわかりですか?」
「うぅむ……それが帝国のルールならば、仕方あるまい」
意外や意外、ゾトは素直に引いた。
「仕方ないので、マリウスとプリムをまとめてナラム地域に招待しよう。なに、此度の遠征には部下のシノビ衆も連れてきておるからのう……大人しくしておれば手荒な真似はせぬ」
「誘拐も困るからやめて」
ナラム氏族のために言っておくと、彼らの多くは理知的で温和だ。この巫女が例外なのである。困ったことに。本当に困ったことに。
レイチェルが顎に指をあて、口をはさんだ。
「でも、悪くないのでは? 政略結婚から逃れつつ、ナラム地域にこっそり亡命。ついでにハーレムまでゲットですもの。ついにあなたもお約束のハーレム展開へ……!」
「しないよ! ――僕はジーンから逃げない。隣国にも嫁がないし、ナラム地域にもいかない。帝都でダイナーをやるんだ」
ぎゅっとつないだ手を強く握る。
「プリムと一緒に」
「――うん。一緒にやるの、あたしと」
ふたりで挑むように部屋のみんなを見ると、レイチェルが仮面の笑顔を外して、ふわりとほほ笑んだ。
「相変わらずおめでたい脳をしていますのね。せいぜい頑張ってくださいな」
「ああ、精一杯やるさ――だからここに来たんだ」
ゾトを正面から見据える。
「ゾト様。――ソーマ様を出していただけますか。智者としてお願いがあります――ソーマの豆をこの地にも融通していただきたい」
にこにこと笑っていたゾト・ナラムが瞬時に顔を切り替えた。――いや、切り替えたのは顔ではない。
中身だ。
部屋の空気も変わる――凡人である僕にもはっきりとわかるくらい、魔力が渦巻いている。プリムが僕の腕に縋りつく。僕は反対側の手でソファの手すりをしっかり握って、奔流に耐える。そんな中で、レイチェルとウィステリアくんが涼しい顔で突っ立っているのを見ると、やはり彼女たちは歴戦のつわものなんだなと、変なところで感心してしまった。
渦がおさまると、そこにはにこにこ――ではなく、にやにやと笑うゾトの顔があった。顔面右側を覆う入れ墨の文字が『巫』から『豆』になっている。
降霊状態だ。
〈おう、マリウス。久しぶりだなぁ〉
ざりざりと魔力のノイズが走る声で、ゾトの身体を借りたソーマが言った。
〈何年ぶりだ? もう三十年くらい経ったか?〉
「まだ二年ですよ、ソーマさん」
〈へぇ。悪いな、時間の流れには疎くて。――アンテナ状況悪いな。そこ圏外だろ〉
「ナラム地域からは海を挟んで隣の大陸の、さらに内陸の国ですね」
〈ほおん。そりゃ遠い。でも、ま――うちの巫女が、圏外を承知で無理におれを降ろしたんだ。つまり、誰かがおれの豆を揺るがそうとしている――ってことだ。おれも無理に話すが、かまわねえな?〉
ご、とまた魔力が渦巻く。大精霊が怒りを携えているのだとわかる。
「ゾト様の負担にならない程度で、お願いいたします」
〈それなら大丈夫だ。おれが降りると神基準にアジャストされるからな。たいていの体調不良は治るし、抗うつ作用もあるし、寿命もちょっと延びる。だからうちの巫女は代々若々しく美しい――もっとも、ゾトは実年齢も若いがな。まだ百歳行ってない〉
「二十歳すらいってねえよ。じゃなくて」
気さくだけれど厳格。他人に甘いけれど傲慢。ソーマは大精霊で信仰の対象だけれど、いわゆる善性の存在ではなく――気まぐれで厄介で、だけど恵みをもたらしてくれる。ナイル川の氾濫みたいなものだ。そんな相手だから、使う言葉は選ばなければならない。気さくに、隣人に接するように――だけど最大限に敬意を払って接する必要がある。
「豆を融通してもらいたい――と言ったのは僕です。ソーマさん」
〈ソーマバーの流通は許しただろうが。この上、もっともっと欲しいってか?〉
「……そうです」
〈そりゃダメだ。いくらおまえでも、ダメなものはダメ。可能なら、ソーマバーでさえ出回らせたくなかったくらいなんだぞ〉
即答で断られた。ソーマは髪を揺らめかせつつ、そばに立つレイチェルに鋭い目を向けた。
〈特に、そこの傭兵はダメだ。そいつからは殺神者の気配がする。そんな危ないやつにおれの豆を渡してみろ。おれも殺されちまう〉
「あら、わかりますのね。……土着の神ならもう二柱ほど落とした経験がありますの」
〈それ見ろ! こんなやつがいるからおれは目立ちたくないの!〉
レイチェルはあきれたようにソーマを見た。
「殺しませんわよ。殺した二柱に関しては、完全に正気を失った混沌悪でしたもの。わたくしは、ただあなたの豆で商売をしたいだけですの」
〈いずれおれが正気を失ったらどうする?〉
「……まあ、ケースバイケースですけれど、悪精の討伐は名声にもプラスになりますし、やるかやらないかでいえばやりますわね。わたくしがやらなくても、ほかのだれかがやるだけですし、それならわたくしが手を下したほうが後々の利権争いで有利に――じゃなくて、まあ知らない仲でもないわけですし、介錯してさしあげたいのが友情というやつですの」
〈それ見ろ! 銭の損得でモノを考えやがる!〉
「正気を失わなければいいだけでしょう?」
ソーマはぶわりと空に浮かび上がって、レイチェルに詰め寄った。ひとが浮かんでいる様子を見て、プリムがぽかんとした顔をしている。
〈いいか、小娘。精霊ってのは、二種類に分岐する。悟りに至って本物の神階を登り昇神するか、正気を失って狂気に堕ちるか、だ。この場合の信仰ってのは宗派の問題じゃなく、『知名度』があるかどうかがポイントでな。おれの豆の名が広まれば広まるほど、おれの豆がヒトを救えば救うほど、おれに集まる信仰の力は強くなるわけよ〉
レイチェルはすまし顔で見つめ返している。知っている、と言わんばかりに。
〈たいていの精霊はさっさと悟りに至るが、おれみてえに人間からアストラル体に昇華した存在の大半は悪精になる。なっちまう――人間はどこまで行っても人間なのさ。悟りなんてはるか遠く、だ。転生も一回だけじゃ、輪廻からは抜け出せねえ〉
「……それで?」
〈おれは怖いんだよ! おれが正気を失ったらどうなる? おまえらに殺される! それも嫌だが、なによりも……ナラム地域にはおれの愛した女たちの子孫がたくさんいるんだぞ!? そいつらを――正気を失ったおれは、殺しちまうかもしれねえ〉
ざりざりとノイズをまき散らしながら、ゾトの喉から神の声が零れ落ちる。
〈そんなの想像するだけでも耐えられねえ! だからおれは決めたのさ――この世が滅ぶまで、正気を失わずにショボい土着の精霊で居続けるってな。信仰は集めすぎず、地域は広げすぎず、だ。そのために豆が育つ範囲もナラム地域だけに絞ってる。その地域の信仰だけで十分だからな〉
「……なるほど。こわがりですのね」
〈悪いか。そんでもって、怖がりなおれはおまえの商売には乗らねえ。おまえは豆を広めるはずだ。商売になるからだけじゃねえ。おれ自身、この豆がほかの地域でも育つようにすれば、栄養失調だの貧困だの大陸間航海での食糧問題だの、いろんな問題が解決するってわかってる――それがいいことだってこともな。だが、そんなことをしてみろ。信仰が集まれば集まるほどおれの力は増していき、おれは自制できなくなって、最後はドカンだ。狂っちまう〉
――レイチェルとソーマの会話で、僕は臆病な精霊がレイチェルを拒んだ理由を理解した。僕を気に入った理由も。僕はソーマと似ているから――ソーマは僕を少し過激にしたような性格をしているのだ。だから、僕がレイチェルを気に入らないのと同様に、レイチェルのことが気に入らない。五年前の一件で、多少は分かり合えたけれど、それでも根本的に相容れぬ存在なのだ。
でも、今回ばかりは僕はレイチェルの肩を持つ。約束だから――だけじゃない。
「……ソーマさん。これはレイチェルだけじゃなくて、僕からの頼みでもあるんです。僕はその、世界を変えるとか、そんな大それたことは考えてないんですけど」
というか、レイチェルが貧困を解決すべく、ソーマを求めているだなんて、想像もしていなかった――これは僕の想像力の問題だけど。彼女は五年前もずっとそのために戦っていた面もあるわけだし。彼女がソーマに目をつけ、僕のもとへとやってきたのは、商売人が商売のタネを見つけたからというのもあるだろうけれど、もしかすると勇者が聖剣を求めてやってきた――というのが正解だったのかもしれない。
「まあ、ややこしい個人的な事情がたくさんあるんですけど、もう全部とっぱらって素直に言うと、……僕のせいで大切なものを失ってしまった僕の妹を助けるために、豆がいるんです」
お願いします、と頭を下げる。となりでプリムも同じように頭を下げたのが分かった。
「お願いします、神様。――あたしの義妹になる子が、たいへんなんです。いえ、たとえ義妹じゃなくても、あたしは彼女のことを友達だと思ってるし、とってもいい子なんです。いろんなことを我慢しながら、自分のやるべきことをやってきて……でも、心が耐えきれなくなっちゃったんです。いい子なのに――いい子だから。お願いします。あたしは――ジーンちゃんを助けたいんです」
〈泣き落としか? おまえ、おれがそういう話に弱いのわかって言ってるだろ。事情は聞かねえぞ、甘い対応しちまうから〉
そういう反応がすでに甘さの表れなのだけれど、それは言わないでおく。
〈クソ。ホント、おまえを智者にするんじゃなかった――。いいか。育成可能圏は広げねえ。これは絶対だ。豆の取り扱いも従来通りだ。流通範囲もナラム地域のみ。それ以外の場所じゃ、豆はすぐに腐る。乾燥させたとしてもだ。これも従来通り。例外はバーに加工した携行食だけ。――これらに加えて、特別にソーマの粉を持ち出すことを許す。今までと違って、ナラム地域を出てもすぐには腐らねえようにしてやる――ただし、あくまで帝都に運び込む場合に限って、だ。それで妥協しろ〉
帝都ではソーマ粉を使うことができる、ということ。だけど、それだけじゃだめだ。
「……流通経路の拡大を願います」
〈ああ!? ダメに決まってんだろ! おれが信仰されちまう!〉
「どうしても、ですか」
〈ああ、どうしても――だ!〉
僕はレイチェルを見た。レイチェルは肩をすくめて僕を見た。任せる、と言われた気がした。勝手にやってくれ、と。だったら、やってやろう。
「……ソーマさん。そこのレイチェルは、流通のプロであり、料理のプロです」
〈知ってるさ。おまえよりうまいんだろ? 性格は最悪だが〉
「ええ。僕よりうまいし、知識もある。この世界にはない食材を生み出す能力も持っている」
〈……この世界にはない? おれのチートみたいにか?〉
「いえ、豆とは違って、彼女自身の知識と技術によるものです。彼女は自社牧場でフォアグラを作り上げ、流通にのせています。――だよね?」
「ええ。貴族向けの高級食材として、数を絞って販売しております。自信作ですのよ」
〈……フォアグラ、だと。いや、だが、おれはその程度じゃなびかねえ。出回ってるんなら、自分で金払って買えばいいんだしな〉
長い時間をナラム地域で閉じこもって過ごしてきたソーマには、数少ない楽しみがある。心のよりどころと言っていいかもしれない。降霊状態の彼は、巫女の肉体のフィードバックを受ける――つまり、この状態の彼には味覚がある。行商から手に入る珍しい食べ物は、彼にとって最高の癒し。
つまるところ、ソーマはお取り寄せグルメが大好きなのだ。
「ソーマさん。地球の食べ物で食べたいものはなんですか?」
話の流れを理解したのだろう。レイチェルが営業スマイルを瞬時に張り付けて乗ってきた。
「わたくしの知識と経済力があれば、たいていのものは再現できますわよ?」
〈……たいていのもの、か。なるほどたしかに、ゾトの知識にあるノックアウトバーガーを見ればわかる。その辣腕は認めよう〉
ソーマは値踏みするようにレイチェルを見た。
〈だが、いくらおまえと言えど――豆腐は無理だろう? おれの食いたいものはそういうものだ。どうやって作られているのかさえ分からないような――〉
「できますわよ? 豆腐。けっこう簡単に」
あっけらかんと言い放つ。豆腐――か。
〈いや、だが、以前マリウスは無理だって言っていたぞ?〉
「そうなんですの?」
「ナラム地域では無理じゃないかな、とは言った。内陸だから、にがりが手に入らないし」
豆腐は大豆の汁に『にがり』という凝固剤を加えて固めて作るのだけれど、にがりは海水から塩を精製する過程で生まれるものだ。それゆえに、ナラム地域では難しい――と判断した。
「レイチェルなら海から余裕で運べるだろ?」
「ええ、ナラム地域までにがりを輸送することは可能です。ですが、もっと簡単な話ですのよ」
はあ、と呆れたように息を吐いて、彼女は続けた。
「にがりが手に入らないなら、別の凝固剤を使えばよかったのです。豆乳のたんぱく質をゲル化させられれば、にがりでなくとも豆腐にはなりますもの。ホオズキなどの葉の絞り汁や、石膏を溶いた水なんかで十分代用できますわ。そもそも、ナラム地域は岩塩が採掘できるでしょう。それなら塩化マグネシウムも同時に――」
「――ありがとう、レイチェル。十分わかった。まあそういうことです、ソーマさん。彼女は本当の意味であなたの望みに応えられる人間です」
すくなくとも、豆腐イコールにがりで思考停止してしまった僕なんかよりも、はるかに。
〈……なるほど。たしかに、おまえより格上の料理人だってのはわかった。豆腐は魅力的だ。豆なら死ぬほど採れるしな〉
だが、とソーマは一言置く。
〈みそ汁と米とトンカツ、なんてのはどうだ? ちゃんとトンカツソースもつけてな。どうだ、さすがのおまえもトンカツソースの作り方は――〉
「もうありますけど」
〈――なんであるんだ? こいつは未来予知でもできるのか?〉
僕に聞かれても。ただ、ハーマンの屋台のウスターソースはトンカツソースの原型だから、レイチェルならさっさと作り上げてしまうだろう。
「ソーマさん。もちろん、あなたの不安はわかる。レイチェルは有能だ――それゆえに、ソーマさんは恐ろしいんだ。自分の豆が、自分の能力以上に広まってしまうから。自分が抱えられる信仰以上に。だから――提案です」
大切なのは、ここから。レイチェルが目を眇めて僕を見る。
「どうでしょう。レイチェル・タイムとナラム氏族の間に僕、マリウス・アントワーヌが入って、ソーマの流通をコントロールする……というのは。レイチェルは今までよりも豆を取り扱える。ソーマさんはレイチェルの知識と技術、輸送網を用いていろいろなものを食べられるし、ナラム氏族も経済が活発化して豊かさを増すことでしょう。だけど、決して信仰が集まりすぎないよう、コントロールする……」
「あなた、最初からそれが狙いでしたのね。仲介手数料で儲けたい、と」
レイチェルは冷たく言った。――けれど、その顔にうっすらと浮かんでいるのは微笑みだ。張り付けられたような――ではない、本当の笑顔。
「ですが、いいでしょう。わたくしとしてもソーマを取り扱えればそれでかまいませんもの。マリウス・アントワーヌ――あなたの策に乗りましょう」
わざわざ僕の名前をフルで読んだあたり、彼女は僕の本当の思惑に気づいているのだろう。そのうえで、乗ってくれている。
〈……むう。まあ魅力的な提案ではある。だが、おれがどこまでの信仰に耐えられるか、どこまで精神を病まずにいられるか――それがわからんのだ。簡単に首を縦に振って、ちょっとだけのつもりで地域を広げて、そのちょっとで正気を失うラインを超えちまったら? その『ちょっと』がおれの最後の防波堤を超えるかもしれんだろう〉
「……ソーマさん。少なくとも、僕はそれはないと思っています。いえ、正直に言うと――僕はあなたなら悟りに至れると思っている」
俗な精霊は自嘲するように笑った。。
〈――は。おれが昇神するって? なんでそう思う? こんな低俗なおれが、だぞ?〉
「そうでしょうか」
挑むように、問いかける。
「あなたは二千年間も、あの地域を守ってきた。それが答えじゃないですか? あなたはできるんです。少なくとも、人間の精神なら到底不可能なことだったと、僕は思います」
それゆえに、だ。
「すでにあなたは、半ば悟りに至っている――のでは? あとは信仰さえ集められれば、神に至るのではないですか?」
〈それはおまえの勝手な想像だぞ〉
「ええ。ですが、ゾト様をはじめ、氏族の皆様はおっしゃっていました。いずれ神に至るはずだ、と」
〈期待が重てえんだよ! おまえらは! いっつもいっつも!〉
精霊は浮遊をやめ、ソファに着地して膝を抱えた。
〈……おれだって、やってやりてえさ。だけど、無理だ。期待されても、おれの心は神にはなれねえ〉
たしかにそうかもしれない。だけど、だからこそ期待されているのだと、僕は思う。
「至れますよ、きっと。大丈夫です」
僕のこれは無責任な期待だ。だけど、ナラム氏族のみんなから送られている期待は、そうではない。――彼らは精霊の家族であり。彼らだけは、ソーマに実力以上の期待をしてもいいのだ。ソーマなら応えてくれると信じているから。
「僕のことは信じなくていいので、氏族のみなさんを信じてあげてください」
〈……もし、おれが悪精に堕ちたら、おまえらなんとかしてくれるか?〉
弱々しく、精霊は言った。僕は頷いた。
「そのときは、僕が氏族のみなさんを守りますよ」
「あたしも、できるかぎり手伝う」
レイチェルが手を上げた。
「では、そのとき、わたくしはソーマ様を殴りましょうか。――正気に戻るまで」
〈……この女、どうかしてるぜ〉
ソーマはレイチェルを見て苦笑した。僕もそう思います。
〈いいか。粉だけだ。豆本体はだめ。粉と、粉の加工品に限っては、ナラム地域以外での流通を認める。また、流通にあたってはタイム家がその輸送のすべてを管理し、そこに過度な力が集中しないよう、アントワーヌ家が監査すること。これが最大限の譲歩だ。それ以外は今まで通り――それでいいな?〉
是非もない。僕らが頷くと、ソーマの気配がすとんと抜け落ちて、ゾト様の意識が戻ってきた。
「……と、いうことでよろしいな?」
巫女は首を回しながら言った。
「やれやれ、いまの話をナラムに持って帰り、疾く準備をせねば――忙しくなりそうだわい」
「すいません。勝手に……」
「いやいや」
と、ゾト様は手を振った。
「ソーマ様が昇神を目指すというのであれば、是非もない。それはわらわたちナラム氏族の悲願でもあるからのう」
ゾト様は軽く頭を下げた。
「ありがとう。わらわの先祖の夢が、ようやく叶いそうだ」
そんなゾト様に、僕はおずおずと「あのー……」と声をかける。
「うむ? なんだ? 一回ナラムに帰りはするが、おぬしを諦めたわけではないからの」
「いやそれはさっさと諦めていただきたいんですけど、そうじゃなくて。――ゾト様、いまソーマ粉を持っていたりしませんか?」
これはダメもとで聞いている。ナラム地域を出て数日で腐る粉だ――いま持っているわけがない。
「……入用なのか?」
「はい」
「ふむ。なら、二か月……いや、三か月後を待つのじゃな。一度戻り、またやってくるときに持ってこよう。すでにソーマ様による豆の改変は完了しておるから、持ち出しても腐ることはないはずだ」
やはりそうか。だけど、三か月後じゃ遅すぎる。僕は六日後にシャルワ家に連れていかれることになっているのだから。
「……なんとか、六日後に手に入れる方法とか、ないでしょうか」
「六日!? いや、なに無茶言うとるんだ、おぬし。往復だけで最低二か月はかかる距離だぞ」
「……ですよね」
どうしたものか――と悩んでいると、レイチェルがにんまりと嫌な笑みを浮かべた。おい、まさか。
「さて、マリウス・カリム……もしもわたくしなら六日後までにまとまった量のソーマ粉を調達できるとしたら――どれくらいの貸しにしていただけます?」
その時、僕は心の底から嫌な顔をしていたのだろう――レイチェルの嬉しそうな顔で、それがよくわかった。
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